つむぎうた

前編


(『海の鷹』――どうか僕に、ほんの少しの勇気をください)
 あなたが荒ぶる海に立ち向かった時のように。
 あなたが海の化け物(クラーケン)を討伐せしめた時のように。
 あるものを探して、シオは机の引き出しをあさっていた。士官学校で使ったノート、毛羽立って使わなくなった羽ペンや、最早どうしてとってあるのかもわからないガラクタのような鉄屑など、引き出しの中を占領していたものを、そっくりそのまま床にばらまいていく。
(このままマレアと別れたら、僕、ほんとうにただの馬鹿で終わってしまう!)
 そうしてようやく引き出しの一番奥から現れた、くしゃくしゃの封筒を摘み上げた。
「あった……!」
 卒舎の折りに、マレアが贈ってくれたものである。乱暴に封を開いたせいで無残な姿をした封筒に、シオはようやく、申し訳なさを覚えていた。
(ごめん。ごめん、マレア……)
 心の中で呟いてから、シオはそれをポケットに突っ込むと、ランプを引っ掴み、部屋を飛び出して行った。

***

「シオ、この葉の名前を知っている?」
 母と手を繋ぎ、風吹く野原を歩いていた。母子二人だけの青空教室の時間を、幼い頃はとても楽しみにしていたのを覚えている。
 花穂を揺らすその草は、六つのシオの背よりも高い。しゃんと背筋を伸ばしたような芯のある茎に、長細い一枚葉がすっくと天を突いている。
 シオはこくんと、細い首を揺らして頷いた。知っている。その葉の名前は、憧れの騎士団の名と同じなのだから。
 「ラーミナの葉っぱ!」とシオが元気よく答えると、オーベル女史は微笑みながら、その葉を一枚ちぎり取る。
「その通り。戦争が続いた昔の時代はね、この長い葉を細く裂いて、戦場へ赴く大切な誰かの無事を祈り、その思いを編み込んだお守りを作ったのよ」
「おまもり?」
「そうよ」
「『海の鷹』も持ってたの?」
「もちろん。『風売り(サジバンナ)』である彼の奥様が、『海風(サジ)』を一緒に編み込んだ、特別なお守りをね」
 息子の横にしゃがみ込み、オーベル女史はちぎった葉を太陽に翳してみせる。
 緑の葉が透け、きらきらと輝いて見えた。幾筋も走る葉脈は、まるで人間の血潮のように、命の熱を湛えている。母の話を聞きながら、シオは胸がどきどきと高鳴っていた。
「さて、問題です。どうして、このラーミナの葉を使ってお守りが作られたんだと思う?」
 問われ、シオは首をひねった。
 その愛らしい仕草に、オーベル女史はシオの柔らかな髪を撫でた。
「よく見て。ラーミナの葉の形、何かに似ていると思わない?」
 もう一度、今度は反対側に首をひねり、シオは「ううん」と唸った。
 ぴんと伸びた、細長い緑の一枚葉。その縁は鋭く、すっと指を滑らせれば、柔い肌など簡単に切れてしまいそうだ。
 ――切れてしまう?
「あっ!」
 わかったぞというように、きらきらした目でオーベル女史の顔を見上げた。閃いた答えを早く言いたくて、しかしもし間違っていたらと思うと気恥ずかしくて、手招きをして母を近くに呼び寄せる。そうして近づいた母の耳に、シオはそっと耳打ちした。
「あたり!」
 オーベル女史はシオを抱きしめ、「よくわかったわね」と頭を撫でた。シオは誇らしげに、えへんと胸をはってみせる。
「だからこそ、アヴニール王国の騎士団の名の由来ともなったのよ。未来を切り開き、また大切な誰かを守る象徴としてね」
 オーベル女史の持った、ラーミナの葉の表面に触れてみる。
 その時シオは、確かに鼓動を感じたのだ。
 長い時を経て紡がれてきた想いの数々が、この葉に宿っているかのようだった。
「もっとずっと昔には、その姿形から、ラーミナの葉は違う名前で呼ばれていたの。その名前はね――」
 さあっと野原をなぜる風が、そここに茂るラーミナの葉を揺らして駆ける。しかしシオの耳に届いた母の言葉は、強い風に攫われることなく、しかと心に刻まれた。

***

(僕は、とても弱い)
 マレアのように、何かにひたむきになれる勇気がなかった。体力も剣の腕も人並み以下、「『海の鷹』のようになりたい」と言っていたのに、結局口先だけであった。周りの雑音に傷付き、恐れ、いつしか自分を守ることしか考えなくなっていたからだ。
 シオはマレアからの贈り物を入れたポケットに触れた。不思議とこそだけ、熱を帯びているように感じられる。
(君は……どんな想いを、編み込んでくれたんだろう)
 彼女とよく遊んだラーミナの葉が群生する野原に立ち、シオは静かにそう思う。ポケットから取り出したそれは、きれいに編まれたラーミナの葉のお守りだった。
 さらさらと揺れる草花と、凛とした虫の音が、夜の歌を奏でている。天鵞絨(ビロード)の闇を彩る星屑が、柔らかい光をシオの手元に落としていた。
(――未来を切り開き、また大切な誰かを守る象徴……、か)

***

「――っこの、お馬鹿! いつまで寝ているつもりなの!」
 オーベル女史の怒鳴り声に、シオははっと目が覚めた。一瞬、自分が今どこで何をしていたのか分からなかった。ベッドの上に散らばった葉屑を見た途端、シオは一気に覚醒する。
「か、か、母さん! 僕、寝過ごして……!?」
「間抜けな声出してないで、早くお行き! マレアちゃんが行ってしまうよ」
「どうしてもっと早く起こしてくれないの!?」
「何度も起こしたわよ!」
 慌ててベッドを降りながら文句を言えば、母にぴしゃりと怒られた。窓からはもう明るい陽光が差している。急がなければ、劇団カミノ座の旅立ちに間に合わない。
 シオは夜なべして作っていたものをポケットに突っ込んで、躓きながら靴を履く。服はすっかり皺だらけで、頭はひどい寝癖がついていたけれど、かまわず部屋を飛び出した。
「シオ!」
 玄関扉を開いたところで、後ろから呼び止められる。オーベル女史が親指を立て、にやりと笑ってこう言った。
「しっかりやりなさい」
 ほんの少しだけ耳を赤くしながら、シオも同じように親指を立てて頷いた。
 前を向く。開いた玄関扉の先は、眩む光に満ちていた。

「――っ、マレアっ!」
 王都へ向かう街道に通じる門の外に、劇団カミノ座の一行はいた。劇団員や舞台装置を積んだ荷馬車が幾つも連なり隊列を組んで、今にも出立しそうな雰囲気だ。
「マレア!」
 声を上げて、シオは幼馴染の名を呼んだ。力の限り走ってきたせいで汗は吹き出し、荒い呼吸に激しく肩が上下する。「何事か」とざわめくカミノ座の団員たちが、好奇の視線で見てくるものだから、おまけに顔も真っ赤になる。見回すことに必死になり、足元の意識がまったくお留守になっていたものだから、何度も荷馬車の轍に躓いた。
「……シオちゃん?」
 探し求めた幼馴染の声に、シオは勢いよく振り向いた。
「やっと、見つ、けた」
 切れ切れの言葉を呟きながら、シオはほっと息を吐く。なんとか、マレアの旅立ちに間に合ったのだ。
「ちょっと、こっちへ来て」
 おずおずと荷馬車の影に隠れていたマレアの手を引き、シオは隊列から少し距離を取った。マレアは黙って付いて来てくれる。しかし足を止めてシオと向かい合ってもなお、彼女は何もしゃべらなかった。俯く彼女の表情は、長い巻き毛に隠れて見えない。
「マレア……?」
 不安になり、シオはそっとマレアの顔を覗きこむ。そうしてぎょっと、目を瞠った。
「ど、どうして泣いているの?」
 マレアは、ぽろぽろと涙をこぼして泣いていたのだ。しゃっくり上げそうになるけれど、唇を噛んで耐えている。細い指で服の裾をきゅっと握りしめるその姿は、とてもいじらしく見えた。
「……マレア、怒ってる?」
 卒舎の祝いを突っぱねてしまった。王都への旅立ちを告げられたときも、一緒に喜んですらやらなかった。そのうえ、彼女の夢であった『翼の君(スパルナ)』を演じた昨日の公演のあと、一言だって話しをしていない。
 自分のことばかりを考えて、マレアにはずいぶん酷いことをしたように思う。
 しかし恐る恐る問うたシオの言葉に、マレアは激しく首を振った。
「ちがうの、怒ってなんかないわ! 私……もしかしたらね、シオちゃんが見送りに来てくれないかもって、思っちゃって。さようならも、言えないかもって……」
 大粒の涙を流しながらもしっかりシオに顔を向け、マレアはふにゃりと笑ってくれた。
「ごめんね。来てくれて、本当に嬉しい……ありがとうね」
(謝るなよ)
 シオはゆるく、首を振る。
(謝らなきゃいけないのは……僕の方だ)
 彼女の優しさが、シオの矮小な心根をちくりと突いた。言いたいことはたくさんあるはずなのに、ちっとも言葉が出てこない。
「次に会えるのは、いつになるのか分からないけど……元気でね」
 カチカチに凍ってしまった氷のように、シオの体は動けなかった。マレアはそんなシオの手を取って、そっと握りしめてくれた。
 温かい。彼女の心に灯る優しい火が、シオの心にも燃え移る。
「じゃあ……私、行くね」
 手が離れそうになる。
(いやだ)
 離さないで。
(僕、まだ何も伝えられてない――!)
「――っ、シオちゃん?」
 気付けば、マレアの手を強く握り返していた。
「聞いて。……僕、強くなるよ」
 マレアの涙の浮かんだ瞳に、決意を秘めたシオの瞳が映り込む。
「たくさん勉強して、修行して、『海の鷹』が言っていたように、正しく騎士としての行動に努めるよ。弱音だってもう吐かない! 頑張って、頑張って、マレアが返ってくる前に、絶対に一人前の騎士になっているから。マレアみたいに――『夢』をかなえてみせるから! だから……――!」
 いつの間にかシオの手は、彼女の手に握り返されていた。
 マレアはもう、泣いてはいない。代わりにとても嬉しそうに、柔らかく微笑んでいた。
「うん。じゃあ、シオちゃんが『夢』をかなえたら、私がそれを伝えていくわ。詩を書いて、歌って、一生懸命にこの時代を生きた騎士がいたんだって、後の時代に語り継ぐ」
 誰かの意志。誰かの決意。愛や、喜び、悲しみ、生きた証の全てを、未来へ向かって紡いでいこう。
「約束よ」
 握った手を放し、今度は小指だけを繋いだ。
「約束だ」
 ゆびきりげんまん――少年たちの密かな、しかし大きな決意に満ちた約束は、照る陽のもと、確かにここに交わされたのだ。
「そうだマレア……これ、お礼言うのが遅くなった。ごめん。……ありがとう」
 シオは手を離すと左の袖を捲り、彼女から貰ったお守りを見せた。マレアが「あっ」と目を瞠る。
「ううん、付けてくれてありがとう。きっとこれから先、危険な騎士のお仕事があるかもしれないから……シオちゃんが無事でいられますように、って思いを込めたのよ」
 照れくさそうにしながら、マレアは言う。そのはにかむ可愛い姿に、すぐにお礼を言わなかったことを、シオは心底後悔した。
「実は……僕も、作ったよ、君に」
 おもむろにポケットに手を突っ込み、シオは昨日夜なべして作ったものを取り出した。
 ラーミナの葉のお守りだ。
 マレアが作ったものより、はるかに拙く、不格好だけれども。想いだけは、しっかり編み込んだつもりだ。
「シオちゃん、これ……」
 受け取り、マレアは再び涙ぐむ。それはすぐに溢れ、雫となって頬をすべった。
「マレアが無事に王都に付き、そしていつか、この町へ帰って来られますように。マレアの良き未来を――切り開いてくれますように。それから、」
――いつか、大切な君をしっかり守れるくらい、強く在れますように。
 最後の想いだけは、心の中でだけ呟いた。マレアは首を傾げたけれど、シオはにやりとするだけで、密かな誓いは己の心にのみ刻みつける。
「そうだ、マレア。どうしてラーミナの葉がこの国の騎士団の名前になったか、知っている?」
 マレアは首を横に振った。
 風が吹く。野原に茂るラーミナの葉のざわめきが、シオの耳にも届いてくる。
 このざわめきを、きっとこの場所で、過去の誰かも聞いていたのだろう。
 名も知らぬ誰かは、何を想い、何をこの葉に込めたのだろう。
(――きっと、僕らと同じはずだ)
 幸せな時を。幸せな未来を。大切な誰かと共に在れるようにと、願ったに違いない。
「『ラーミナの葉』――古い言葉で言うと、『つるぎの葉』。この国の全ての人の未来を切り開く、一本の剣(つるぎ)のようだからなんだよ」
――『つむぎうた』にたい杏

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