旅の歯車


001 : 時計

 この大時計は世界の要。けっして壊すことはできないし、もしそうなれば、それは即ち世界の傾きをあらわす事だ。
 そう何度も言い聞かせられ、少年がこの大時計を守り始めてから二十年という歳月が経っていた。
 ぼさぼさになったままの髪を手で軽く梳って、一つ大きな欠伸をする。
 少年は、二十年経った今でも少年のままだった。時計の守り人に、この世界のあらゆる呪縛が付きまとうことはない。勿論「時間」だとて例外ではなかったから、彼の姿は、先代の守り人の急逝から十五年間何一つとして変わっていなかった。時計の守り人である自分が時間の束縛を受けないとは、なんて皮肉な話なのだろう、と、少年はよく思う。
 まだ彼が十歳の時、少年は戦災で家族のすべてを失った。これからどう生きていこうかと絶望していたところにやってきたのが、この大時計の先代守り人だ。
 彼は、生きていたいか、と、始めに尋ねた。迷わなかった。うん、と首を振った。
 先代の守り人は満足そうに頷いて、それからのことはもうあまり覚えていない。幼少の頃のことであったし、何より、それからは仕事を覚えるのに必死で、自分のおかれた環境をじっくり吟味する時間など少しもありはしなかったのだ。
 少年はふと、自分の目の前に立った大時計を見て自嘲した。これで良かったのかはわからない。けれど、生きようと思うなら、あのときはこれしか方法がなかった。
 ――本当にこれしかなかったのか?
 彼はそう自問する。
 本当にこれしか道がなかったのだろうか? 一日中この部屋の中で世界の均衡を司るという時計を見張り、空腹も感じぬまま、ただ姿形だけがあの頃のままで……
 
 少年は部屋を出ると、屋外にある小さな広場へむかった。それから、その中心に置かれた塚の前で黙祷する。これも少年の日頃の習慣の一つで、先代の守り人に聞いた話では、これが歴代の守り人の共同墓地なのだということだった。今では、それを教えた彼自身もこの下で眠っている。いつかは自分自身もここで眠ることになるのだろう。その事について、少年は疑いを持ったことがない。
 時の制約は受けずとも、いつか死期は訪れる。そうなれば自分も次に時計を守るものを探し、必要なことを教え、伝えていかなくては。
 死期の訪れが、予期できるものなのかどうかはわからない。けれど、きっとその時にはどうにかなるのだろう。しっかりとした確証はなくとも、少年はそのことを何とは無しに理解していた。この時計の前では何もかもが、見えない大きな力に支えられて成り立つ。心配をするだけ無駄というものだ。
 少年は近くに生えていた木から実を一つもぐと、それをかじった。独特の酸味が口に広がって、喉が潤う。美味しいとは感じたが、そこに満たされる思いはなかった。まだただの人であった頃は、もっと色々なものを食べ、色々なことを思っていたのに。最近では、もとよりものを食べるという行為も減ってしまった。
 その実の三口目をかじった瞬間、ふと、体の中で痛みを感じた。まるで鋭利なナイフで斬りつけられたかのような、静かで深い痛み。音で表すなら、真新しい鏡を割った時のそれだった。
「っ――?」
 いやな予感がして、時計のある部屋へ大急ぎで戻る。何か問題が起こったのだろうか。この十五年間、これといったことは何もなかったのに。
 扉を開けたままの姿勢で、少年は驚いて息を呑んだ。いつもならただ時計があるだけの無機質な空間であるそこに、今日はあろう事か一人の人間が立っていたからだ。
 年の頃まではわからないが、真っ黒な衣服を身にまとっている。何をしているのか訪ねようとして、少年は自分がもう何年も言葉を発していないことに気づき、ほんの一瞬躊躇する。
 ふと、相手が振り返った。手に何か細長いものを持っている。あれは……
「秒…針……」
「……へえ、時計の守り人でも言葉は話せるのか」
 相手は笑った。声から察するに、男だ。少年はその満足げな声にぞっとするものを感じ取ったが、恐れることはしなかった。必死に言葉の出し方を思い返しながら、やっとのことでこう言った。
「針……を、返せ……!」
「それは無茶な注文だ。せっかくこんな辺境の地まで訪ねてきたっていうのに、手ぶらで帰れということか?」
「おまえ……それが一体何なのか、わかっていない」
「わかっているさ。この時計が、世界の時間を司っている。そのどこか一カ所にでも欠陥が出れば、世界はいったいどうなるかな……。だが、だからこそ俺はこれを破壊しに来たんだ。こんなものは、もう必要ないからな!」
 相手はそういって、それを両手でパキンと折った。何千年も、何万年も前から守られてきた時計の針が、たった今少年の前で二つに分かれてしまったのだ。
 「なっ……」
 少年が口を開くか開かないかの一瞬で、その針を光が覆った。それからまたパキンと、何かの折れる音。
 「やめろ……」
 光がいっそう大きくなった。
 「……やめろぉぉ!」
 光が最後に一度はじけて、それが終わりだった。少年の絶叫の後には既に、折れた秒針もなく、謎の人物もなく、ただ何もない静寂と、おかしな虚無感だけが残っていた。

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