第四章 嵐の訪れ -1-
「傑作だな。他人に利用されて生きてきたかと思えば、最期は、誰かに利用されなければ死ぬことすらできないなんて」
笑い声が、トビトの脳裏を渦巻いていた。
いつもの夢の断片であった。深く静かな闇の中。薄ら氷の張った、凍てつくような水面に浮かんだトビトは、感慨もなく、ただ頭上に広がる満天の星を眺めていた。
誰かが水中から、柔くトビトの足を引く。身体が少しずつ沈んでいくのを感じながら、しかしトビトは抵抗しない。
「ああ、良かった。イナンナはまるで善人なんだもの。彼女の思惑通りに行けば、共和国と鉄塊の島民の全面衝突を避けられるかもしれないだなんて。そんな偉業を成し遂げたら、みんな見直してくれるかな。自ら死を望んだとは言え、自分で手を下すわけでもない。神の国への門も、きっと容易に開くだろう」
視界が水中に沈んでいく。冷たい水がトビトの手足にまとわりつき、その自由を奪っていく。口を開けば、ごぽりと最後の息が溢れ出た。
(母さんも、こんなふうに苦しかったんだろうか)
極寒のナフタリで、凍てつく湖に落ちた彼女は、──足を潰された時のトビトのように、助けを求めて叫んだろうか。助かろうと藻掻いたろうか。そんな事を考えるトビトの足を、その体を、ずるりずるりと引く手がある。
「だけど案外強かじゃないか。この期に及んで、ついに他人を利用することを覚えたなんて。──それも、他人のために奔走する、あんな善人を」
トビトの声がそう言った。
真まで冷える水の中、薄っすらと目を開いたトビトは、氷塊に映った己の姿をじっと見た。オルガニストの着る祭服に、袖のない綾織のローブ。錦糸の頸垂帯を肩から垂らすのではなく、首を絞めるように巻き付けたその表情は、蒼白だ。
(何がいけないんだ。構わないだろう、だって僕達は──、互いを利用しあう、そういう約束をしただけなんだから)
とん、とん、とテンポよく、トビトの胸を叩く優しい手があった。
薄暗いアパートの一室、見慣れた染みのある天井。だがぼんやりと目を明けて、ふと違和感に黙り込む。視界が明るい。眠る際、ガスランタンの灯りを消し忘れてしまったのだろうか。小火など起こしては大事になる。消してしまわなくては。しかしそう考えて光源に手を伸ばそうとし、トビトは、──ふと聞こえたその声に、ぎくりと肩を震わせた。
「ああ、おはよう」
穏やかな声でそう言い、トビトを見下ろしたのはイナンナだ。トビトの眠るベッドの端に腰掛け、まるで赤ん坊を寝かしつけるかのようにその胸を叩いていた彼女は手を止めて、「起こしてしまったかな」と遠慮がちにそう問うた。
「まだ夜明け前だ。もう一眠りしたらどうだ」
「……、あんたは眠らないの」
覚醒しきらぬ頭を振り、目をこすりながら、むくりとその場へ身体を起こす。見ればイナンナは光量を絞った灯りを手元に置き、何か工具を扱っていたようだ。銃の手入れは終えていた様子だったが、他にも何かあるのだろうか。
昨晩。夜更けにイナンナを追い出すようなこともできず、泊まっていくかと問うてみれば、彼女は迷わず頷いた。ソファを貸してもらえれば十分だと言って譲らないイナンナに、せめてと掛け布団を渡したはずだが、いつの間にやら、布団はトビトのもとに戻っている。気の利かないトビトには、何が正解だったか今ひとつ判断がつかないが、ここでは眠れなかったのだろうか。しかしイナンナは「もう十分に眠ったよ」と笑うと、くしゃくしゃとトビトの髪を撫でた。
「君こそ、たいして眠ってないだろう。クマが酷いとは思っていたが、まさか毎晩こうなのか?」
問われて、しかし意味がわからず眉を顰めると、髪を撫でる手を避けた。誰かに髪を撫でられるなど、故郷を出て以来のことだ。優しげな手付きに嫌な気はしなかったが、子供扱いされているようで、気恥ずかしい。
「こうって、何が」
「覚えてないのか? なんだか君、水辺にいるわけでもないのに、今にも溺れて死んでしまいそうだったんだよ。──先に死なれちゃ困る。君には、私の共犯者でいてもらわなきゃ」
夢の内容を言い当てられたかのようなその言葉に、トビトは小さく声を漏らした。自覚はなかったが、魘されていたか、寝言でも言っていたのかもしれない。
──だけど案外強かじゃないか。この期に及んで、ついに他人を利用することを覚えたなんて。
ふとその声を思い出し、咄嗟に彼女から顔を背ける。きょとんとした様子でそれを見るイナンナを視界の端に捉えながら、己の行動をごまかすようにカーテンへと手を伸ばせば、未明の空にはまだ星が輝いていた。
「うるさかったなら、ごめん。僕はもう仕事に出るから、まだ休んでいたかったら、好きにして」
「仕事? こんな夜中から?」
「明け方の礼拝の前には、神殿についていなくちゃいけないから」
それは事実である。神殿仕事の朝は早い上、トビトの足では、どうしたって人に比べて移動に時間がかかる。もうそろそろ義足を履いて、最低限の身なりを整え、出かける準備をせねばならない。しかしソファの脇に立てかけてあったはずの義足に手を伸ばし、そこに求めた物がないのを見ると、トビトは眉間に皺を寄せた。時たま、眠っている間に義足が倒れて、ベッドの下に潜り込んでしまうことがあるのだ。今朝もきっとそうであろう。手探りで義足を探すトビトの一方で、「ところで」とイナンナが無邪気に言葉を挟む。
「昨日の食事の御礼をさせてくれ」
「……、料理はできないんじゃなかったの」
「そうさ。だから得意分野でお返しするよ」
悪戯っぽい口調でそう告げた彼女は、ガスランタンの灯りを強め、脇に置いていたらしいトビトの義足を取り出した。何故イナンナが持っているのだろうと思いながら手を出せば、彼女はそれをトビトに渡しながら、こんな事を言う。
「トビト。君が歩く時に足を引きずるのは、義足のサイズがあっていないからだ。長さが足りず、心許ないから、無意識に杖を頼って前屈みになる。そこで、」
「そこで?」
「勝手ながら、君の義足に細工をさせてもらった」
言われて初めて、己の手に持った義足をよく見れば、鉄の棒の先端に黒い塊が貼り付いている。無言で頷くイナンナを見て、トビトは膝から下のない己の足を隠すように彼女へ背を向け、滑り止めの軟膏を塗って義足を履いた。そうして、促されるまま立ち上がる。
「グッタペルカの樹脂でできてる。銃の消音器を加工したんだ。歩いてみて。それなら君の体格に合うし、弾力がある分、地面に着いた時の足への負担も減ると思う。どう、気に入った?」
他愛もないその会話は、彼女なりの気遣いなのだろう。昨晩、青ざめるトビトの肩を撫で、とりとめもない身の上話をするトビトの言葉を促した、イナンナの手の暖かさを、トビトは既に知っている。
「あと三日しか、使わない足なのに……、」
「三日役立てば十分だ。良い三日間にしよう、お互いに」
ダムガルを殺すのは、三日後の裁判の日にしようと二人で決めた。その日、トビトはいつものようにカルカントとして神殿へ向かい、秘密裏にイナンナを演奏台へと侵入させる。イナンナはバラクの自由を奪い、演奏台からダムガルを撃ち殺すのだ。
「その日のために、僕は残りの三日間、今まで通りの仕事をする。イナンナは今日、どうするの」
「そうだな、私は、……。ひとまず今日一日は、町の見学でもしていようかな。陸に上がってから今日まで、どうやってダムガルを殺すかばかり考えていたから、あまり陸地を楽しめなかったんだ。ずっと憧れていた場所だったのに」
ふと、彼女が神殿の内部を見て、感慨に耽っていたことを思い出す。裁判の最中にダムガルを殺すと明言した彼女は、その殺害の下見のために、神殿への立ち入りを希望したのに違いない。だが目の前のステンドグラスを、モザイク画を、数多の芸術作品を前に頬を紅潮させた彼女の感情は、それとは別物であったはずだ。
「わかった。……それじゃ、」トビトは言って、家の鍵をイナンナに手渡した。もう家を出なくては、礼拝に間に合わなくなってしまう。鍵は一つきりしかないから、出かける時に閉めてくれと告げれば、イナンナは一度鍵を受け取って、しかしすぐさま、それをトビトの手に返した。そうして取るものもとりあえず、「私も出る」と後に続く。
「不用心なやつだな。出会ったばかりの私に、家の鍵まで預けようとするとは」
「既に命を預けてるんだ。今更家の鍵くらい、どうってことでもないと思うけど」
トビトが即座にそう返せば、「それもそうか」とイナンナが苦笑する。
月の細い空にはいまだ星が輝き、寝静まった町を歩くトビト達の行く手を、煌々と見守っている。ふと見れば、今にも高層アパートの影に隠れてしまいそうなすれすれの空に、よく見知った春の星座が輝いていた。