吟詠旅譚
風の謡 番外編 // Blue Palette
Blue Palette -2-
勢い込んで開け放たれた扉から、押し入ってきたのはラフラウトであった。
あと少しで肖像画が完成するという時分であった。肖像画を乾燥させている間、カノンは余った絵の具で室内の絵を描いていた。多くの景色を知らないカノンは、目に見える物以外に想像を巡らす類のことが不得手であったから、よくそうして目に映るものをそのままに写し取ることをして、時間を潰していたのだ。だがその静寂を踏み荒らすように、その男は現れた。
何やら尋常ならざるようだと、カノンはすぐに察知した。部屋へ押し入ってきたラフラウトは、供も付けずに独りでおり、怒りに頬を紅潮させていた。そうして力任せに扉を閉じると、ぎろりと室内を見回し、カノン以外に人の居ないことを確認すると、まず一声、逆上の雄叫びを上げたのである。
こんなにも取り乱した姿を、カノンはこの時、初めて見た。同時にこれが最後でもあった。常であればこの男は、嫉妬や劣等の感情を剥き出しにする他者を見下し、せせら笑うことこそすれ、己の激昂をこんな風に現すことなどなかったのだ。だがこの時ばかりは、彼は手当たり次第に物を叩きつけ、手を腫らして柱を殴りつけ、床に落ちたカノンの絵の具を踏みつぶした。
「殿下、一体、……何が」
恐る恐るカノンが言えば、ラフラウトはぎろりとカノンを睨み付け、一言、憎々しげにこう言った。
「殺してやる」
ぞわりと背筋が粟立つのを感じ、咄嗟に数歩後ずさる。そうするカノンを追うようにして、カノンの腕をとるラフラウトのその視線は、憎悪の色に歪んでいた。
「殺してやる。アーエール、あの異端者め。クラヴィーア王家に居座る寄生虫め。ただでは済まさない。だが、――だが手の出しようがない。あいつは遠くマラキアの地と、聳え立つカランド山脈に守られている……。忌々しい、ああ、……忌々しい!」
カノンの腕を握る力が、段々と強まっていく。だが腕がどんなに痛んでも、それに抗うことなど出来やしない。力の問題ではない。ただ、
生まれてよりこれまでに培われた心が、この男への抵抗を許さないのだ。
「なあカノン。お前も同じはずだ。同じように憎いはずだ。あいつさえ居なければ、お前は正統の王子として認められ、王家に名を連ねていたのだから。なあ、憎いだろう? そうだろう、カノン」
有無を言わさぬその声に、恐怖から、思わず小さく顎を引く。それを肯定の意味と捉えたのだろう。彼はくしゃりと頬をゆがめると、そのまま、口内に含みのあるくぐもった声を上げ、低く、静かに笑い始めた。
「そうだ。おまえはいつも、私の言う通りにしてきた。私の手足。……私の模造品」
この日のことを、カノンはこののち、繰り返し思い出すことになる。いつだって沈着冷静な兄が、声を荒げてその怒りを露わにした日。ぎらりと光るその目には、憎悪と執着、そして紛れもない――狂気の色が浮かんでいた。一体何が、彼の心をそうまで波立たせたのかはわからない。
ただひとつ、カノンが知りうることと言えば。
「ラフラウト殿下。こちらにいらっしゃったのですね」
場に不釣り合いな、艶やかな女の声。驚いたカノンがぎくりと身を強ばらせ、慌てて扉を振り返れば、先程まではカノンとラフラウトの他に誰も居なかったはずのその室内に、一人の女が立っていた。
「あら、……貴殿が『カノン殿下』でいらっしゃる?」
真っ赤に紅を引いた、形の良い唇を微笑ませてそう言ったのは、ラフラウトの怒りと共に現れたのは、銀色の髪の女であった。
黒のドレスを身に纏った彼女は、躊躇う素振りもなくカノンのことを『殿下』とそう呼んだ。そうして、
タイトなドレスの裾に手を添え、恭しげに頭を垂れたのである。
「随行を許した覚えはない」ラフラウトは鬱陶しげに鼻を鳴らすと、彼女は「それはご無礼を致しました」と悪びれる様子もなく微笑み、続く言葉でこう話す。
「けれど鬼のような形相で行ってしまわれたものだから、少し心配になって」
無遠慮なその物言いに、カノンはまた肩を震わせたが、しかしラフラウトも最早、先程の怒りは形を潜めた様子であった。だが狂気までもがおさまったというわけではない。彼は振り払うようにカノンの手を離すと、乾燥させていた肖像画を見て、ふと、「そうだ」と低い声で嗤う。その直後、己の腰に帯びた剣を唐突に抜き放つと、自らの姿が描かれたその肖像画に、深々とそれを突き立てたのである。
「カノン。今すぐこれを、私の言うとおりに書き換えろ」
「はい」培われた服従心が、咄嗟にこの男の横暴へ返答を添える。銀色の髪の女は、口を挟まずただそこにいた。
「マラキアへくれてやる絵に、私の顔は要らん。お前の顔に書き換えろ」
「わ、私の顔、……ですか?」
「そうだ。せいぜい王族らしく描くがいい。このクラヴィーアの王子らしく、父上の息子らしくな。そしてそれを、このラフラウトの肖像画だと偽って、マラキア宮へ送ってやれ」
ラフラウトの表情が、昏く、深い、楽しげな笑みを象った。そうして彼はカノンの頬に手を添え、言い聞かせるかのように、「アーエールさえ居なければ、」と言葉を続ける。
「奴さえ居なければ、お前が当然、享受していたはずの姿だ」
「その時が来たら、父上は必ず、奴をスクートゥムへ呼び寄せるだろう。その時が好機だ。確実に罠に嵌めて、じわりじわりと殺してやる。さあ忙しくなるぞ、カノン。……我らが最愛の弟を、最高の形で迎えてやろうじゃないか」
そう言い残し、颯爽と立ち去るラフラウトとそれに付き従う女をただ見送った。そうしてカノンはただふらふらと、床に散らばった画材を拾い上げる。
「俺の、絵を描く。俺の、……王族としての」
――カノン殿下。
素性の知れぬあの女性は、カノンを確かにそう呼んだ。あの美しい女性はそう言って、カノンに頭を垂れることさえした。
どくりと、カノンの中に眠っていた、何かが目覚める音を聞く。
どくり、どくりと騒がしいそれは、ごくりと呑み込む唾と共に、カノンの全身へと静かに巡ってゆく。
――あいつさえ居なければ、お前は正統の王子として認められ、王家に名を連ねていたのだから。
――なあカノン。お前も同じはずだ。同じように憎いはずだ。
ラフラウトのその問いには、まだ明瞭な答えが見つからない。けれど。
「俺にもあったのだろうか。ここでこうして、影として生きる以外の道が」
窓の外に見えるその塔へ、いつものように問いかける。それからそっと視線を下ろせば、その足元には、ずたずたに切り裂かれた肖像画が打ち捨てられていた。
「その道は、今もどこかにあるのですか。あなたと同じに、王を、そしてマラキアの王子を憎めば、それが見つかるのですか。どうか教えて下さい、――兄上」
ぽつりと零したその問いに、応えは今も、返らない。
--吟詠旅譚本編へ続く--