語る声


 ルカニの丘の鐘が鳴る。いつもの朝。いつもの風景。『祈りの場』の白壁から、鳩が飛び立ち青空へ散る。けれど耳に馴染んだその音にも、今朝ばかりは、悲哀を感じずにはいられない。
(この鐘の音も、ついに聞き納めね)
 心の中でそう呟き、荒れ放題になった我が家を覗きこんで、シゼラは思わず苦笑した。いまだ人の足跡の多く残る室内には物が散り、割れた花瓶も引きちぎられたテーブルクロスも、全てそのままになっている。これらも、もういい加減に片付けてしまわなくては。そう考えながら、部屋の壁一面に設けられた書架を見て、今度は小さく溜息を吐く。ほんの数日前までは多くの書籍で埋まっていたその棚は、今ではすっかりがらんとして、ただ暗い影を落としている。数日前にやってきたグラノアの兵士達が、泣いて抗うシゼラを取り押さえ、書籍を全て燃やしてしまったのだ。
(どれも父さんが遺してくれた、とても大切なものだったのに)
 庭に残る白灰を横目に、慣れたその道を歩き出す。田畑の間を縫うように進めば、顔見知りの人々が、こぞってシゼラに声をかけた。
「シゼラ、悔しいだろうがはやまったことをしてはいけないよ」
「命があるだけ良いと思おう。私達だって、長く護ってきた物を奪われたのは悲しいよ。だけど仕方がない。この国は、グラノアとの戦争に負けたんだ」
「家の片付けを手伝おう。お前ももう、あの碑を調べるのはおやめ。もっとも、――もう、調べようもないだろうけれど」
 彼らは皆善人であった。ただ、酷く臆病な善人であった。
(なぜ怒らないの。なぜ嘆かないの。彼らが壊していったのは、――私達が蹂躙されたのは、)
 彼らの言葉へ曖昧に頷き、シゼラはルカニの丘を登る。そこには古くからこの土地の人々が護り慈しんできた『祈りの場』が一つ建ち、最後の時を報せていた。更なる戦争を推し進めようとするグラノアの兵達に、金属を提供するようにと命令され、ここに吊されていた鐘も差し出すことになったのだ。
(あの鐘が鋳造されたのは、古く見積もっても百数十年前のこと。四階部分までの建築様式と、それより上の鐘撞き部屋の建築様式とには大きく差があるから、後から増改築されたものだとわかる)
 鐘を奪われること自体は、それ程大きな損失ではない。けれど。
 『祈りの場』の扉を開け放ち、シゼラは下唇を噛みしめた。そこにシゼラの愛したものが、シゼラとその父が愛してきたものが、永久に失われてしまった証を見れば、胸に悲しみが蘇る。
(私達は護れなかった。私達に託された歴史を、記録を、――なにより、誇りを)
 
 『遺構』と呼ばれる存在がある。そうシゼラに教えたのは、今は亡き彼女の父親であった。
「それは大抵、『白壁の建物』として認識されている。残念なことに、私達はこの建物に関して、まだそれ程多くを知り得てはいないんだ。この建物が失われた文明の技法で作られていることはわかっているんだが、それがどんな素材であるのか、どのようにして建てられたものであるのか、見当もつかないんだよ」
 シゼラの父は学者であった。早くに母を亡くしていたシゼラを男手一つで育てた彼は、いつだって目を輝かせて、この『遺構』のことを語って聞かせたものだった。
「沢山の学者が知恵を絞って、この『遺構』のことを調べてる。だけどね、シゼラ。本当に大切なのは恐らく、それがどうやって建てられたか、ということではないんだ。それが『何を護っているのか』ということなんだよ。お前もよく知っているね。ルカニの丘の『祈りの場』には、一体何があるのかを」
 優しく話すその声に、シゼラはいつだって満面の笑みで答えを返した。そうすることでこの父が、喜ぶことを知っていたからだ。
「知ってるわ。『いのりのば』には大きな『えりいし』が、……石碑がおいてあるのよ」
 
 父との思い出を胸に、がらんどうになった『祈りの場』へと入っていく。そうして中心部分へと進んでいけば、グラノアの兵士達に破壊し尽くされたその石碑が、ただ粉々に砕けた石の山と化していた。
 人の背丈の二倍はある大きな石碑と、それを取り囲む巨大な白壁。『遺構』の謎を解き明かそうとする者が、この石碑に目を付けるのは当然のことだ。石碑には読む者を失った古代文字が連なっており、シゼラの父も長い年月をかけ、その解読を試みた。解読するべき文字の種類の多さに対し、参考となる文の少ないことから解読は難解を極めたが、父が病に倒れても、シゼラは彼の跡を継いだ。『遺構』が何であるかは知らぬまま、それを護ってきた土地の人々も、彼らの研究を手伝った。
 この石碑を解読し、『遺構』の謎を解き明かすことが、シゼラと父との夢であった。
「人が何かを書き残す時、そこには思いが託される。あの石碑だって、きっとそうだ。あの石碑を建てた人々は、そうまでして残さなくてはならない何かを、そこに記したはずなんだ」
 父の遺したその言葉は、今もシゼラの胸にある。
 それなのに。
(グラノアの兵士達は、ここを治めるラガン辺境伯領を陥落させるやいなや、こんな田舎の土地にまでやってきて、『遺構』の石碑を壊していった、……)
 積み上げられたその石を、そっと一掴み持ち上げる。
(ご丁寧に、私達の研究資料まで燃やし尽くして。……けれど、それは何故? 読み解く者のいない石碑を壊すのは、――それを、読み解かれてはならない理由があったから?)
 シゼラの昏い探求心が、石の表皮を撫でていく。そして。
 ふと、シゼラの手元からこぼれ落ちた石片が、ころりと床を転がった。それは単なる事故であった。誰の意志も伴わない、偶発的に起きた出来事。――だがその瞬間のことを、シゼラは恐らく、生涯忘れはしないだろう。
 シゼラの視線が石片を追う。無残に砕かれ文字を失ったその石片が、何かに当たって動きを止める。床にはめ込まれたタイルの段差にでも当たったのだろう。シゼラははじめ、単純にそう考えた。だがその石片を拾いあげようとして、
 言葉のないまま、思わずその場へ立ち尽くす。
 それが今まで石碑によって隠されていた、地下への隠し通路だということにシゼラが思い至ったのは、そのすぐ直後のことであった。
 
――人が何かを書き残す時、そこには思いが託される。
 人目を避けて真夜中に、地下へと続く扉を開く。そうしてするりと身を滑り込ませ、手にした灯りを頼りに闇の中を進んでいけば、いずれ大きな空間に出た。
――あの石碑だって、きっとそうだ。あの石碑を建てた人々は、そうまでして残さなくてはならない何かを、そこに記したはずなんだ。
 燭台らしきくぼみを見つけ、そっと灯りを近づけてみる。どれ程昔に造られたのかも定かではないこの燭台に、今もなみなみと油が蓄えられているのを見て、シゼラは思わず笑ってしまった。
(ああ、今まで固く口を閉ざしてきた『遺構』が、読む者を失った文字達が、)
 今静かに、その全てを語りだそうとしている。それが何故だか、肌を通して感じられたのだ。
 敷かれた油に火を灯す。張り巡らされたその油路に、火が颯爽と駆けていく。
 背の高い四方の壁が、火に照らされて舞い踊る。その壁中にびっしりと記された、見覚えのある文字を見て、シゼラは静かにこう言った。
「どうか私に全て教えて。――あなたの遺した、その言葉を」
 ルカニの丘のその『遺構』が、まず徐に沈黙を破る。それが、いずれ数多の『遺構』の謎を解き、国を救うことになる、シゼラにとっての第一歩となるのであった。
2016/1/25

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