あなたと丘を思い出す


 あなたとわたしは隣のゆりかご。
 ゆらりまどろみ、耳を立て、潮騒の鳴るさざめきと共に、私たちは目を覚ます。
「おはよう」
 耳になじんだあなたの声。
「おはよう」
 そっくりな私の声がそう返せば、あなたはひょいと私の揺りかごをのぞきこみ、目が合うなり、くすくすと軽やかに笑ってみせた。
「ねぼすけさん。いま起きたのね」
「あなただって、そうでしょう?」
「いいえ、今朝はずいぶん前から起きていたわ。なんだか、楽しそうな音が聞こえたから」
 そう言って彼女が目を閉じ、静かにそっと耳を澄ます。私も柔らかな揺りかごを這い出て、私たちの唯一知る空色の丘に降り立つと、彼女のそれにならってみる。
 まず聞こえるのは鼓動の音。二つ重なるそれを知っているのは、今は私たち二人きり。
 そして聞こえる潮騒の音。この音が、そしてその『海』が、私たちを優しく包み込み、そして外界とを隔てている。
 私はぎゅっと目をつむり、更に耳をそばだてた。そうして聞こえてきたのは、今までに聞いた事もないような、色鮮やかな旋律であった。
「人の声じゃ、ないみたいね」
「歌みたいだけど、そうじゃない。これは何の音かしら」
「鳥の鳴き声かもしれない」
「木の歌声かもしれない」
「木っていうのは、なんだったっけ」
「確か、とっても長いものよ。空に向かってたくさん、めいっぱいに手を広げているの。ほら、こんな感じ」
 彼女がぱっと手を上げる。すると彼女の目の前に、虹色の長い棒が現れた。その棒の片一方は私たちの立つ丘に突き刺さり、もう一方の先はずっと空へと延びてゆく。次第に先が分かれていき、てのひらのようになったのを見て、私も大きく頷いた。
「そうね。そんな形だった気がするわ」
「いつかは色んなことを知っていたはずなのに、ほとんど全部わすれてしまった」
「いいのよ。私たち、なにも知っている必要なんてないんだから」
 私が笑えば、同じ顔をした彼女も笑う。
「ねえ、鳥は? どんな姿だったかしら」
「たしか、こうよ。空を飛ぶの」
「音をだす道具がなかった? 指で押すのよ」
「形はまるい?」
「どうかしら。それも忘れちゃった」
 丘を駆け回りながら、私たちは指を指し、手を広げ、様々なものを象った。私たちの思い描くそれはいつだって漠然として、すぐに光に散っていく。それなのに何故か懐かしく思えて仕方ないのは、いつかどこかで見た記憶を、私たちが心のどこかにとどめているせいなのだろうか。
 それとも。
「これが『雨』、これが『山』」
「私、『花』が見たい。形はおぼえていないけど、とても明るい色で、いい香りがするの」
「食べられるもの?」
「さあ、どうだったかしら。……いつか、あなたといっしょに教わりたいわ」
 「あなたといっしょで、私はうれしい」私は何度もそう言った。彼女もその度、頷いた。
「私たち、いっしょに外の世界へいくの。そして色んなことを、いっしょに知っていけばいいんだわ」
 彼女が私の手をとった。私もぎゅっと握り返す。外の世界から聞こえる旋律が、私たちの心を震わせる。私たちの象った『雨』が、『山』が、光の粒に消えていく。それがすっかり丘に融けたのを見ると、私たちはころりと丘に寝そべった。
「ねえ、そろそろかしら」
「いいえ、まだよ」
「でも私たち、ずいぶん大きくなったわ」
「ふふ、これくらいじゃだめ。もっと大きくならないと」
 彼女が笑う。私も笑う。そうして大きく息をして、私は晴れやかにこう叫ぶ。
「『おかあさん』! はやく私たちにきづいてね。私たちはここにいるわ。いっしょに外の世界へいくの!」
 私たちは、根付いたばかりの命の種。鼓動は小さく、それに気づく人はまだいない。
 けれど、けっして一人ではない。
「あなたといっしょで、私はうれしい」
 噛みしめるように、そう言った。やはり彼女は頷いた。
 
 ***
 
 ピピピ、と鳴る煩わしい電子音に、うっすら両目をこじ開ける。
 手を伸ばしてアラームの音を止め、ふわりとひとつ、大あくび。もう一眠りしたい気持ちはやまやまだが、ここで眠気に負けられない。やっとの事で手足を伸ばし、小さく唸り声を上げると、私はがばりと飛び起きた。
 カーテンの隙間から光の漏れる、朝のこと。私はもうひとつ大きな欠伸をして、急ぎ、吊してあった制服にするりと身を包む。もう慣れ親しんだプリーツのスカートに、セーラー服。胸元のリボンはいつも上手くいかずに縦結びになってしまうのだが、気にせず部屋を出、「おはようさん」と階段を下りる。
「お弁当、もうできてるよ」
「はいはーい」
「お財布持った? 家の鍵は? お母さん、今日はおばあちゃんちに行くからね。鍵は忘れず持っていってね。今日、部活は?」
「あるよー。お腹空かせて帰ってくるから、私の夕飯大盛りにしてね!」
 大急ぎで朝食を詰め込み、顔を洗い、歯を磨く。リビングの机の上に、ひとつぽつんと置かれた弁当を掴み、「行ってきまぁす」と声をかければ、「行ってらっしゃい」と答えがある。
 玄関を出て、朝の空気を吸い込んだ。熱を持ち始めた初夏の道。学校までの慣れた道。
 ここを駆ける私は、いつだってひとりぼっちだ。
(ポスト、公園、屋根の壊れた古い犬小屋……)
 ひとりの寂しさを紛らわすように、視界に入った様々な物の名前を、心の中で呟いていく。いつ始めたかもわからない、昔からの習慣だ。
(電信柱、スーパー、駅、それから、)
 ふと、ガラス張りの建物の壁に映った人影を見て、私はにこりと微笑んだ。
(それから、……『私』)
 
 ***
 
「あなたといっしょで、私はうれしい」
 噛みしめるように、そう言った。何度も何度も、そう言った。
 けれど彼女が頷かなくなったのは、一体いつの頃からだったろう。
 私の身体はすくすくと大きくなっていくのに反して、彼女はちっとも変わらなかった。ともすれば、より小さく、希薄になっていく彼女の姿を感じる度に、私の胸はずきりと痛んだ。
「おかあさんが私たちに話しかけているのが聞こえる? おかあさん、私たちのことにきづいたのね」
 隣の揺りかごに横たわる彼女を覗き込み、私は静かにそう言った。彼女はにこりと微笑んで、小さく一つ、頷いた。
「私たちのために、うたをうたってる」
「……、やさしいうたね」
「うん。とってもやさしいうた。――ねえ、はやく、会いたいね」
 彼女はじっと私を見て、「そうね」と短く、そう言った。
 手を延べ、私の頬を撫でる彼女の姿は、まるで今まで私たちが象ってきた様々な物たちのように、無邪気で、儚いもののように思われた。
「泣かないで。あなたが泣いたら、丘の色がくもってしまう。丘の色はいつだって、晴れた空の色でなくちゃ」
 彼女が笑った。
「あなたといっしょで、うれしかったわ」
 彼女が初めて、そう言った。けれど私は、慌てて首を横に振る。
「……、これからもいっしょでなきゃ、いやよ」
「だけど」
「あなたといっしょでなきゃ、いやよ。あなたといっしょに、おかあさんと出会いたい。『木』も、『鳥』も、『雨』も、なにもかも、あなたといっしょに教わりたい。『花』が見たいと言ったじゃない。『花』っていったいどんなもの? あなたといっしょに教わりたいわ。あなたといっしょに、教わりたいわ!」
 彼女は私に答えなかった。けれど小さくなった自分の揺りかごを見て、そして聞こえなくなってゆく自分の鼓動に手を当てて、私にぽつりと、こう言った。
「あなたといっしょで、私はうれしい。私たち、『ふたり』にはなれなかったけど、これから先もずっといっしょよ。外の世界へ行くときは、私の心も、あなたといっしょにつれていってね――」
 
 ***
 
「おはよう!」
 耳元で唐突に響いたその声に、思わずびくりと肩を震わせる。耳に馴染んだ、クラスメイトの声である。私は慌てて振り返り、悪戯っぽく笑う彼女を見ると、「もう!」と怒った素振りをしてみせた。
「突然、耳元で大声を出さないでよ! びっくりしたなぁ」
「こんなところでぼうっとしてるのが悪いのよ。なあに、夏服になったのがそんなに嬉しいの?」
 ガラスに映った私を見て、クラスメイトがそう尋ねる。私は憮然とした態度できびすを返すと、なんとはなしにこう言った。
「べつにぃー。リボン曲がってるなぁって思っただけ」
「いつもの事じゃない」
「いつもの事ですけどぉ」
 にやりと笑えば相手も笑う。そうしていくらか道を進めば、曲がり角の向こうから、また別のクラスメイト達が姿を現した。
「ねえ、プール開きっていつだっけ?」
「再来週でしょ? やだなぁ、またあのダサい水着、着なきゃいけないのか」
「一人だけビキニで行けば? 先生達にゼッタイ叱られるけど」
 けらけらと笑うクラスメイト達の何気ない会話を聞きながら、ふと、先程のガラス張りの建物を振り返る。初夏の日差しが辺りを照らす。ガラスの中の私の姿が、きらりと瞬間、輝いた。
「花ぁ、おいてっちゃうよー!」
 名を呼ばれ、慌てて彼らを追いかける。
 花の鼓動はいつものように、とくりとくりと静かに鳴った。


2015/9/9 お題創作(テーマ:バニシングツイン/お題提供:くろさん)
バニシングツインとは…母親に宿った双子の一方だけが、初期の流産になってしまう状態のこと。

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