シャワーを浴び、ぼさぼさの頭に櫛を入れ、顔を洗って眼鏡をかける。昨晩もついつい、ベッドに入らずソファで一晩過ごしてしまった。こんな事が知れたら、『彼女』になんと言われることやら――。そんな事を考えながら、痛む身体の節々を、適当に屈伸させておく。
煎れ立てのコーヒーに、いつも通りに角砂糖を二つ。卵も二つフライパンへと放り込むと、家の外からクラクションの音がした。
『彼女』が今日もやってきたのだ。
「ああ、はいはい、今行きますよ」
家の中で何を言おうが、外にいる彼女には、どうせ聞こえやしないのだ。それでも言い訳じみた言葉を二、三重ね、まだ熱い目玉焼きをトーストの上に滑り込ませると、急いでベストを羽織り、ループタイを締め、ハンチング帽を頭に載せる。
もう一度、高らかなクラクションの音。近所迷惑だからよしてくれと言っているのに、『彼女』は全くのお構いなしなのだ。
両手に上着と鞄を持ち、トーストをくわえ、後ろ足で部屋の戸を閉める。そうして慌てて玄関を出れば、突然、視界に拳が現れた。
「ふがっ」
トーストに載った目玉焼きを落とさぬよう、背を逸らせてそれを避けると、自然と間抜けな声が出た。するとその拳の主、――仕事仲間である『彼女』は、にやりと笑ってこう言った。
「おはよう、ねぼすけ君。今日も迎えに来てやったわよ」
「頼んでないぞ」と言ってはみても、『彼女』は既に背を向けて、駐めてあった車の方へと向かっている。車高の低い、ご自慢の赤いオープンカー。「君はいつもそう」と不満げに続けてみれば、『彼女』はにやりと笑んで運転席へと乗り込んだ。
「今日はコレ。三十一ページ目から」
仕方なしに助手席へと乗り込めば、即座に何かを手渡された。幾重にも線が引かれ、既に読み込まれた感のある台本だ。『彼女』はきっと昨晩も、この台本を片手に表情を整え、声を張り、今日に備えていたのに違いない。
なのに、なぜまたここへ来てしまうのだ。
「あのね、君は女優なんだから」
そう声を上げても、『彼女』は涼しい顔をするばかり。
「俺なんかと一緒にいて、スキャンダル扱いされたらどうするんだ」
ぶるんと低いエンジン音。『彼女』が笑ってアクセルを踏む。「お酒はいかが?」甘い声で囁く『彼女』は、既に先程までの『彼女』とは壁を隔てたところにいる。慌てて台本をめくり、「結構だ」と棒読みで返せば、「つれないのね」と真っ直ぐ前を見据えたままの『彼女』が言った。
『彼女』と出会ったのは二ヶ月前、活動写真の撮影現場でのことである。いつも通りにカメラを構え、撮影の準備を始めたところへ、颯爽と『彼女』がやってきた。
なんて美しい人なのだろうと、はじめは素直にそう思った。艶やかな衣装に身を包み、役になりきった真摯な表情で台詞を読む『彼女』の姿に、あっという間に目を奪われた。
だがそれだけ。それだけだ。
それだけのはずであったのだ。
「俺は酔っているんだ……人生という美酒に、な……」
台本の通りにそう言えば、不意に『彼女』が笑い出す。
「似合わない」
「台本通りに読んだだけだ」
「せめて、少しは役に寄せてよ。あなたがあなたのまま言うから、つい笑ってしまったじゃない」
「無茶言うな、俺は俳優じゃないんだぞ」
そう言って、しかしすっかり馴染んだこのやりとりに、思わず頭を抱えてしまう。
『彼女』にどれだけ魅了されようとも、仕事はいつも通り、堅実にこなしているはずであった。しかしそんな日常を、『彼女』が、唐突に書き換えてしまったのだ。
現場のある郊外に近づくにつれ、段々と道が混んでくる。渋滞に巻き込まれたこのオープンカーは、周囲の車窓の好奇の的だ。
「鬱陶しい羽虫だな」
毒づく。すると『彼女』はいつも笑う。
「あなた、スキャンダルを気にする割には、ちっとも顔を隠さないわよね」
「別に、俺は何もやましいことなんてしていないから」
「確かにそうね。その通りだわ。私、あなたのそういうところが好きよ」
『彼女』がさらりとそう言った。そうして不意に、フロント硝子から視線を移し、助手席の方をじっと見て、
「大好き」
と繰り返す。
『彼女』が運転席から腰を浮かし、頬に小さくキスをする。途端に、
赤いオープンカーを取り巻くいくつもの車両から、賑やかすぎるクラクション。隣のトラックの運転手など、怒りに血走った目を向けて、今にも殴りかからんという形相だ。
「スキャンダルになるなら、それでもいいのよ」
あっけらかんと『彼女』が言う。
「私だって、やましいことなどなにもない。ただ単に、一人の女優がカメラマンに恋をした。それだけのことなんだもの」
「私は幸せよ」こちらの頬が真っ赤に染まっても、『彼女』はちっとも気にしない。
「君のそういうところがきらい」
「あら、そう? だけど私、知ってるのよ。口ではそんなことを言いながら、あなたは今日も私の姿を、誰より素敵に撮ってくれるんだってこと」