カラリ、カラリ


「海の向こうの話だけれど」
 そう言葉を始める彼女は、いつも物憂げに目を伏せた。
 彼女の長い、睫毛が揺れる。彼女の白い右の手が、左の指に柔く絡みつく。彼女がそっと息を吐けば、まるで呼応するかの如きに、汽笛の音が近く聞こえた。
 昼下がりの、この東京府新橋の駅に、またもくもくとした黒い煙を立ち上らせ、陸蒸気がやってきたのだろう。客車だろうか。いや、にわかに活気づいた人々の声から察するに、どうやら横浜の港から、貨物が運ばれてきたらしい。男達の太い声が通りを賑わし、それをすり抜けるかの如くに、女学生達のけらけらと笑いあう明るい声が過ぎていく。
 その光景が、実際に見えたわけではない。
 薄暗いこの店内には、曇り硝子から漏れ入るぼんやりとした、曖昧な光が射し込むのみである。だが私は、燦々と降り注ぐ陽の下の、その光景を見知っていたし、今もこの耳ではっきりと、その画を見てとっていた。
「サンタ・クロウス、という男の名をご存じかしら?」
 カラリ、と氷の響く音。彼女が好んでいつも飲む、カルピスなる飲み物の、氷が溶けた音であろう。その音の、なんと涼やかなることか。凛とした彼女の眼差しの、なんと玲瓏たることか。
 恐らく彼も、同じく感じたのであろう。彼女の正面に座する紳士は、何気ない仕草で自らのまとった背広を正しめると、「知らないな」と静かに首を横に振る。
「年の暮れに、クリスチアンのするイエス・キリストの聖誕祭があるでしょう。そのクロウスという男は、聖誕祭の前の晩、子供達にギフトを配るのですって」
「それは何故」
「何故かしら」
「教えてくれないのかい」
「ふふ、私も知らないのよ。だけれど、彼の名前のスペルはわかるわ。ねえ、手を出して」
 カラリ、と再び氷の音。彼女の柔らかな手が伸びて、男の拳をそっと解く。そうしてその掌に、ひと文字、ひと文字、異国の文字を書き連ねるのを、彼女の豊かな黒髪の、そのわずかな隙間から、私はじっと見つめていた。
「何故かしら」
 紅を引いた、ふっくらとしたその唇が、静かに言葉を繰り返した。すると居住まいを正したままでいた、紳士の頬が綻んだ。
「君は美しいね。美しく、そして誰より、高貴な人だ」
「光栄ね」
「君の学園の子供達も、きっと君の姿を見て、君のように、気高く健やかに育つだろう」
「ありがとう。あの子達、あなたが誘って下さった上野の博覧会を、本当に喜んでいたわ」
 彼女がにこりと微笑んだのが、まるで、聞こえたような気がした。
 程なくして、紳士は先に席を立つ。身を伏せた私の隣を通り過ぎると、彼はドアベルをコロコロと明るく鳴らし、足取り軽く立ち去った。
 そうだろう。そうであろうと思っていた。
 彼女の微笑に心を動かされぬ男など、どこにも居やしないのだから。
 ふと顔を上げ、ピンと尾を伸ばし、一つ大きく伸びをする。そうして身体をしならせて、彼女の膝へと飛び乗れば、彼女はいつものように、私の喉を撫でてくれた。
 ああして立ち去る男を見るのは、この数日で五人目だ。けれど見送る彼女の眼差しは、ほんの少しも濁らない。
「彼、とってもお金持ちなの。素敵よね」
 彼女が優しくそう言った。
「だけど少し、おっちょこちょいなの。子供達へのギフトの数を、間違わないでくれたらいいのだけど。……ねえ、猫ちゃん。どう思う? 彼は間違わないかしら?」


2015/8/3 創人ギルド即席創作/三題文(「サンタ」「祭」「アルファベット」)

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