酷く鈍い、そして重たい、鉄の心臓が響かせる音。無機質なその音は、何かの叫びと似て響く。――けれど、文句を言ってはいられない。目を開けばいつだって、忙しない日々が彼女の脳裏を埋め尽くすからだ。
(それはとても幸せなこと。機械人形として生まれた、――この私にとっては、なにより)
静かに射す明け方の光が、レイアのいる一室の、薄いカーテンを照らし始めている。柔らかな光の帯は徐々に明るさを増し、そのうち、立てかけられたレイアの足元へまで届いた。
さあ、今日もそろそろ起き出して、仕事に精を出さなくては。
オイルの引かれた腕を伸ばし、エネルギー供給のためのプラグをすらと引き抜いてみせる。柔軟性のあるクラン鉄で出来た脚で身体を運び、いつも通りに卵を割った。
朝食は、とびっきりふわふわとしたオムライス。週に一度は必ず作る、定番メニューだ。ぽーんと軽い調子で卵をかえし、三つ目のオムライスを作り出す。すると石造りの壁を隔て、廊下の方から声がした。
「おはよう、レイア」
「ラクス、待ちなさいよ。襟が曲がっているわ」
「やった、今朝はオムライスだ!」
三つの明るく賑やかな声。レイアがオムライスを皿に載せ、声の方を振り返れば、この屋敷に住む三人の可愛い子供達の姿が見えていた。
「さあ、お食事ですよ」そう言うつもりで顔面部に着いた小さな灯りを点灯させ、トレイに載せた皿を運ぶ。大人びた顔で笑う十歳の長男、パストル。八つになったばかりの、しっかり者の長女ケイミー。いつまでも甘えん坊な、五つのラクス。皆それぞれに幼稚舎や初等学校の制服を身につけ、まだ眠たげな目を揺らしている。
温めたミルクをカップへ注ぎ、彼らの前へそっと置く。「ありがとう」とパストルがそれを受け取った頃、もう一人、この暖かなリビングを訪れる人の姿があった。
「おはよう、みんな。おや、今日のオムライスも上出来だね」
そう言って、子供達の誰より大きな欠伸をして席に着いたのは、子供達の父親にして、この屋敷の主人であるエドガルドだ。寝癖のついた髪をぽりぽりと掻いた彼が、昨日のまましわくちゃのシャツを身につけているのを見かねて、レイアがアイロンがけのされたシャツを手渡すと、彼はパストルそっくりの笑顔で「ありがとう」とレイアに言った。恐らく昨晩も、徹夜で仕事の資料をまとめていたのだろう。無精髭の生えた顔の目許には、うっすらとクマが浮いている。
「お父様、私ね、絵のコンクールで学校の代表に選ばれたの」
「今度、家族ついての作文を書くことになって。お父様の仕事について書いてもいいですか?」
「ぼくね、オムライスが本当に大好きだから、毎朝オムライスでもいいとおもうんだ」
子供達が銘々に離すのを聞いて、エドガルドがにこにこと笑いながら相槌を打つ。そうして一人、また一人、鞄を手に出かけていくのを見送ると、屋敷の主人はレイアの姿を見て、ぽつりと、こんなことを言った。
「君のオムライスは、日に日に『彼女』の作ったものと似ていくね」
レイアは答えなかった。レイアの身体には、人のような口がない。言葉を語ることが出来ない。だからせめて、ちかちかとまた小さな灯りを点灯させ、そっとその場を立ち去った。
屋敷の掃除に子供達の汚した服の洗濯。レイアの仕事をこなさなければ。しかしそうは思いながら、レイアはふと、自分が後にしたリビングを振り返る。
一人取り残されたエドガルドが、ぽつんと席にかけていた。食事を終えた彼はのそのそと席を立ち、先程レイアが渡したシャツを持つと、レイアが向かったのとは反対側の出口から、そっとリビングを後にした。
彼がどこへ向かい、一体何を行うのか、レイアはよくよく理解していた。けれど彼女はいつものように、そっと静かに歩み寄り、石壁の向こう、廊下にかかった一枚の肖像画に語りかけるエドガルドの姿を、ただ、ひっそりと見守っていた。
「聞いたかい? 三人とも、今日も元気いっぱいで出かけていったよ。パストルは最近、ぐんぐん背が伸びるんだ。ケイミーは三つ編みが上手になった。ラクスは少し、太りすぎたかな……。君にもあの子達の姿を見せたいよ、リュゼーヌ」
苦笑を浮かべたエドガルドは、そうしていつも、亡き妻の肖像画に語りかける。
裕福な屋敷、明るく可愛い子供達。けれどそんな幸せな家庭を絵に描いたようなその場所に――たった一つだけ、『それ』が足りない。
「それじゃ、レイア。行ってくるよ」
「留守をよろしく」優しく告げるエドガルドを見送ると、レイアはいつも仕事の手を止め、廊下に掛けられた肖像画の前に佇んだ。銀がかった豊かなブロンドの髪、明るい瞳、若いままこの世を後にした彼女の微笑みは、少女のようにたおやかだ。
(エドガルド様の奥様、……子供達の、お母様)
彼女は三人の子供達を産んですぐに、身体をこわして亡くなった。そうして彼女の代わりに、子供達の育児と家事を行うためにこの屋敷へやってきたのが――機械仕掛けのレイアであった。
(『代わり』だなんておこがましい。私は話も出来ないし、子供達にキスすら出来ない)
柔らかな鉄で覆われた皮膚に、歯車の詰まった機械の身体。人の身体を模して作られてはいたが、顔は微笑むことしかできず、ゆったりとしたメイドの服に隠された脚は二本にわかれてなどいない。
わかっている。代わりになどなれない。
けれど。
――私、学校で好きな男の子ができたの。お父様には内緒よ。レイアだけに教えてあげる。
――レイア、ぼく、にんじんはきらいだって言ったのに。
――お父様はすぐに無理をするから。レイア、色々と手伝ってあげてね。
優しい子供達の声を胸に浮かべれば、浮かべるほど、鉄の心臓が軋んでいく。
(奥様とは似ても似つかない。私はただの機械人形。だけど、)
――レイア、いつもありがとう。
彼らの笑顔に迎え入れている時は、レイアはまるで、この屋敷の本当の家族になれたような錯覚に陥ってしまうのだ。
(……、全て、無くしたことにしよう)
機械人形は、こんなに心を揺らさない。きっと私は、いつかは人間だったのだ。レイアはたまに、そんな事を考えた。
(全て無くしたことにしよう。私はいつか人だった。ブロンドの髪をなびかせる、人間の女性だったのだわ。その頃の私には夫がいて、可愛い三人の子供がいた。けれど、――産後の肥立ちが悪く、若い内に人としての命を、熱を帯びた肌を、人としての記憶を、生身の心を失った。きっとそうよ。だって私には、……人のような心があるのだもの)
そうしてそっと、肖像画に手を伸ばす。
ぎしぎしと鳴る歯車の音は、笑い声の如く響いていた。