白墨瑣話


【閑話】

「おや、アクバル。こんな朝からお客さんだったのかい」
 井戸水を汲んできたのであろう。大きな水瓶を持ち、そう声をかけたのは、長い黒髪を一つに束ねた褐色の肌の少女であった。故郷を焼かれ、遠い砂漠の国から奴隷として売られてきたという彼女の体は痩せていたが、しかし彼女の勝ち気な瞳は、いつもぎらぎらと輝いている。
 冷たい雪の日に、素足のまま荷を運ばされているのを見るに見かねて、靴を一足進呈した。それ以来彼女は、こうして仕事の隙を見ては、アクバルの元へ訪れるのだ。
「おはよう、ニルファ。今朝も随分早起きだね」
 アクバルが穏やかな声でそう言うと、ニルファと呼ばれた少女ははっとした様子で肩を震わせ、「おはよう」と短く答えてみせた。しかしその視線は、すっかり、去ってゆくエルハームの背中へ釘付けになっている。
「……、鹿の角」
 彼女がぽつりと、呟いた。
「あなたが捜していらっしゃる、ご本人ではありません」
「わかってる。あたし達の国を滅ぼした奴は、もっと大柄な男だった。だけどどこか服装が似てる。同じ出身に違いない。もしかしてあの娘なら、あたしの捜している男の事を知っているのかも」
 ニルファの肩が、震えている。アクバルはそれをじっと見ていた。しかしニルファが駆けだそうとするのを見て、咄嗟にその腕を引く。
「ご本人は、」
 アクバルの穏やかな声が、ニルファにそっと囁いた。
「ご本人は、既に亡くなられたそうです」
 
 * * *
 
「あいつの妹は首都へ向かった……。それならまた、いずれ会うかもしれないね」
 話を聞いたニルファが、堅い声で呟いた。聞いたアクバルが、「あなたも首都へ行くのですか?」とそう問えば、彼女はじっと目を伏せて、一言、静かにこう返す。
「行かなきゃならない。私の道のために」
 何故と問う事はしなかった。止める事もしなかった。そうする前にこの少女が、「止めないでね」と笑ったからだ。
「他人に道を左右されないための、他人に道を色づけられないための靴。……、あんたがそれを、くれたんだから」

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