白墨瑣話


【足下に 暗い 朱の咲く 中編】

「そうですね、と私が返すと、彼はやはり、ただ笑って聞いていました。そうして私は、彼の為の靴を作ることになったのです。あなたの言うとおり、彼はとても体格がよく力強い人でしたから、その体重と踏み込みに耐えうる強い布を使いました。集中力を損なわないようにとのご希望でしたので、解けやすい紐靴はやめ、網のように縫い込んだ紐を側面の釦にかける仕様にしました」
 そう言ってアクバルが取り出したのは、過去に彼が拵えた、作品達の設計図である。それを見たときばかりはエルハームも視線を揺らし、まるで己の身を守るように自らの頭を抱えていた右手をそっと差し出した。そうして震えるか細い指で、古い紙面をなぞってみせる。
 「黒靴のアクバルは、」エルハームの小さな声は、古い設計図の上を滑る、一陣の風のようでもあった。
「足の型を取るのと同時に、人の暮らしの型を取るのだと、……そう、兄が申しておりました。重い荷を運ぶ者には、代わりに羽のように軽い靴を、山を登る者には、その身を守るための靴を与えるのだと」
 エルハームのその指から、ふと、震えが遠のいた。
「あなたのお兄さんは、些か私の力を過信なさっていたようですね」
 アクバルが苦笑する。しかしエルハームは間髪入れず、こう返した。
「そうは思いません。事実、兄はあなたの靴に、未来を導かれたのですもの」
 窓の外から、人の声が聞こえていた。恐らくは、向かいの家に住む子供達の声だろう。炭鉱で働く彼らの父親が、いつも日が暮れたこの時分に帰宅することをアクバルはよく知っている。仕事を終えた炭鉱夫が家の扉を開くと同時に、彼の二人の子供達は、いつもはしゃいでその父親を迎え入れるのだ。
「お帰りなさい。夕飯が出来ているよ」
「お父さん、今日は私も手伝ったのよ」
 娘と息子が一人ずつ。もしかするとエルハームとその兄も、かつてはあの子供達のようだったのだろうか。
「ただいま。良い子にしてたか? 二人とも」
 聞いてアクバルは微笑んだ。その親子のやりとりを、アクバルは心底愛していた。彼自身に家族は居なかったが、しかし彼らの言葉はまるで、夜の闇を灯す明かりのように、独りで居るアクバルのことすら照らし出してくれそうだと、そう思っていたからだ。
「教えてください。黒靴のアクバル」
 だが外から聞こえる他者の声になど、目の前の娘は気づいていないことだろう。
「教えてください。あなたは兄に、何をするための靴を与えたのですか」
 
 * * *
 
「なあ、職人さん。迷惑でなければ俺の話を、少しだけ聞いてくれないか」
 何でもないような顔をして、男はそんなことを言った。一年前の、同じ季節の頃である。
「私はしがない靴職人です。それでも良いと仰るのなら」
 アクバルが言うとと相手の男は、かぶりを振ってこう答えた。
「何故だろう、あんたに聞いてほしいんだ」
 
 * * *
 
「あなたは何か、勘違いをしておられる」
 穏やかな声でアクバルが言えば、エルハームは肩を震わせ、それからじっとアクバルを見た。その視線がどうにも言葉を促すようであったので、アクバルは一つ息を吐くと、念を押すようにこう言った。
「私が靴を与えるのではありません。私は求められた靴を作り、それを求めた方へお渡しするだけなのです」
「ならば兄は、あなたにどんな靴を求めたというのですか」
 オルメニオの民が身につける、細やかな刺繍の施されたベールが、暗い室内にぐらりと揺れた。
「あなたは既に、その答えを得ているのではありませんか?」
 もう震えないエルハームの細腕には、一条の、煌めく短剣が握られている。
 
 * * *
 
――殺されたのです。
 そう話したエルハームの口元は、
――兄は毒で殺されたのです。妹である、この私に。
 狂気にいくらか歪んでいた。
 
 * * *
 
「あなたに出会って、兄は変わってしまった。あなたに靴を与えられた後、兄は軍から抜けだし、脱走兵として独りで諸国を渡り歩き……、後に残されたオルメニオの民達は、その事で、王国からの責め苦を負って死んでいった。税を増やされ、土地を奪われて、そして、そして――!」
 鹿の角を模した頭飾りが、音を立てて足下に落ちる。突き立てられた刃を避けるため、咄嗟に体を反らせたアクバルの傷みきった黒髪を、鋭利な切っ先が浅く薙いでいく。
「なぜ兄に、人を殺すための靴を作ってくれなかったの! あなたは王国の人間でしょう。なのになぜ、王国に従わせるための靴を作ってくれなかったの!」
 剣の扱い方も知らぬ娘が、むやみに刃を振りかざす。アクバルはただ一歩、二歩と退きながら刃を避け、彼女が乗った薄い絨毯に、そっと静かに右足をかける。
「以前はあんなに、身を粉にして、郷の為に働いてくれる兄だったのに――。ある日唐突に郷へ逃げ帰ってきたかと思えば、口を突くのは馬鹿げた夢物語ばかり。脱走兵が戻っていることを知られたら、オルメニオの民みんなが、王国からまた睨まれる。だから、だから私が、この手で、……」
 身を屈ませたアクバルが、強く絨毯を引き抜いた。足下をすくわれたエルハームは悲鳴を上げて床に倒れ、取り落とした短剣を拾おうと必死に手を伸ばす。しかし彼女の指が短剣に届くよりも早く、ひょいと絨毯を投げ捨てたアクバルがそれを踏みつけ、部屋の隅へと蹴飛ばした。
「すみません。少しだけ、武術の手ほどきを受けているので」
 オルメニオの郷から単身ここまでおとずれた彼女の得物が、まさかその短剣一本きりであるとは思えない。しかし彼女は床の上を滑って行く刃を目で追うと、最早立ち上がることもせず、ただ、その場に泣き伏した。
「兄があのまま軍にいてくれたなら、手柄を立て続けてくれていたなら、父さんも、母さんも、きっと死なずに済んだのです。なのに叶わぬ夢など見て……。馬鹿な兄さん。馬鹿な兄さん。森を出て、支配されない自分達だけの土地を探そうだなんて、そんなこと、出来るわけがないじゃない。私達はオルメニオの民なの。オルメニオの民なのよ。森を出て、一体どこへ行けるというのよ」
 泣き続ける彼女の傍らに、鹿の角を模した頭飾りが落ちている。アクバルはそれを拾い上げようとして、しかし、咄嗟の様子で彼の手を掴んだエルハームの冷たい指に、一度そのまま動きを止めた。
「ねえ、どうか教えてください」
 エルハームの声には、芯がない。
「兄さんに対してしたように、……私にも、道を教えてください。導く靴を作ってよ。あなたとあなたの靴が兄に、『王国に支配されない、自分たちの生き方』とやらを教えたんでしょう。兄を殺してから私、どこを歩いてきたものだか、ちっとも覚えていないのです。これからどこを歩けばいいか、真っ暗で何も見えないの。ねえ、お願いだからどうか教えて、――私の事を、助けてよ」
 エルハームのその指から、徐々に力が抜けていく。頭飾りを拾い上げたアクバルは、どうやらそれが、以前ある男が身につけていた、それそのものであることに気がついた。
 
 * * *
 
「郷の為に、尽力してきたつもりだった。俺が手柄を立てたなら、郷への税が軽くなる。他人を多く奴隷へ堕とせば、郷の人間は兵役から、ほんの少しでも解放される」
 ぼろを纏ったこの軍人は、うっすらと笑んでそう言った。それ以外の表情を、忘れたのだと彼は言った。
「割り切ろう。そう思って郷を出た。俺自身は、もう二度と郷の土を踏むこともなく、戦場で骸になる運命かもしれない。だが残された郷の人間が、俺の働きで少しでも救われるなら、それで良いと思っていた。その為なら、どんな汚れ役にでもなろう。他人の血を啜り続けよう。そう考えたはずなんだ。それなのに、――殺す度に、わからなくなる」
 傷だらけの両手で顔を覆い、自らの膝に、肘を突く。力のこもった指先は、白くなって、震えていた。
「同じ郷から出てきた仲間は、王国兵の盾にされて死んでいった。偶然生き残ってきた俺は、王国の剣で王国の敵に刃を振るう。だが俺は一体、何と戦っているんだ。何のために、戦っているんだ。どうせ戦うのなら、どうせ傷つけるのなら、その相手は、……その相手は」
 
 * * *
 
「作りましょう」
 アクバルは、蹲って泣くエルハームにそっと手を差し延べ、穏やかな声で呟いた。
「始めにお話ししたとおり、私はしがない靴職人。職人として、靴の主の事を考え、最も適した靴を作ることが出来るよう、日々努力をしてはいます。けれど、靴はあくまで、ただの靴。暮らしを支える、道具の一つに他なりません。それでも良いと仰るのなら、あなたの靴を作りましょう」
 そっと顔を上げたエルハームは、涙の浮かぶ双眸で、アクバルのことを見つめている。
「私が知る限りの、あなたのお兄さんの事をお話ししながら、――せめてこの靴があなたを、あなた自身の望むところへ導けるよう思いを込めて、作りましょう」
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