白墨瑣話


【足下に 暗い 朱の咲く 前編】

 窓のかたかたと鳴る音が、薄暗い室内に響いている。
 ああ、今夜も随分と冷える。そっと借り物の毛布を掻き合わせ、冷めたスープを飲み干して、エルハームは小さく溜息を吐いた。
 随分長く歩いてきた。故郷からたった一人、僅かな手がかりに賭けたこの旅はただ苦しくて、不安な夜を幾度も過ごした。そんな中でも今晩は、夜露をしのぐ宿を得て、少ないながらももてなしの食糧を得られただけ、恵まれた夜であると感じる。
(いいえ、もっと喜んでも良いはずよ。だってようやく、目的の場所へ辿り着いたんじゃないの)
 歩き通しですっかり腫れてしまった足をほぐそうと、靴を脱いで裸足になる。蝋燭の火にぼんやりと照らされたその足にはいくつもマメができ、薄桃色の沙貝のようだと褒められた足の爪は、歪な形にひび割れていた。
(ねえ、私、ここまで来たのよ。遺志を継いで、ここまで来たのよ)
 あかぎれができた両手のひらで、そっと爪先を包み込む。冷え切った指の先に、じわり、じわりと、ほのかな体温が伝わっていく。しかしふと、階下の部屋から窓が鳴るのとは異なった音がしたのを耳にすると、エルハームは短く息を呑んだ。
 足音だ。恐らくは、この家の主が仕事を終え、店を閉ざしているのだろう。慌てて靴を履き直し、鹿の角を模した頭飾りを身につける。祖先から受け継いだ草木の模様を刺繍したベールを頭から被り、身支度を調える頃には、その人の階段を上りきる音が聞こえていた。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
 穏やかな男の声と、ノックの音。エルハームが唾を飲み込んで、「いいえ」と恐る恐る言葉を返せば、扉の向こうから一つ人影が現れた。
「遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます」
 そう言って、男がにこりと笑みを浮かべる。細身だがすらりと背の高いこの男の差し出した手には、いかにも職人らしく何カ所かタコができていた。
「あの、私……突然押しかけてしまって」
「いいえ、ちっとも構いませんよ。それより、少しは暖まりましたか?」
「ええ。頂いたスープ、とっても美味しかった」
 彼の手を握り返す。しかし同時に、エルハームは小さく息を呑んだ。不意に自らの頬を伝った、一筋の涙に気づいたのだ。出会って間もない女が突然泣き出したのでは、この親切な男はどんなに困惑することだろう。そう考えて俯けば、エルハームの視界へ、男の履いた黒い布靴が飛び込んできた。
「黒靴の、アクバル」
 呟くと、相手は一瞬きょとんとした顔をして、それから困ったように眉根を寄せて笑ってみせた。
「あなたのお兄さんが、私をそう呼んだのですか?」
「ええ。ラシュカの町に、黒い靴ばかりを作る靴職人が居るのだと、……兄はその人のことを、黒靴のアクバルと呼んでいたのだと、……。そしてその兄が、私に『黒靴のアクバルに会え』と言ったのです。そうしてあなたに会えたなら、海より深い感謝の思いを伝えて欲しいと、何度も何度も繰り返していた。だから私、はるばるクルカス山脈まで越えて、あなたの所へ来たのです」
「それだけのために?」
「ええ。たったそれだけのために」
 握り返した手を放し、小さな行李へ手を伸ばす。そうしてその中から一つの包みを取り出すと、エルハームはそれを広げ、またぽつりと零れた涙を自らの袖で拭い去った。
 包みを解いたそこには、すっかり履きつぶされた男物の黒靴が在る。
「兄は、あなたとあなたが作ったこの靴に心を救われたのだと、そして今までには見たこともないような、広い世界を学んだのだと、繰り返し私に語って聞かせました。本当に、最期の息を引き取るまで――あなたに直接感謝の心を伝えられない事が、それだけがただ、無念だと言って」
「……、お兄さんは、亡くなられたのですか」
 「ええ、そうです」言って鋭く顔を上げれば、目の前の男と目があった。ゆったりとした黒上衣を羽織ったこの男は口元をきゅっと結び、悲しむでもなく、驚くでもなく、じっとエルハームのことを見ている。
「殺されたのです」
 答える声が、細く震えた。それでも彼は目を背けない。それどころかこの男は、続いたエルハームの言葉を予期していたかのように、深く、穏やかな息を吐く。
「兄は毒で殺されたのです。――妹である、この私に」
 
 * * *
 
「私と、私の兄の話を、どうか聞いてくださいませんか」
 エルハームがぽつりと呟けば、アクバルと呼ばれた靴職人は、ただ小さく頷いてみせた。そうして彩りに欠けた刺繍布を幾重にも敷いたソファへ、エルハームを座らせると、自らは白木の軋む簡素な椅子へ腰掛ける。
「私はしがない靴職人です。それでも良いと仰るのなら」
「あなたに聞いて頂きたいのです」
 縋るような思いであった。
「私には、もうそれ以外に、兄を弔う術が思い浮かばないのです」
 
 * * *
 
 エルハームとその兄が生まれ育った故郷のことを、人々は『オルメニオ』とそう呼んだ。
 『オルメニオ』――旧語で、『森に愛された者』を意味する言葉である。大地への信仰が厚い彼らは深い森の中で生き、外界とは一線を画した集落で、長く独自の文化を育んでいた。しかしそんな彼らの生活を一変させたのが、五年前に起きたオルメニオの森近辺での大干魃である。
 干上がった川は彼らから食物を奪い、家畜を奪い、更には堅牢たる森で囲まれていた、自然要害の守りまでもを奪ってしまった。かねてより隣接した王国に領土を脅かされていたオルメニオの人々が、己等の故郷の自治権を失うまでに、それ程時間を要することはなかったと、エルハームは静かに語った。
「王国との力の差は歴然でした。だから私達は無理に逆らうことはせず、王国への全面降伏を申し出たのです」
 王国へ降伏したオルメニオの民に課せられたのは、重い人頭税と地税、そして兵役の義務であった。そんな中で王国に徴兵された男の内の一人が、彼女の兄であったのだという。
「兄は元々体格にも恵まれ、力も強く、そして、人々を導く才のある人でした。王国へ属するオルメニオの兵士達は、その大半が戦線の最前列に送られ王国兵の盾にされたと聞いていますが、それでも兄は戦いを生き延び、手柄を立てて、軍の中での地位を確かなものにしていったそうです。痩せた土地に住み、税に喘ぐ私達を救うため、兄は他国の人間を多くその手にかけ、奴隷の身分に落とし、数多の土地を蹂躙した。けれど、――」
 エルハームの黒々とした目が、じっとアクバルの目を覗き込んでいる。その瞳の内に燃える炎を見て取った靴屋の主人は、しかし頷くに留まった。
 エルハームの細い指が、そっと彼女の耳元に触れる。そうして、まるで頭を抱え込むかのような様子のまま、彼女は震える声でこう言った。
「ある砂漠の王国を攻め滅ぼしたその後に、兄は、ここであなたと知り合った」
 
 * * *
 
「その時のことは、私も良く覚えています」
 落ち着きのある低い声で、アクバルがそう呟くのを、エルハームはただ黙って聞いていた。先程まで訥々と、危うげながらも自らの知るところを懸命に語って聞かせたこの少女が、今ではぎゅっと口を閉ざしている。
 続くアクバルの言葉を待っているのだろう。それを心得ていたから、彼も彼女の意志に従った。
「一年前の、収穫祭の頃の事です。あなたのお兄さんはあなたが付けているのとよく似た、鹿の角を模した頭飾りを身につけて、このラシュカの町のバザールへ訪れていました。丁度、履いていた靴が破れてしまったので手頃なものを探していたところ、私の店を紹介されたのだそうです。しかし私は黒い靴しか作る気がないので、それ以外を望むのなら他の店へ行ってほしいと伝えると、彼は、『それは都合が良い』とまず言いました」
 
 * * *
 
「それは都合が良い」
 体格の良い、ぼろを纏った軍人は、そう言ってから小さく笑った。
「靴の色が黒ければ、どんなに他人の血を踏みにじり、その血の色を吸いあげようとも、気にとめずにいられるようになるだろう」
 軍人は、ただ疲れ切った表情で、そんなことを呟いた。
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