白墨瑣話


【目覚め 墨染めの うつし 前編】

 はっと息を呑むその音が、静寂の裏へ染みいった。
 『陽』の光の燦々と、堕ちる純白の紙模様。
 そこへ走るは薄墨の、『陰』のヒカリの肌である。
「ああ、貴方は、……まことに奇跡を為されるのか……」
 感極まったその音が、男の喉を湿らせる。だが同時に聞こえた金属音は、少しの慈悲も施さない。傍らに控えた衛兵は銀の矛を構え、ただ立ち尽くす依頼人の男に対し、低く短く警告した。
「儀の最中、『うつし』に話しかけることは禁じられています」
 依頼人の男が、ごくりと唾を飲み込んだ。しかしそうする間にも、『陰』はヒカリをなぞり続ける。
(ああ、――視える)
 心の中で呟くと、意識は紙面へ堕ちていく。触れる。導く。そして視る。すると相手が振り返る。その表情の穏やかなのを知ると、彼もうっすらと微笑んだ。
(そら、捕らえた)
 それが笑んでいるのなら、彼も微笑む必要がある。それが泣いているのなら、彼も泣かねばならないのだから、捕らえる相手が穏やかであることは、彼にとっては好都合であった。
(教えておくれ、おまえの顔を。聞かせておくれ、おまえの声を。……語っておくれ、おまえの思いを)
 
 * * *
 
「本当に、本当にありがとうございました。これで、――息子の顔を、忘れずに済みます」
 涙ながらにそう語り、腕に一枚の画を抱いたその男が去っていくのを見送った。そうして依頼人と共に見張りの衛兵達が総て退出したのを確認すると、彼は大きく息を吐く。
「疲れた。どうやら、とても疲れた」
 そうしてめいっぱいに背を伸ばすと、この場へ置かれたたった一つの家具へと這い寄り、そこへぐったりと身を任せる。天井の高い、石造りのこの礼拝堂には祭壇も祈祷台もなく、ただ白いシーツの掛かった寝台だけが、ぽつりと一つ置かれている。それが、彼に与えられた自由の場の全てであった。
 だらしなくそこへ寝そべると、頭上のステンドグラスからこぼれ落ちる色彩が、彼の視界に広がった。これを見る度に彼の脳裏には、いつでも『本物』という言葉が浮かんで消える。その言葉はまとまりのない、漠然としたイメージとしてそこにあった。『本物』『真実』……そうでなければ、『偽りのない自然』。それらはいつだって、彼の手からは遠く離れたところにあった。
 こうして眠るその瞬間は、彼も万人と変わらず『陽』の光に包まれている。しかし彼の透き通るような白い肌も、その髪も、『本物』の『陽』に焦らされることはない。
(ああ、そろそろ、昼時だろうか)
 そう考えるのとほぼ同時に、扉の側からことりと小さな音がした。恐らくは物見の小窓から、昼食のトレイが差し入れられたのだろう。それに合わせたかのように、彼の腹の方からは、ぐぐうと間抜けな音が鳴る。彼は一度寝返りを打ち、鳥の羽の詰まった枕へ顔を押し当ててから、しかし空腹に身を起こした。今日は朝から仕事が続いたために、すっかり消耗しきっているのだ。何かを腹に入れなくては、眠ることすらままならない。
 立ち上がり、白装束を整える。そうして足下まで伸びた白髪をむんずと掴むと、それを無造作に結い上げた。だがその先端が墨色に染まったままなのを見て、思わず額に手を当てる。しまった、色を落とすのを失念していた。こんな姿を神官どもに見られでもしたら、またとやかく言われてしまう。そんなことを思いながら、しかし素知らぬ顔で食事のトレイを手に取ると、それを床に置き一気にスープを呑み込んだ。いつもと同じ、薄味のスープに固いパン。それから野菜が少々というメニューを、手早く、胃の中へと流し込む。その際、近くに置いた墨流し用の鉄桶へ、髪を浸すのも忘れない。これにも本来ならばきちんとした作法があるのだが、こうして手を抜いたところで、彼の『うつし』としての力は、少しも衰えたことがないのだから、特に問題はないだろう。
 『うつし』。つまりはこの世界に置いて、『他人から与えられたイメージを、寸分の違いもなく紙面へ描き出す』能力を持つ者達の事である。数年に一人、何の前触れもなく生まれるこの者達はいずれも国と教会の管理下に置かれ、その生涯を国事に費やす定めとされていた。ある者は官吏の専属となり、国家機密から他愛もない地方役場の公的文書までを筆記する役を与えられ、ある者は既に失われた建造物や美術品の目撃者のイメージを読み取り、それを記す役を与えられて生きている。
 その中でも彼は、特に人の顔を描くことに得意があったから、仕事の依頼は大抵がその類であった。先程の依頼人(彼に依頼を持ち込めたということは、どうやらそれなりの要職に就いている人間なのであろう)は不慮の事故から息子を亡くし、その遺影を求めにここへ来た。だから彼は依頼人の男からその息子のイメージを読み取り、その生前の姿を『うつして』やったのだ。
(『うつし』として生まれたるは人にあらず。生涯を決められた一室で過ごし、部外者との接触は悉く断たれる)
 依頼人と接するときですら、直接会話を交わすことは禁じられている。相手が何を言おうとも、彼はただ沈黙を貫かなくてはならなかった。
 そんな自らの境遇を、嘆いたことなど一度もない。もとより、人間として扱われるということが、現状とどれだけ違うものであるのか、そもそもそれほど大差ないのか、それすら彼には判じ得ない。だが、しかし。
(一つだけ、……この生涯に一つだけ、望む事が許されるなら)
 ふと、頭上を振り仰ぐ。そうして『偽物』の『陽』に眼を細めると、気づかぬうちに溜息が漏れた。
「『本物』の『陽』が見たい――」
 呟いた。
 こんな事を聞かれては、衛兵に鞭で打たれるだろうか。そうは思いながらも、彼は言葉を隠さなかった。むしろこの一言によって、彼に与えられた景色が少しでも変化を見せるのなら、それでもいいと思っていた。『うつし』は、その能力を失った者、逃亡を企てた者全てが、死を与えられると聞いている。だがその『死』というものの恐ろしさを、彼は理解することが出来なかったのだ。
 濡れた髪を布で拭うと、いくらか膨れた腹を抱え、ごろりと寝台へうつぶせる。すると物見の小窓の向こうから、低い声が聞こえてきた。
「起きろ。至急の仕事だ」
 ああ、またか。今日だけで、一体何件目だと思っているのだ。
「今回の『うつし』は、或る殺人未遂事件の被疑者の人相書きだ。共犯者と思しき女を捕らえてあるが、口の堅い奴で、多少痛めつけたところで悲鳴一つあげやしない。だがお前さんの――その不気味な能力があれば、女の頭の中から共犯者の顔を読み取ることが出来るだろう。共犯者が複数居た場合には、その全てを書き上げろ」
 一方的な言葉のあとに、ぱたりと小窓が閉じられた。
(好きじゃない方の、依頼が来たな)
 とはいえ自身に仕事を選ぶ権利など、無いのは重々承知している。そうして嫌々起き上がった彼の前に連れてこられたのは、縄を打たれた少女であった。
 
 * * *
 
 黒い髪を短く切った褐色の肌のその少女は、まるで側仕えが掃除に用いる古布をまとったような身なりでそこに居た。薄汚れた、元は白かったのであろう袖のあるシャツはあちこちがすり切れており、膝上までの丈しかないズボンから生えた足はすっかりやせ細っている。腕にも足にも負傷をしているらしく、じくじくと乾ききらぬ傷口からは血がしみ出しているというのに、手当を受けた様子はない。
(それもそうか)
 見ればその浅黒い顔にも、大きな青痣を拵えている。ここへ連れられてくる前に、随分痛めつけられたのだろう。そうしてその痛みに屈しなかったからこそ、こうして『うつし』に身柄を引き渡されたのだ。
 彼女を連れてきた衛兵の一人が、乱暴に彼女の膝を蹴る。意志に反して膝を突いたその少女は悔しげに、同時にいくらか怯えた様子で部屋をきょろきょろと見回すと、やがてその大きな瞳で彼を睨み付けた。今にも牙を剥きそうな剣幕には、彼もいくらかたじろいだが、そんな態度を表に出すわけにもいかない。覚悟を決めて少女に歩み寄ると、彼はいつもの作法で黙ったまま、彼女にそっと手を延べた。
「あたしに触れるな」
 低く威嚇するようなその声が、しかし恐怖に震えている。この手の依頼で連れ込まれる人間は、大抵こうして、彼ら『うつし』に怯えるのだ。人に似た、しかし人ではない彼らに一体何を読み解かれるのか、何を暴かれ、晒されるのか、気が気でないのに違いない。少女は尚も、手を延べる彼から逃れるように身を捩ったが、縄を打たれたままでは大した抵抗もできない様子であった。衛兵達に背を殴られ、咳き込み這い悶えるのを横目に見ながら、彼は慣れた手つきで墨を摩る。そうして床に置かれた紙面の前へ鎮座すると、結った自らの髪の先を薄墨に浸し、また手を延べた。
「やだ、嫌だってば! あたしに触れるな、……あたしに触れるな!」
 地面に頭を押しつけられ、ひれ伏す姿勢になった彼女が、甲高い声でそれでも叫ぶ。顔をしかめた衛兵に布を噛まされても、彼女は唸りながら必死に身を捩り、強い視線で彼のことを睨み上げていた。
(こういう仕事は、大抵こうだ)
 深く、長く、息を吐く。しかしそうして彼女の額に手を当て、イメージを読み取ろうとして、
 彼は些か、困惑した。
 これが普段の『うつし』であったなら。こうして一度相手の額に触れれば、イメージの鮮明さに多少の差異はあれども、彼は大抵目的の人物の顔がどれであるのかを、瞬時に判断することが出来た。相手が望んでこの場へ訪れた人間であるにしろ、そうでないにしろ、なにかしら強い思いのある人間は、知らずの内に思いの対象となる人間の顔を強く思い浮かべてしまうものなのだ。特にこの少女のように、何かしらの事件を起こし、自分だけが捕らえられた場合には、それを逃れた仲間を頼るか、あるいは恨むか、いずれにせよ強い思いを抱いていることが多いのだ。
 だが、それなのに――。
(イメージが、読み取れない?)
 何も視えないわけではない。彼女の脳内は雑然とした記憶に満たされており、彼にはそれが視えていた。ここからは遠い、彼女の故郷。貧しい部屋に、仲間達と共に武器を取ったその瞬間。しかしそれらは視えるのに、どうしても、霞がかかったように不明瞭な部分がある。
(記憶の中の全ての人の、……顔が、顔だけが)
 人々の顔だけが、何故だか、どうしたって視えないのだ。
(こんな事、今まで一度もなかったのに)
 不測の事態に、心が揺れる。しかしその直後、指先に走った痛みに、彼は小さな悲鳴を上げた。見れば例の少女が、いつのまにやら布を吐きだし、にやにやとした顔で彼のことを見上げている。彼の白い指先からは、ぽたりぽたりと血がしたたり落ちていた。
「ふふ。『うつし』とやらも噛みつかれれば、人間みたいに血を流すんだね」
 そう言って笑う少女に対して、衛兵が鞭を振り上げる。しかしそんな事にも構っていられぬほど、彼は激しく狼狽していた。
(視えない? どうして。ついさっきまで、あんなにはっきりと視ていたのに)
 まさかこの少しの間に、自分は『うつし』の力を失ったのだろうか。
 急にこみ上げてきた吐き気を堪えられず、彼がその場へ蹲る。目が回って、何やら手元も覚束ない。いつか誰かのイメージを遡った時に見た、『酔う』という現象と似ている気がしたが、それを誰かに伝えることは出来なかった。
 一方でその様子を見た衛兵達も、一体何事が起きたのかと、慌てふためいている様子である。しかし衛兵達は考えあぐねた結果、『うつし』と言葉を交わしてはならないという戒律を重んじることに決めたようだ。蹲って喘ぐ彼に声をかけることもなく背を向けると、例の少女を引きずるように、さっさと部屋を後にした。
「あたしを甘く見ないでよ! あたしは何があったって、仲間を売ったりしない。仲間の情報を、お前達に知らせてたまるものか!」
 甲高い笑い声が聞こえている。彼はやっとの事で寝台まで這うと、そこへ、気怠い体を横たえた。
 髪に染みこませたままでいた墨が、じわりと、白いシーツに一点の染みを滲ませる。それをぼんやり眺めながら、彼は自らの意識を手放した。
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