ハイイロ飛行


【後編】

 陽も落ち、明かりも灯さず暗闇と化したジキルの家の戸を叩く音が聞こえたのは、ジキルが『記憶屋』の元から帰った晩のことであった。
 「ごめんください」と呼ぶのは少女の声だ。一方でジキルは着替えもせず、家に着くなりボロのソファへ横になり、浅い眠りについていた。
 ガンガンと扉を叩く音。「あの、お留守ですか、いらっしゃいませんか」と続く声が、いやに、煩わしい。ジキルはしばらくその音も、声も聞き流していたのだが、そのうちついに我慢が出来なくなり、苛立ちながら体を起こした。少女は尚も、扉を叩き続けている。
「あの、ジキルさん。いらっしゃいませんか」
 重い扉をぐいと開けば、叩いていた扉を急に失ったせいだろう、少女が前へつんのめる。ジキルは咄嗟にその体を支えてやってから、すぐに彼女から手を放し、顔をしかめると、「どちら様?」と短く尋ねた。ジキルより十は年下の、まだ幼い娘である。この辺りでは、あまり見覚えのない顔だ。
「あの、突然ごめんなさい。私、急いでいて。荷物があるんです。でもランデルタール山脈には、今日も大風雨が、だからあの、ジキルさん」
「待て、一体何の話だ? 家賃はちゃんと払ってる。立ち退き要請ならお断りだ」
「そうじゃありません。私、仕事の依頼に来たんです」
「仕事、……俺に?」
 問い返せば、彼女はぱっと表情を明るくして、大きく三度頷いた。
「急いで届けてほしい荷物があるんです。本当は郵便飛行会社へ行ったんだけれど、今はランデルタールの天候が荒れているから、北の方角へ飛行艇は飛ばせないって断られてしまって……。でもちょうど近くを歩いていた男の人に、ジキルさんのことを聞いたんです。ジキルさんならこの程度の風雨、目をつぶっていても飛んでいけるって聞きました」
 「男?」と思わず聞き返せば、この少女はまた頷いて、「黒い服を着て、トップハットを被った人でした」と素直に告げる。
(トップハット……。まさか、『記憶屋』か?)
 そう考えて、しかしジキルは無感情に息を吐くと、ぎいいと軋んだ音を立て、扉を締めかけた。少女がはっと息を呑み、「待って下さい!」と声を上げる。
「郵便飛行会社で断られたんだろう。生憎、俺も自前の飛行艇を持っているわけじゃないんだ。会社の許可がなけりゃ、飛べない」
「飛行艇なら、トップハットの男の人が貸してくれると言っていました」
「はあ? 『記憶屋』が、どうしてそんなものを持ってる」
「『記憶屋』……? あの、でも、ジキルさんに引き受けてもらえたら、ロンドの丘に来るようにと言われました。そこに飛行艇を用意しておくから、って」
 この少女の言う男が、ジキルの推測の通り『記憶屋』であったなら。一体彼は、何を考えているのだろう。
「お願いします。どうしても、急いでいるんです。ランデルタール山脈では、一度大風雨が起こると長引くって聞きました。……郵便飛行会社が動いてくれるのを待っていたら、間に合わなくなってしまう」
 聞いて、ジキルはぎくりとした。『間に合わない』その言葉が、まるで冷たい刃のように、ジキルの心を撫ぜたのだ。
――ジキル、一体どこへ行っていたんだい! どうして早く戻らなかった。アイシャが、あんたの妹が、今、――
 ふう、と小さく息を吐く。しかしそれでもなお、ジキルが扉を閉めようとすると、少女はその口を真一文字に結び、「お願いします」と深々頭を下げた。
「母さんが病気なんです。医者様が言うには、もうあまり長くないって……。私、母さんと大喧嘩をして出て行った、お兄ちゃんを呼び戻したいんです。お兄ちゃん、どんなに電話で話しても、会わせる顔がないからって言って聞かなくて。……この荷物は、お兄ちゃんが母さんへ贈ったものなんです。これを、母さんが今も大切に持っていたって事がわかれば、きっと帰ってきてくれます。お願いします。――最期に、逢わせてあげたいんです」
 彼女の言葉は、切実であった。
 
 とっぷりと暮れたロンドの丘に、冷たい風が吹いていた。
 厚手の帽子を被り、継ぎ接ぎだらけの上着を整え、ゴーグルをぴたりと額に付ける。
「一体何が目的だ?」
 ぽつりと一言そう問えば、ジキルの前に立つトップハットの男――『記憶屋』は、「目的なんて無いですよ」と言ってにこやかに笑ってみせた。
「丁度、偶然、天の思し召しで、あの娘が郵便飛行会社と揉めているところに出くわしましてね。親切心から、貴方のことを紹介したわけです。考えてもみて下さい。貴方のような大人ならともかく、あんな年端もいかない若い少女が、この事で心に傷を負い、麻薬中毒者かのように私の元へ通ってくる姿なんて、想像したくもないじゃないですか」
 相変わらずの物言いに、ジキルが思わず眉を顰める。そうして彼のすぐ隣に用意された機体を一瞥すると、「F型か」と呟いた。
「ええ。郵便飛行屋が使うものより旧型です。大風雨の中、この機体で飛べますか?」
「お前が、俺になら飛べると吹聴したんだろう。今更無理だなんて言えるか。それより、どうしてお前がこんなものを持ってる」
「私は意外と、何でも持っているのですよ。よく、お代の代わりに頂きますので」
 『記憶屋』がにこりと笑むのを見れば、何やら背筋に悪寒が走る。しかしそうして機体に乗り込みながら、ジキルは思わず苦笑した。悪寒が走る、だなんて、随分久しい感覚だと思ったからだ。
 『あの日』から、自分の心はもうすっかり、錆び付いてしまったものとばかり思っていたのに。そう考えれば不意に、昔聞いたアイシャの言葉が脳裏に過ぎる。
――大人がスモッグとか呼んでいるあれは、繭なのよ。隕石の落下で傷ついたガイアが、自分の身を守るために作った大きな繭。
 操縦席に乗り込むと、まずはざっと、操縦桿の位置を確認する。旧型とは言え、配置はそれ程変わらないようだ。案外、手入れもきちんとされている。袖や首元の釦をきっちり締め直すと、ジキルは額にあてていたゴーグルを目の位置へ移した。
「間に合うと良いですね、今度は」
 『記憶屋』が、ぽつりとそう言った。
 耳を澄ませて風を聴き、広いロンドの丘を滑走路に、飛び立つ姿を想像する。『記憶屋』がその細い腕で、機体の先端に付いたプロペラをぐいと押し回した。
 軽やかなエンジン音が、冬の夜風にふと混ざる。機体が丘を下っていく。そうして傾斜を利用し、ある程度の速度が付いたところで、
 ジキルの乗ったグランジアムF型は、瞬く間に夜空へ飛翔した。
 星の少ない夜である。厚い雲の合間から見えるその光は、ジキルの進むべき方角を指し示すには物足りない。高度を上げていくにつれ、ちりちりとした寒気がジキルの頬をなぞっていく。それでもジキルは身じろぎもせず、肌で風のうねりを聴いた。
(届け先は、ランデルタール山脈を越えた向こう、カプスハウゼン)
――母さんが病気なんです。医者様が言うには、もうあまり長くないって……。
――郵便飛行会社が動いてくれるのを待っていたら、間に合わなくなってしまう。
(そんな仕事をこの俺が請け負って、良かったものやらわからんな、……)
 自嘲気味に笑うジキルの頬に、ぽつりと何かが落ちてきた。雨粒だ。
 眼を細めて、風を読む。しかし唐突に横風を受けたのを感じて、ジキルは操縦桿を握る掌に力を込めた。
 ランデルタールの、暴風域に入っている。
(ちっ、旧型は計器が見にくいな)
 星を読むことが出来ない以上、備え付けのコンパスで、こまめに方向を修正せねばなるまい。高度を下げて強い横風をやり過ごし、しかし唐突に視界に横切ったその影に、ジキルは思わず手を揺らした。
 鳥だ。羽ばたく力を失った鳥が、風に流されて横切ったのだ。しかしそうとわかったのとほぼ同時に、ジキルの飛行艇がぐらりと揺れる。
 上部主翼から異音がした。みしりと鳴ったその音に、ジキルの血の気が引いていく。一度、この風域から逃れて体勢を立て直さなければ。そうは思うのに、操縦桿が上手く動かない。叩きつけるように吹く雨が、ジキルの手元を滑らせている。エンジンを蹴り、自棄になって舌打ちをした。だがそうしてふと見上げた視線の先に、――雲の隙間が、ぽかりと口を開けていた。
 その背景には訳知り顔でジキルを見下ろす、灰色の繭を着込んだガイアが在る。
「上がれ、……上がれ」
――お願いします。最期に、逢わせてあげたいんです。
「上がれ、間に合え!」
 
 両親の時も、――アイシャの時も、ジキルはいつだって、最愛の人達の最期には間に合う事ができなかった。
 アイシャを亡くしたのも、やはり雨の日の事である。晴れの日には穏やかに暮らし、仕立屋での仕事も順調にいっていたアイシャだが、事故から数年が経ったその頃も、彼女は強い雨が降る度、倒錯を繰り返して苦しんでいた。
 急の天候の変化であった。突然のその雨に、想定外の仕事で足止めを食っていたジキルは焦れていた。きっと家では、発作を起こしたアイシャが震えて待っている。職場の人々に事情を説明し、ジキルは走って帰宅した。しかしそうして帰ったジキルを待っていたのは、――アイシャではなく、隣の家の住人であった。
「ジキル、一体どこへ行っていたんだい! どうして早く戻らなかった。アイシャが、あんたの妹が、今、――」
 そうしてジキルは、錯乱して外へ出たアイシャが車に轢かれ、今し方息を引き取ったところだと聞かされたのだ。
「アイシャはずっと、あんたのことを呼んでいたんだよ。ごめんね、ごめんねって何度も繰り返して。最期に何か言ったけど、もう、声もすっかり弱っていたからね……。その言葉もやっぱり、『ごめんね』だったんだとは思うんだけど」
 『ごめんね』。その言葉がずしりと、ジキルの心に圧力をかける。
――私さえ居なければ、兄さんはガイアへ行けたのに。
(違う。違う、俺はお前のことを、……『夢』を諦めるための口実にして、……)
 後悔するには、もう遅い。
 その日からずっと、ジキルは己を責めてきた。アイシャは、優しい妹は、ジキルの半端な『夢』の犠牲になったのだと――、そう思えてならなかったのだ。
 
 足を踏ん張り、渾身の力を込めて、雨ですっかり濡れそぼった操縦桿を引き上げた。そうして飛行艇の先が雲の隙間へ向かいつつあるのを感じると、ジキルは風の流れるその先を、灰色のガイアがあるその場所を、強く、睨め付ける。
 灰色のスモッグで覆われる前のガイアは、美しい青い惑星であったと聞いている。しかし今では薄ぼんやりとして、嵐の中に見つけても、明るい希望は湧いてこない。
――ガイアは今、きっと一生懸命自分の身体を癒そうとしているんだと思うの。誰も寄せ付けないように、灰色の繭ですっかり自分自身を覆い隠して、その中で少しずつ、元の豊かさを取り戻そうとしているのよ。
(俺が夢を追い続けていたら……お前の纏っていた『繭』を、俺は壊さずに済んだのかな)
――大丈夫。大丈夫よ、兄さん。私のことは心配しないで。私、兄さんの足枷にはなりたくないの……。
 いつも質素なグレーの服を着て、倹約して家事をこなし、仕立ての仕事さえ始めながら、懸命に元の自分を取り戻そうと頑張っていた、アイシャの姿を思い出す。目の前に見えるガイアの姿は、まるで彼女と同じに見えた。
 主翼がみしりとまた鳴った。打ち付ける雨にジキルの手が、ゆるゆると操縦桿を握る力を失っていく。高度が下がる。ああ、進路を変えなくては。このままではいずれ、聳え立つランデルタールの山々に激突してしまう――。
 しかしそうして、ジキルが深く目を瞑った、その時だ。
 ぽちゃん、と、何やら水の落ちる音。おかしな事だ。右も左もわからぬような風雨に晒されているジキルが聞くには、随分大人しい音ではないか。
(だけど、この音……)
 確かどこかで、聞いた音だ。そうしておぼろげな意識の中、思案を巡らせて、――
 はっと気づいて目を開く。その時に見た不思議な光景を、ジキルは生涯、忘れることはないだろう。
 遙か眼下に黒々と、水を湛えた場があった。湖だ。ランデルタールの山々に周囲を囲まれるようにして、一つ大きな湖が、ジキルの進む先にあった。その湖は雲の隙間から覗く僅かな星の灯りに瞬時、輝いて、
 その水面に落ちてゆくジキルの飛行艇と、茫洋と浮かぶガイアの姿、それに――一人の少女の姿を、映し出していたのである。
 遠くの湖に映るその少女が誰なのか、ジキルはすぐに直感した。ガイアと同じ灰色の衣服を身に纏った彼女は、すっとランデルタール山脈の向こう側、どうやら北の方を指さしている。それはジキルの運ぶ荷の目的地である、カプスハウゼンのある方角だ。
「間に合うわ」
 懐かしい声が、優しく告げる。
「ずっと言いたかったの。ごめんなさい。……それに、ありがとう、兄さん」
 ああ、あの小さな水音は、――『記憶屋』で仮初めの夢から目覚める時、耳に馴染んだあの音だ。
 
 ***
 
「おや、お帰りなさい」
 ぞろぞろとした黒い上着に、似合わぬトップハットを被ったその男が、ジキルに向かってこう言った。飛行艇を返却したいからと、彼が『記憶屋』に訪れた日のことである。
 ジキルはこの得体の知れない男を相手に、小さく溜息を吐くと、「機体はロンドの丘に戻してある」とまず言った。
「あの荒天の中、無事に仕事を終えられるとは。いやはや流石でいらっしゃる」
「お前が、そう仕向けたんだろう」
「ふふ。貴方が飛び立つよう仕向けたのは私ですが、その先のことは知りませんよ」
 そう言って、この男はくすくすと笑った。
「……いえ、実はね。私の所へ『夢』を買いにいらっしゃる時の貴方が、あまりに自暴自棄でいらっしゃるものだから、いっそこの辺りでオシマイにして差し上げた方が、良いかとも思っていたのですよ。あの飛行艇も、私には無用の長物でしたから、貴方と共に山に消えても、まあ、丁度良いかと」
 言われてジキルは、びくりと肩を震わせた。つまりこの男の目論見は、ジキルをあの大風雨に向かわせて、ひと思いに死なせてやろう、と、そういうことだったのだろうか。しかし相手はジキルのそんな反応を楽しむように笑ってから、穏やかな声で、「間に合ったそうじゃないですか」と呟いた。
「息子さん、荷物を受け取ってからすぐに列車に乗って、お母さんと妹さんの居るこの町へ戻って来たそうですよ。間に合いました。……、ちゃんと間に合いましたよ」
 何度も言わなくても、聞こえている。そう返そうとして、しかしジキルはそれをやめた。代わりに、「そういえば」と言葉を置くと、彼はただ穏やかな声で、「もう、お前の世話になるのはやめにするよ」と、そう続けた。
「カプスハウゼンに着いた後、一度だけ、夢に妹が出てきたんだ。あいつ、空みたいに明るい青色の、新しい服を着て、笑って俺に手を振ってた。海辺で……あれは、もしかしたらガイアの海かな。友達も出来たみたいで、なんだか凄く、幸せな夢だったんだ」
 『記憶屋』はわざとらしい驚き顔をして、「素敵な夢をご覧になったんですね」と相槌を打つ。
「しかし結局、妹さん離れできていないじゃないですか」
 「放っておけ」とジキルが言えば、相手はにやりと笑ってみせた。
「いいでしょう。それではこれで、さよならです。――どうぞこれからは、良い『夢』を」

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