ハイイロ飛行


【前編】

 かんかんと軽い音を立て、ボロの階段を上っていく。
 錆びた手摺りに手を沿わせ、鼻歌交じりに戸を叩く。扉の内から返答はない。しかしこほんと一つ、勿体ぶった咳をすると、ジキルは冷たい鉄のドアノブに手をかけた。
 吐いた息が、柔らかな白に染まっている。灰色の雲のどんよりと落ちた、ある真冬の日のことだ。安っぽいクラシナメタルで出来た、無骨な家が建ち並ぶ町。そこを歩く人々は、皆一様に継ぎ接ぎだらけのコートを身に纏い、足早に道を抜けてゆく。
 体重をかけ、重い扉を押し開ければ、埃っぽい室内に冬の風が吹き込んだ。室内に入ったジキルが慌ててそれを閉じれば、今度は奥の部屋から漂ってきた、暖かなスープの香りが彼の鼻孔をくすぐった。
(この匂いは、オニオンのスープかな。体がよく温まりそうだ)
 ふと見れば、以前ごみ捨て場から拾ってきたボロのソファに、継ぎの布が充ててある。先頃、今にも綿がはみ出しそうだと言ったのを覚えていて、直してくれたのだろうか。
「アイシャ。……アイシャ、いるんだろう? 帰ったよ」
 汚れた上着をひょいとかけ、奥の部屋へと声をかける。首を傾げて覗き込めば、隣の部屋で鍋の味見をしながら浅く振り返り、ジキルに手を振る妹の姿が見て取れた。
「そろそろだろうと思ったわ。うちの窓からも、兄さんのR型が滑空しているの、よく見えたもの」
 妹の視線を追って、ジキルもまた窓を見た。旧式のグル硝子をはめただけの窓が、北風にカタカタと鳴っている。窓の外には点々と、ジキルの乗るそれと同じグランジアムR型飛行艇が空を飛翔しており、その背景には、――ジキル達全ての人々の故郷であり、今ではすっかりスモッグに覆われてしまった灰色の惑星ガイアの姿が、空の三分の一程度を占めるように、雄大に構えて見えていた。
「お帰りなさい、兄さん」
 灰色の飛行機雲が駆け抜けていく空に背を向け、部屋の中心に佇んだ、アイシャがにこりと微笑んでみせる。
(ああ、いつもの、アイシャの笑顔だ)
 ジキルは拳を握りしめ、つられてにこりと微笑んだ。
 アイシャに促されるまま、風よけの付いた帽子と、ゴーグルを外して席につく。食事を摂ればスープの暖かな温度が、じわりじわりと、ジキルの体に染みこんでいくかのようであった。
「兄さん、今度の仕事はどうだった? ジーナの都へ行ったんでしょう。向こうはまだ、温かいのかしら」
「いや、もう随分寒かったよ。収穫祭の頃だったから、楽しくはあったけどね。アイシャはどうしてた? 仕立の仕事は順調?」
「順調よ。今度ね、自分で一からデザインをしてみないかって言われているの。この前ラディスの奥様に仕立てたワンピースが、好評だったみたい」
「へえ! ならいつか安い布を見つけてくるから、俺の分も作ってくれよ」
「いいわよ。どんなワンピースが良いの?」
「俺が着るのに、ワンピースのわけあるか」
 「ふふ、そうよね。わかってる」悪戯っぽくそう言って、アイシャがくすくす笑っている。しかしふと気がつくと、ジキルはちらと視線を逸らして、「お前の分を」とぽつり、呟いた。「良い布が見つかったら、まずは自分の分のワンピースを作ったらいい。お前はいつも、グレーの上下ばかりだもんな」
 アイシャがちらとジキルを見て、「ありがとう」と穏やかな相槌を打つ。そうして食事の済んだジキルの皿を下げると、彼女は次に沸かした湯で、ジキルのためにコーヒーを煎れる。
「コーヒーは要らないよ」
 ふと、言葉がジキルの口を突く。けれどアイシャは手を止めず、「どうして?」と呟くようにそう問うた。そうこうしている合間にも、コーヒーの香りはより濃くなり、ジキルの体に潜り込む。「兄さんったら父さんの真似をして、食後にはいつもコーヒーを飲んでいたじゃない」
 かた、と小さな音がした。アイシャがカップに注いだコーヒーが、黒々とした光を帯びて、今、ジキルの眼前に在る。ジキルはもう一度だけ微笑むアイシャの顔を見つめて、それからようやくコーヒーカップに手を伸ばし、「あっという間だな」と呟いた。
「ねえ、明日も晴れるかしら」
 アイシャの言葉に、「勿論さ」とそう答える。アイシャは「そう」と微笑むと、どこか遠い目をしたまま、穏やかな声で言葉を続けた。
「ずうっと晴れていたらいいのに。……雨は嫌いよ。雨は嫌い……」
 カップの中を覗き込めば、水面に一人の男の顔が映し出されている。そこに居るのは無精髭を生やし、目の下に隈の出来た冴えない風貌の青年だ。
 それが今の、ジキルである。
 アイシャがいたあの頃とは、似ても似つかぬ『今のジキル』だ。
「いつもいつも、あっという間だ」
 零れた言葉は涙となって、カップに小さな波紋を作る。ぽつり、ぽつりと静かに水を打つそれと共に、どこか遠くで刻を告げる無慈悲な音が、聞こえているのはわかっていた。
 
 ***
 
 コーンコーンと、壁時計の鳴る軽やかな音。それを隣に聞きながら、ジキルはぱちりと目を覚ました。
 毎度のことではあったが、ぽろぽろと零れる涙が止まらない。それでもなんとか体を起こし、今までその身を横たえていた、簡素な寝台に腰掛ける。すると背後から、低い男の声がした。
「お目覚めはいかがですか、ジキルさん。ここがどこだか、わかりますか?」
 聞き覚えのある声に、のそりと緩慢に振り返る。「わかるさ、『記憶屋』だろう」と答えれば、目の前に立つこの男は、満足げに頷いた。ぞろぞろとした黒い上着に、何やら似合わぬトップハット。おなじみの格好をした男はジキルに背を向けると、欠けたカップにコーヒーを煎れ、「飲みますか?」といつも通りにそう聞いた。
「たまには他の飲み物はないのか。紅茶とか、ミルクとか」
「申し訳ないことに、そういったものは用意が御座いません。私の知る限り、この界隈では、人間の覚醒にはコーヒーが最もよい飲み物なのです。強すぎず、穏やかに人を目覚めさせる事。生活の内に馴染みやすい香りを持っている事。そしてその黒々とした水面に、それを飲む本人の、嘘偽りない今の姿を映し出せる事。あなたのように現実から逃避し、わざわざ金銭をかけて過去の記憶を買いにいらっしゃるような御仁へお出しするのには、このコーヒーという飲み物がどう考えても最適なのです」
 「皮肉屋め」とジキルが言っても、この男はにやりと笑むだけだ。
 『記憶屋』と呼ばれる、この男の名をジキルは知らない。知る必要もないことだ。だがジキルは、この男に何が出来るかは知っている。
 依頼人の過去の記憶を呼び起こし、その記憶であたかも現実であるかのような『夢』を造り出す。そうしてジキルのような貧乏人から、うんと高い依頼料をむしり取っては、依頼人にその懐かしい夢を視せるのだ。
「……。金が用意できたら、また来る」
 男はにこりと微笑んで、「お待ちしています」と言葉を返した。
 
 昼下がりの町中を、独りあてもなく逍遥する。しばらく急の仕事が続いたものだから、少しは休むようにと通告されたのが、ほんの二日前のこと。とはいえその言葉が、本当にジキルの体調を気遣う故のものではないことを、彼は重々承知していた。
 ふと頭上を見上げれば、見覚えのあるグランジアムR型飛行艇が、南へ飛んでいくのが見える。あれは同期のアベルだろうか。彼は今でも真っ当に、職務をこなしているのだろう。
 一人乗りの複葉機を使った、郵便飛行。それがジキルの仕事である。その中でも、特に天候の荒れやすいランデルタール山脈を抜け、ディテア地区へ軽量物品や封書の類を届けるのが、ジキルの担当分野であった。軽い機体で風に遊び、雨の隙間を縫って航行する。しかし一週間程前からランデルタール山脈の辺りで大風雨が頻発しており、その方面へ飛行艇を出せない関係上、飛行艇乗りの仕事の量が減っているのだ。
 ジキルの父親もまた飛行艇乗りであったこともあり、彼は幼い頃から、風の読み方を心得ていた。耳で聴き、肌で読み、自分の直感を信じて突き進む――。どんな風雨の日にも必ず無事に山脈を越え、荷物を届けるジキルを歓迎してくれる人々は、昔は町にも多くいた。その頃であったなら、会社の判断で飛行艇を出せないような日でも、よく内勤の仕事に声をかけられていたものだが、すっかり厄介者になってしまった今のジキルに、そんな誘いは終ぞ無かった。
「ねえ、ジキルよ。あんなところで何をしているのかしら」
「大方、いつもの現実逃避でしょう。最近すっかり何を考えているのかわからなくなっちゃって、なんだか気味が悪いわよね」
 ああ、また噂好き共の雑談だ。陰口ならば、聞こえぬように言えばいいものを。そう考えてから、ジキルは思わず苦笑した。恐らく彼らには、『ジキルは既に気が触れている』と思われてでもいるのだろう。
「そりゃ、仕方ないわよ。両親を急に事故でなくして、順調にいっていたガイア調査隊への進路も諦めて郵便飛行士になったっていうのに、ほら」
「可愛がってた妹まで、あんなことになったんじゃあ、ね」
 ジキルの指先が、びくりと小さく痙攣する。それに気づいた人間は、恐らく一人も居ないだろう。ジキルがふらふらと歩き始めると、彼らはさっと道を避け、また他愛もないお喋りに興じはじめたようだった。
(ガイア調査隊――)
 その言葉が、ちくりとジキルの胸を突く。
 人類にとって母なる星、故郷たる郷愁の星、ガイア。およそ三百年程前に起こった隕石落下の影響で、粉塵と火山灰とにすっぽり地表をくるまれたその灰色の惑星の、現状を知る者は誰も居ない。非常事態を受け、ガイアにとって唯一の自然衛星であったこの星へ命からがら逃げてきた人々は、それまでに培われた膨大な技術や知識を、咄嗟に運び出すことが出来ないまま母なるガイアへ置き去りにした。その為、この星の文明レベルはガイアで人類が築いていたそれより、随分劣っているのだ。今では旧文明時代の宇宙船も失われ、現人類が持てる限りの技術で作った望遠鏡や簡易な探査機の類では、灰色のスモッグに覆われたその地表の様子をうかがうことなど、出来ようはずもなかったのだ。
「ねえ、兄さん。私ね。ガイアの繭の、内側のことをよく考えるのよ」
 幼い頃のアイシャがよく、ジキルにそう話しかけた。「繭?」とジキルが問い返せば、アイシャは得意げに頷いて、堂々たる態度で自らの考えを主張する。
「大人がスモッグとか呼んでいるあれは、繭なのよ。隕石の落下で傷ついたガイアが、自分の身を守るために作った大きな繭」
「蛾の幼虫が作るような?」
「うーん、まあ、そうね。ガイアは今、きっと一生懸命自分の身体を癒そうとしているんだと思うの。誰も寄せ付けないように、灰色の繭ですっかり自分自身を覆い隠して、その中で少しずつ、元の豊かさを取り戻そうとしているのよ。だけどもう、隕石落下から三百年も経っているんだもの。繭の中は山も川も元の通りになって、海にはもしかしたら、魚が泳ぎ回っているかもしれない。そういう事を考えていると、私、とっても素敵な気持ちになるのよ」
 なんの根拠もなく夢見がちにアイシャが語るのを、ジキルは大抵の場合、適当に相槌をうって聞き流すことに決めていた。未知の故郷であるガイアに、アイシャとはまた違った強い思いを、ジキルも抱いていたからだ。
「ガイアが今、どうなっているかなんてわからないよ」
「だけど、とっても気になるじゃない」
「まあね。でも、ガイアの今を知る方法はたった一つさ」
 首を傾げるアイシャに、幼い頃のジキルは、したり顔で笑ってみせた。
「父さんが言ってただろ? 今度正式に、『ガイア調査隊』っていうのができるんだ。俺達の手で宇宙に飛び立つ飛行艇を造って、ガイアの今を見に行くのさ。まだまだ実験段階だけど、俺達が大人になる頃には、本当にガイアに行けるようになっているかも知れない。そうなったら、――俺は絶対一番に、ガイアへ飛び立つ飛行士になるんだ」
 幼い頃のジキルの『夢』は、ただ子供の憧れに終わる類のものではなかった。彼は調査隊の訓練校に入るため、力学や工学、医学等幅広い分野を必死に勉強した。正直なところ、それでも知識面の成績は最下位ぎりぎりのラインであったが、飛行の実技に関しては、彼は同期の中でもトップの成績を誇っていた。
 家族も彼を応援した。訓練校に入ったジキルは寮暮らしを始めたが、それでもアイシャは度々ジキルに会いに来ては、ガイアへ向かって進む兄を、真っ直ぐな目で見守った。
 そんな穏やかな日々を唐突に終わらせたのが、今も忘れない、あの日の『事故』である。
 酷く雨の降る日のことだった。ジキルはその事故のことを、訓練校の教官から聞かされた。ジキルの両親とアイシャを乗せた、列車の脱線事故。奇跡的に一命を取り留めた乗客の中にアイシャが居たが、しかし救出までの十二時間を、段々と冷たくなっていく両親に囲まれて過ごした彼女は、以前のアイシャではなくなっていた。
「母さんが、私に覆い被さってくれたの。でも母さん、そのせいで、鉄塔の直撃を受けたのよ」
「アイシャ。母さんは、お前を守ってくれたんだ」
「父さんはしばらく息があった。ずっと、寒い、助けてって言っていたのに、最期は私に、『お前は家へお帰り』って笑ったの」
「アイシャ、……」
「ごめんなさい。……ごめんなさい。兄さんだって、辛いのに」
 それから同じように雨が降る度、アイシャは酷く取り乱すようになった。事故を思い出すのだろう。ガタガタと震え、上手く言葉も発せない。そんな妹の様子を見かねたジキルが訓練校を辞め、寮を引き払い実家へ戻った時には、アイシャは酷く泣き喚いた。
 雨が降る度、彼女が錯乱するようになったのも、思えばこの頃からのことだ。「私が居なければ」彼女は繰り返した。「私さえ居なければ、兄さんはガイアへ行けたのに」
 「アイシャ、気にするような事じゃないさ」せめて優しい妹を傷つけないようにと、ジキルは出来る限り、明るい様子を振る舞った。
「そもそも、まだ宇宙への有人飛行だって成功しちゃいないんだ。あのまま訓練生を続けていたって、俺はガイアの地を踏むことなく、一生を訓練生として過ごしていたかもしれない。もし本当にガイアへの飛行が可能になったとしたって、俺は飛行士に選ばれないかもしれない。実際、訓練校には俺より優秀な奴なんて沢山居るんだから。……なら、ガイアに行くのは俺じゃなくても良いじゃないか? ガイアへ行った誰かが、ガイアの今を、俺達みんなに報せてくれるさ。だけど今、お前の側にいてやれるのは、俺だけだろう」
 妹の力になりたかった。夢を追うより、ずっと大切なことがそこにはあった。ガイアへの未練がなかったわけではない。だが、――
(このまま勉強を続けても、俺なんかが、本当にガイアに行けるんだろうか。そうでないなら、俺のしていることの意味は、……)
 そんな思いは、ずっとジキルの胸中にあった。
 大人になり、幼い頃のひたむきさを失いつつあったジキルにとって、
 つまりこの不幸な事故は、彼が自らの『夢』を諦める口実としても、打って付けであったのだ。
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