外つ国のゲンマ


第二章 共犯者 -2-

「これは美味いな! 酸っぱいのにどこか甘みがあって、野菜が柔らかくて、あと、肉! 肉がな、ほくほくして、スープが口の中でじゅわっとなって、これはいい、これは最高にいいぞ……。君、ぱっと見は料理なんかとても出来そうにないのに、こんなに美味い物が作れるなんて感動だ。あっ、これがキュウリのピクルスってやつだな。でもそういえば、今日、キュウリなんて買ってたか?」
 一息にそう言うイナンナの勢いに負け、目を逸らす間もないまま、「うん」と曖昧に頷いた。それから慌てて首を横に振り、「キュウリは、」と補足する。
「あの、キュウリは少し前に買って……、酢と砂糖で漬けてたんだ。そうしておくと、日持ちするから」
「砂糖? どうりで甘みがあるわけだ。それにしても共和国の人間は、こんなふうに誰でも自分で料理できるのか? ああ、でも、そりゃそうか。みんなばらばらの家で暮らしているんだものな」
 次から次に疑問が湧いてくるらしいイナンナを前に、「鉄塊の島民アトラハシスは違うの?」と思わず問うてしまってから、トビトは自分の言葉に首を傾げた。彼らがどんな生活をしていようが、特に興味もないはずであったのに、己の口からそんな疑問が出てきたことが、やけに意外に思われたのだ。
 いつの間にやら、すっかりイナンナのペースに巻き込まれている。問われたイナンナは嬉々として、身を乗り出してこう言った。
「陸の人間がひとまとめにして言う『鉄塊の島民アトラハシス』っていうのにも、船ごとに、色々と違うルーツや文化がある。陸の人間だって、みんながみんな同じように生活しているわけじゃないだろう? だから一概には言えないけど、少なくとも私の乗っていた船では完全に分業化されていたから、私は料理のこと、なにも知らないんだ」
「……、ふうん」
 興味なげを装って、再びコンロの前に立つ。随分昔に手に入れた、紅茶でも淹れようかと考えたのだ。しかし上手く火がつかず、何度かスイッチを捻り直していると、すっかりソファに馴染んでいたイナンナが、ふと寄ってきて古いコンロを覗き込む。そうして彼女は身につけていた鞄から工具を取り出すと、慣れた手つきでそれを修理し始めた。
「料理はできないけど、こういうことなら得意だよ。鉄塊の島民アトラハシスが身を寄せる船は、どれも旧文明のものだから、それを修理できる程度の技術は、今の時代にも遺っているんだ」
 手際よく修理を終えた彼女は、さっと己の器を取り寄せると、「おかわり」と遠慮もなく、残りのスープをよそっていく。その姿を横目に見ながら、トビトはベッドの端に腰掛けると、また少しずつ、スープを胃に流し込んだ。
「ああ、美味かった」
 満足げな顔をしたイナンナが、そっと木箱に皿を置く。敵対する共和国に単身乗り込んできたというこの人物は、こうしているとただの子供のようだ。
 どちらかといえば、こちらの姿こそが彼女の本来の性質であるのかもしれない。そんな事を考えながら、しかしトビトは己の興味に蓋をするように、小さく息をついた。
(……こんなふうに誰かと会話しながら食事をするなんて、一体何年ぶりだろう)
 カルカントになってからは勿論のこと、アカデミーに在籍していた時分から、トビトは大抵孤独であった。幼い内に親元を離れていたし、トビトの才能に投資をした支援者も、トビト自身には関心を向けようともしなかった。だが、
「誰かと食事をするの、久しぶりだ」
 そう口にしたのは、トビトではなくイナンナだ。
「マサダの事件以来、船じゃ肩身が狭くてね。改革派……、反戦派の指導者だった父さんが死んだ上、マサダの襲撃を起こした仲間が共和国に粛清されて、船はすっかり過激派の温床になっちゃって。──父さんの腹心だった人達も、ほとんどが無理矢理マサダへ連れて行かれて、前線で死んでしまったしね。反戦派の人間は、船の上では息を潜めてしか暮らせなくて」
 苦笑しながらそう言って、鞄から取り出した銃を、無造作に皿の横に置く。ぎょっとしたトビトが肩を震わせるのにも気づいた様子はなく、イナンナは慣れた手つきで、その手入れをし始めた。
「でもだからこそ、過激派の筆頭だったダムガルを、反戦派の指導者、エフライムの娘である私が殺すことに意味がある。陸の人間がどう認識しているか知らないが、今の鉄塊の島民アトラハシスは一触即発の状況だ。ダムガルが共和国民の手で処刑でもされようものなら、彼らはそれをきっかけに、陸へ攻め込むことだろう。そうなれば、双方にどれだけの被害が出るかわからない。だがあの男を殺すのが私なら、鉄塊の島民アトラハシスのイナンナなら、……陸の人間にも海の人間にも、冷や水を浴びせられるはずだ」
 訥々と語られるイナンナの言葉を、トビトは黙って聞いていた。彼女の口から発される物事に、すぐには理解が及ばなかったのだ。
(未開の海に棲む蛮族、鉄塊の島民アトラハシス──)
 過激派に、反戦派。耳慣れないその言葉に、トビトは小さく唾を呑んだ。トビトは、いや大多数の共和国民は、鉄塊の島民アトラハシスについて、ただ未開の海の蛮族であると教えられ、それを疑いもせずに生きてきた。実際、都から離れた沿岸部の町では、鉄塊の島民アトラハシスに急襲され、暴力の限りに食料や家財を強奪され、生き残った者が這々の体で近隣の町へ移り住むような事件も、よく起こっているのである。
 その上、足を失ったマサダの襲撃では、トビト自身も彼らの姿を目にしていた。船を降りた鉄塊の島民アトラハシスが共和国民に銃を向け、笑いながら火を放ち、町を蹂躙していく様を。
──陸の人間だって、みんながみんな同じように生活しているわけじゃないだろう?
 たった今イナンナが口にした、その言葉を噛みしめる。当たり前だ。同じ共和国民同士と言えど、生まれが違えば暮らしも違う。考え方も知識の程度も、市民としての格も違う。
(だけど、)
 鉄塊の島民アトラハシスもそうかもしれないなどと、考えたことは一度もなかった。イナンナのように争いを回避しようと奔走する人間がいるなどと、思ったことは一度もなかった。
「ひとたび暴動が起これば、その規模は、マサダの襲撃以上になることは間違いない。──今度は確実に、戦争になる」
 戦争。その言葉を聞いただけで、逃げ惑い、泣き叫ぶ人々の声がトビトの脳裏にちらついた。右足に鈍い痛みが蘇るとともに、震えが走ったのを悟られまいと、きゅっと拳を握りしめ、「それで」とトビトは話を切り出した。
「あんたはここで、たった一人でどうやって、そのダムガルを殺すつもりでいるんだ。囚人の収められた牢は、四六時中見張られているだろうし、裁判で連れ出されるときだって、常に神兵が目を光らせているのに」
「ひ、一人じゃない。君がいるじゃないか」
 間髪入れずに返されたその言葉に、トビトがぎくりと肩を震わせる。イナンナはトビトの手を取ると、「今日と同じでいい」とまず言った。
「今日と同じように、カルカントの通用口を通してくれるだけでいい。元々ダムガルを殺すのは、神殿での裁判の最中にしようと思っていた。あれを殺したのは鉄塊の島民アトラハシスのイナンナだと、その場の人間に知らしめる必要があるからな。船から失敬してきた、この銃で殺す。今日通してくれたパイプオルガンの演奏台コンソールは、階下の身廊も見渡せるし、身を隠す場所もある。おあつらえむきだ」
演奏台コンソールから撃つつもり? けど、裁判の最中はオルガニストが、……」
 バラクがそこに、いるはずだ。
 トビトが言い淀めば、イナンナは一瞬思案して、「昏倒させておく」と簡潔な口調でそう言った。
「君の友人などであれば申し訳ないが、私が事を為す間、頭でも殴って気絶していてもらおうと思う。それとも、もしやオルガニストというのは、何人もが入れ代わり立ち代わりあの演奏台コンソールを訪れるのか?」
 問われ、トビトは思わず、痣になっているであろう己のあばらへ手をあてた。
「……、ネフィリム神殿のオルガニストはバラクだけだ。それにバラクは助手アシストを付けないから、演奏台コンソールには一人きりになる。でも、ダムガルを撃った後はどうするつもり? オルガニスト側の出口ならまだしも、カルカント側の出口は演奏台コンソールから距離がある。逃げ切れやしないよ」
 トビトの言葉に、イナンナは応えない。しかしふと眉根を寄せると、思いもよらぬ問いを返した。
「バラク……? もしや、アマレク家のバラクか?」

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