外つ国のゲンマ


第二章 共犯者 -1-

「へえ、ここが君の家か。なかなか良いところじゃないか」
 自宅の戸を開け、ガスランタンに火を灯したトビトのすぐ後ろで、イナンナが開口一番そう言った。
 無計画に建てられた、安アパートの十八階。カーテンを締め切った窓に、前の住人が残したものだというベッドとソファが一つずつ、アカデミーの寮から送りつけられた荷物の箱が、中途半端に開封された状態で散乱するその部屋の、どこが良いやらわからないが、単なる社交辞令であろう。そう結論づけて、トビトは小さく息を吐いた。
「立ち話もなんだから、君の家にいかないか」
 イナンナにそう押し切られ、神殿を後にしたのが一時程前のこと。既に陽は落ちきって、空には星が輝いている。
 買物の荷物を肩に背負い、杖をついて這うように階段を上がってきたトビトをよそに、イナンナは息を切らした様子もない。自動昇降機がない分、高層になればなるだけ家賃の下がるここでの暮らしを選んだのはトビト自身だが、自宅へ帰ってくるだけで、すっかり疲れ果てている。そんなトビトの様子にも構わず、イナンナはさっさと室内に上がり込むと、トビトの許可も得ずカーテンを開けようとして、すぐさまそれを断念した。それ程距離の離れぬところに、別の高層アパートが建っている。カーテンを開ければ互いのプライバシーなど無いことに、彼女も気づいたのだろう。
「残念だな、この高さからなら、さぞや見晴らしがいいだろうと思ったのに」
「……、土地がないから、この辺りは背の高い建物だらけなんだ。見晴らしを期待するなら、神殿の裏道のほうがずっといい」
「あの裏道、確かに見晴らしは良かったが、見えるのは海ばかりだったからなあ。私は町を見たいんだよ」
 口をとがらせたイナンナが、荷物を置いて我が物顔でソファへ座る。己の部屋に他人がいる、その違和感に慣れず、トビトが玄関で立ち竦んでいると、イナンナは気に留めた様子もなく、「夕飯にしよう。それで、はやく、話の続きをしようじゃないか」とトビトのことを急かして言った。
──誓って言うが、私は君達に害を為そうとやって来たわけじゃない。陸と海との人間が、全面衝突するのを避けたいんだ。
 トビトの手を取り、真っ直ぐな目でそう語る彼女の熱にあてられて、思わずそれに頷いた。
 力を貸してくれないかと、彼女はトビトにそう言った。彼女の目的を果たすため、裁判にかけられている鉄塊の島民アトラハシスのダムガルを殺すために、トビトの助力を得たいのだと。そうしてその見返りに、──トビトの願いを、聞いてくれると。
(……、嵐は)
 思わぬ形で訪れた。あの日、マサダの町の港で、何の前触れもなくトビトの人生を蹂躙していった時と同じように。
「──それで、何を作ってくれるんだ?」
 場にそぐわぬ奔放な声に、思わずはっと息をつく。ソファに腰掛けたイナンナが、期待に満ちた目でこちらを見ていることに気づいたトビトは、口の中でもごもごと「キュウリのピクルスのスープラッソーリニク、のようなものを」と、自信なくそう呟いた。腹が減ったとイナンナが騒ぐので、途中で牛肉とパン、それから少しの野菜を買ってきた。その食材でトビトの故郷の料理──トビトの故郷で、何か祝い事がある時にだけ、ささやかに振る舞われていた類の料理を、これから作ろうというのである。
 とはいえ、トビトの曖昧な記憶の中から、確かこんなものが入っていたはずだと、思い出しながら作った程度の料理である。出来の良し悪しを保証することは難しいが、ひとまずは、腹が満たせればいいだろう。
 戸棚からマッチを取り出して、ガスボンベを挿したコンロに火をつける。よく断水する水道は今日も、蛇口を捻れど水が出ない。トビトは先程イナンナが運び上げた荷物のうちから水を取り出すと、鍋に移して火にかけた。
「さっき買った肉も入れるんだろう? 牛肉なんて久しぶりだ」
「僕もそうだ。牛は高いから、肉といえば長いこと、兎しか食べてなかった」
「へえ、そうだったのか。なら今日は、特別なご馳走の日だな」
「……。あんたが牛肉の前で立ち止まったまま、市場を一歩も動かなかったんじゃないか……」
 呆れてしまったが、表立って苦情も言えないまま、口の中で呟いた。それでもイナンナの耳には届いたろうに、彼女は素知らぬ顔で重そうなブーツを脱ぎ捨て、すっかりくつろいでいる。
 牛肉を茹で、鍋へじゃがいもを投入する。そうして火加減を確かめながら、トビトはふと、俯いた。
(……、ご馳走)
──今日はお前の好きな、キュウリのピクルスのスープラッソーリニクにしようね。覚えておいで、トビト。悲しいことがあったときは、こうやって温かいものを食べるの。この土地はいつだって厳しいけれど、温かいスープを飲めば、心も体も、きっと安まるのだから。
「トビト、私の頼みを聞いてくれてありがとう」
 ソファに腰掛けたイナンナが、穏やかな口調でそう言った。
 炒めていた玉ねぎが、良い頃合いに香っている。その言葉へすぐには答えられず、鍋の中身をかき混ぜてから、トビトは「別に」と呟いた。
「他人に利用されるのには、慣れてるから。今更あんたにどう使われようが、僕は正直、どうでもいいんだ。代わりにあんたは、目的を達したら、僕のことも殺してくれる。そういう約束でしょう」
 欠けた器にスープを注ぎ、サワークリームをその上へ落とす。酸味の強い料理だが、イナンナは気にいるだろうか。そんなことを考えてから、トビトは思わず苦笑した。
 別にどうでもいいではないか。客をもてなすのでもあるまいし。
 そうしてできた夕食を、机代わりの木箱へ乗せる。するとイナンナは子供のように頬を赤らめて、「いい匂いがする」と喜んだ。
 トビトが手を組み、神に恵みを感謝する言葉を唱える一方で、彼女は既に器へ口をつけている。神に見放された民族の末裔、鉄塊の島民アトラハシスは、祈りの言葉を持ち合わせてはいないのだろうか。そんな考えがトビトの脳裏をよぎったその瞬間、しかしイナンナは無邪気に目を見開き、「これは……!」とトビトに向き直る。

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