外つ国のゲンマ


帰郷 -1-

「次の定期船で内地へ戻るとは言うけど、ねえ」
「あの子だって生活には困っているのだろうし、昔送った仕送り金を返せとか、言いかねやしないよ。それどころか、この町に居座るなんて言いだしたら」
「だがこのナフタリの人々みんな、あの子が稼いだ金に助けられてきたことは間違いないだろう。ただ追い出すってのは、さすがに可哀想じゃないか」
 扉の向こうから聞こえてきた、人々の相談事を耳にして、静かにその場へ立ち尽くす。寒さの厳しいナフタリでのこと。土地の大半が年中雪に覆われる極北において、外まで声が漏れるような、壁の薄い家はない。それですら彼らの声がこんなにも漏れ聞こえてくるのは、すきま風を防ぐために用いられる、襤褸ぼろ布が外されているためであろう。
 墓参りを終えたトビトが帰るのにあわせて、この会話を聞かせておこうと意図した人物がいたということだ。それがせめて悪意からのことではなく、善意からの警告である事を祈りながら、トビトは宿を借りている伯母の家のドアノブから、音もなくそっと手を放した。
「私達にだって生活があるんだ。あの足じゃ、オルガンを弾くどころか、漁に出ることも出来やしない。ただの穀潰しだよ。そんな子を、一体誰が養うっていうんだい」
「仕送りの金だって、今更返せやしないよ。そもそもあの金は、あの子の母親が作ってた──頚垂帯ストーラだっけ? あれに使ったことにしてあるんだ。返せとは言わせないさ。とにかく、さっさとナフタリから出て行ってもらわなくちゃ」
 粉雪の舞う日のことであった。
 あの日。ネフィリム神殿での最初で最後の演奏を終えたトビトは、ギデオンの町を出奔し、故郷であるナフタリを目指して北上した。鉄の義足で起伏の激しい丘陵地帯を通り抜け、乗合馬車を乗り継いで、隔週に一度しか運行のない定期船にやっとのことで駆け込んだ。そうしてようやく、ナフタリのある小さな島へと上陸したのが、かれこれ三日前のこと。突然の帰郷に驚いた町の人々は、腫れ物に触れるかのように、しかし表面上は取り繕って、トビトのことを歓迎した。
 借り物の毛皮を羽織り直し、肩に載った雪を払う。今降るものはわずかだが、周囲にはうずたかく雪が積み上げられ、トビトの視界を遮っていた。吐き出した息は、微かに色づき消えてゆく。
 町の中心部からは離れた墓所を訪れていたために、すっかり身体が冷え切っていた。暖かなところで休みたい思いはあったが、伯母の家へはしばらく立ち入れそうにない。それならどこへと考えて、あてなどないことに気がついた。だがこの寒さだ。立ち止まっていようものなら、たちまち芯まで凍えてしまう。
 毛皮に顔を埋めるようにして、目的もなく、凍った路面を避けて歩く。
(次の定期便が来るまでのほんの数日、宿を与えてもらえたら、それで十分だと言っておいたのに。……僕、昔から魚を捕るのも罠を仕掛けるのも下手で、伯母さん達には煙たがられていたもの。歓迎してもらえるなんて、始めから期待しちゃいなかった)
 そうだ。故郷へ帰ったところで、トビトを迎え入れてくれる者などないだろうと、十分理解していたのだ。だが長く続いた失意の日々から抜け出し、新たな道を模索する前に、──一度、この常冬の土地を訪れたかった。
 ギデオンからの道中、新しく手に入れた杖で足元を探りながら、しかし出来る限り体重はかけないようにして、背筋を伸ばし、歩いてゆく。
(予定通り、定期船に乗って出ていくだけさ。大丈夫。僕は自分の足で、自分の意志で、ここまで歩いて来たんだから。ここから先への道だって、ちゃんと自分で歩いていける)
 幾度も心に言い聞かせ、ふらふらと町を逍遥する。どうせすることがないのなら、もう一度墓を参ろうか。母の墓は、質素ではあったが丁寧に葬られた様子であり、そのことだけが、トビトにせめてもの慰めを与えていた。
──母さんの最期の時は、どうかあなたが手を取って。
 約束を守れなかった。顔も見せられぬまま、死なせてしまった。けれど母の最期は、町の人々に見守られ、孤独ではなかったのだと信じたい。
 そうしてしばらく進んでいけば、井戸を囲む広場に出た。こんなところがあっただろうか。井戸などあってもこの寒さでは、凍ってしまっているだろう。試しにちらと覗いてみれば、水が凍っているどころか、釣瓶が切れて無くなっている。使われなくなって久しいのか。そんなことを思いながら、トビトは一人、思い出の少ない故郷へ視線を向けた。
(実際にその土を踏めば、何かしら思い出せるだろうなんて、都合のいいことを考えていたけど)
 七つの頃に去って以来、十年以上戻ることのなかったナフタリの町。小さな町の全容を把握するのに時間はかからなかったが、母に手を引かれて歩いた道がどこであったのか、自身がこの町でどんなふうに過ごしていたのかすら、トビトには、もはや曖昧にしか思い出すことができぬ過去のことであった。その上、──唯一記憶に鮮明な祈りの場には、今では錠が降ろされ、人の行き来も絶えて久しいと聞く。老齢の神官が亡くなったのは一昨年のことらしいが、それきり、ナフタリの祈りの場に新たな神官が派遣されることはなかった。実りの少ないこの町は、共和国に見捨てられたのだと、トビトがオルガニストとして成功していれば、こうはならなかっただろうと匂わせることも忘れずに、伯母は恨みがましく呟いた。
──とにかく、さっさと出て行ってもらわなくちゃ。
 息を吐き、外気に触れて赤らんだ鼻の先を手袋で覆う。すると、どこかから声がした。
「トビト、トビトだろう? 随分大きくなったじゃないか。一体何年ぶりだ?」
 聞き覚えのある、男の声。幼い頃の記憶をたどりながら、声の方を振り返り、幾らか離れた箇所に立つ髭面の男の顔を見て、トビトは小さく息を呑んだ。
「──クラークおじさん?」

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