外つ国のゲンマ


終章 導きの灯

「ねえトビト、次はとっかーたを弾いてよ。わたしね、それがいちばん好きなんだ」
「ばかだなあ、前に教えてもらっただろ。トッカータは曲の名前じゃなくて、種類なんだって。どのトッカータだよ。それだけじゃわかんねーぞ」
「わかるもん! だってトビトのとっかーたは、だって、あれだもん! わかるもん! わたし、歌えるもん」
 必死になってそう言って、トビトの袖を引く小さな手があった。トビトはふふ、と思わず笑ってしまってから、しかし頬を膨らませてトビトを睨む小さな観客に、「歌ってごらん」とそう言った。「シゼラの好きなトッカータはどれかな。これかな?」箱型のポジティフオルガンに、足元のふいごで風を送る。そうしてトビトが軽やかな旋律を奏でてみせれば、それを取り囲む子供達は、彩られた音の連なりに目を輝かせた。
「ううん、それもきらいじゃないけど、わたしが好きなのはこういうやつ」
 ぷくりとした頬の少女がそう言って、いつかトビトが弾いた旋律を、幼い声で紡ぎ出す。「上手だね」と微笑んで、トビトが旋律を奏でてみせれば、少女は頬を紅潮させて、「そう、それ!」と喜んだ。
 ある冬のことであった。北に位置するシトゥークの町は、今年も雪に覆われていた。とはいえ、トビトの故郷であるナフタリ程のものではない。窓の外を見れば、大人の背丈ほど雪が積もってはいるものの、人々がかき分けて作った道には、子供達が無邪気に駆け回っている。
 そろそろ、子供達の親が仕事から帰る時間であろう。「今日はおしまい」とトビトが言えば、子供達は新しく覚えた旋律を曖昧に口ずさんで、帰り支度を始めている。先程トッカータをねだった少女はトビトのことを振り仰ぐと、真剣な表情で、「あのね、」とトビトに語りかけた。
「トビト、わたしね。オルガンをひけるようになりたいの。トビトがひくみたいな、きらきらした音を、じぶんの指でひいてみたいの。でもみんな、私なんかにはむりだって言うのよ。ねえ、トビト、……」
 先程の勢いは何処へやら、自信なげに俯き、両手の指をもじもじとさせるその姿に、トビトはにこりと微笑んだ。そうして義足のバランスをとり、その場になんとか膝をつくと、「シゼラならできるよ。きっと僕より上手になる」と、彼女の目を見てそう言った。
「明日の朝は、少しだけ早くおいで。一緒に弾き方を練習しよう」
 少女の顔がパッと輝き、喜びの色に紅潮する。彼女は大きく頷くと、見送るトビトに「ぜったいよ、約束だからね!」と繰り返しながら自分の家へと帰っていった。
 この無邪気な少女にオルガンの鍵を触らせることに、不安がないわけではなかった。トビトだってはじめは、ただ無邪気に、オルガンの音を楽しんでいただけだったのだ。周りの大人達だって、──トビトにオルガンを教えた母だって、その無邪気な音楽が、トビトを故郷から遠ざけ、神官の権力争いの真っ只中に放り込むことになろうとは、思いもよらなかっただろう。
(シゼラは、……ただ、オルガンを弾いてみたいと言っただけだもの。才能を秘めているかもしれないし、すぐに飽きてしまうかもしれない。遠い未来のことなど、僕にはとてもわからない。だから、──)
 今はただ、どうかこの選択が、少女にとっての幸いであるよう祈りたい。
 そう考えて立ち上がり、トビトはふと、顔を上げた。
──約束する。僕、絶対に冠をかぶって、母さんのことを迎えに来るよ。
 ナフタリを離れたあの日、母と話した最後の日、──。ぽろぽろと涙を零した母が、しかしどんなふうに微笑んだか、トビトはどうしても思い出すことができないでいた。それなのに今、この時になって、
 トビトには母の微笑みが、理解できた気がしたのだ。
 その瞬間、見慣れた影が、不意にトビトの脇をすり抜けた。
 はっとなって振り返る。それは束の間の幻影であった。毛皮をまとい、角のある大きな獣を傍らに伴った女の影。それは穏やかに笑いながら、トビトが弾いたオルガンを撫で、指先に触れた雪のように、すっと静かに消えてゆく。
「──今日も、子供達の世話をありがとうございました。紅茶でも飲みますか?」
 背後から聞こえたその声に、小さく息を呑みこんだ。問うたのは、顔なじみの神官だ。シトゥークの町にあるこぢんまりとした祈りの場を任された、この老年の神官は、トビトの答えを待たず、既に紅茶へジャムを落としている。
 もう一度だけ、ちらとオルガンを振り返る。そこに何もないのを見たトビトが、曖昧に礼を言えば、この神官は微笑んで、暖かな湯気の立つカップを差し出した。
「今年の冬も冷えますね。その足では、何かと大変でしょう」
「ええ。──でも町の方々が、とても良くしてくださるので。実は今朝も、広場で転んでしまったんです。だけど僕が雪の中で藻掻いていたら、近くの家のアルバドさんが、慌てて掘り起こしてくれました」
 他愛もない談笑と、甘い香りのする紅茶が、トビトの胸を満たしてゆく。
「皆さんには、本当に感謝しているんです。僕みたいな他所者を、町に置いてくださったこと、……」
 トビトがそう言えば、この神官は柔く目を伏せて、「ここは昔から、色々と事情の多い町でしたから」と苦笑した。
──シトゥークの町には、船を秘密裏に接岸させやすい港があるんだ。父の出した書簡は、必ずそこから、ギデオンの町の誰かに届けられていた。
 かつて耳にしたその言葉を、トビトもよく覚えていた。
 陽が落ちる前にと祈りの場を出、帰路につきながら、トビトは己の吐き出す白い息越しに、前方に広がる大きな海を見た。
 夕日の落ちる頃合いであった。陸地を削り続ける雄大な海は今日も潮騒を響かせて、岩の切り立つ海岸線に打ち付けている。星が輝き始めていたが、トビトはもう、空にゲンマは求めない。
 だが足を止め、じっと水平線を眺めてみる。だからどうというものでもない、トビトにとっての日課であった。広い海に、見慣れぬ船でも浮いていないものだろうかと、ついつい探してしまうのだ。
(誘いを断ったのは、僕の方なのに)
 かつて嵐の訪れを待った、その時と同じ習慣は、しかし今ではトビトの心に、ほっと暖かな火を灯す。
 今日も、目当てのものは見つかりそうにない。トビトは小さく息を吐きだすと、出来る限り凍結した面を踏まないよう、再び雪道を歩き出した。
 ギデオンの町を出たあの日から、──イナンナを見送ったあの日から、既に三年が経過している。あの日、パイプオルガンを奏で終えたトビトは、バラクの協力を得て町を出た。そうして故郷のナフタリへ向かい、そこから少しずつ南下して、シトゥークの町に落ち着いたのだ。雪の多く降るこの土地は痩せていたが、しかし食べるに事欠くほどではなく、町の人々は他所者のトビトにも優しかった。
──いつか君に、君には、居場所が見つかることを願ってる。
 イナンナの言葉を思い出す。町の人々に助けられ、語らい合いながら暮らすこの町での生活を、トビトは心から愛していた。
「君もきっと、そんな場所を見つけたんだよね、……イナンナ」
 呟いて、ふと、トビトはその場へ足を止めた。人の姿のない細い雪道に、見慣れぬ足跡を見つけたからだ。
 左右の揃った、小柄な足跡。それは迷うことなく真っ直ぐに、──丘の上にぽつりと建つ、トビトの家を目指している。
 汐風が流れていた。冷ややかなその風が、トビトの背を押し穏やかな唸り声を上げていく。明々とした夕焼けの中、目を凝らせば視線の先に、懐かしい人影があった。
 思ってもないその訪れに、しかしいつだって、心のどこかで望み続けたその再会に、──トビトの心が明るく弾む。拙い動きで、しかし思わず、トビトはその場を駆け出していた。
 相手もどうやら、トビトの姿に気づいたらしい。彼女ははっと顔をあげると、手を振って、明るい声でこう言った。
 その頬に落ちた大粒の涙が、夕日にきらりと照らし出されている。
「久しぶり、導きの灯トビト──!」

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