外つ国のゲンマ


第五章 自由の音 -2-

 罪人であることを示す鼠色の衣服を身に着けた、細身の男である。ひょろりとした体格から、力がありそうにはとても見えないが、しかし男の態度には大胆不敵な風格があった。神兵の一人が「黙っていろ」と怒鳴りつければ、牢の男ではなく、他の神兵が萎縮する。
「あれに関わるな。神官長の客だ」
 神官長。トビトの聞き違いだろうか。しかし独房の男が続けて、「拘束を解いてやれ」とそう言えば、彼らは素直に従って、ずぶ濡れのトビトを独房の中へ置き去りに、そそくさと場を立ち去った。
 彼らが灯りを持っていってしまうと、薄暗い牢内を照らすのは、僅かな窓から挿す月の明かりだけである。トビトはわけも分からず呆然として、薄暗がりの中に座り込んでいた。
 状況がちっとも把握できないが、どうやら今、トビトはこの男に助けられたらしい。だが何者とも知れぬ相手に礼も言えずにいると、男は幾らかの間を置いて、トビトにこう語りかける。
「話を聞いていたが、君はオルガンを弾くのか。それも、町の人間が群がって聞きに来るほどの腕前ときた」
 場に似合わぬ楽しげな物言いは、何故だか初めてという気がしない。
 手探りで杖を探してから、連行される途中で神兵達に没収されたことを思い出す。相手の言葉に上手く答えられないまま、這うように鉄格子の側へと寄ると、もう一度、トビトは向かいにある薄暗い独房に目を凝らした。
 男は細身の背を丸めるように、あぐらをかいてそこにいた。
 見覚えのない顔だが、やはり何故だか、初めて会った気がしない。無造作に伸びた黒髪と髭から察するに、もう囚われて長いのだろうか。囚人服の大きさがあっていないのか、男の長いその腕は、肘の下辺りから剥き出しになってしまっている。しかしトビトはそれを見て、──その左腕に一筋、手の甲にまで走る傷跡に気づき、思わず息を呑みこんだ。
 いびつな傷に覚えがあった。この男の裁判の度、一体どのようにすればあんな傷になるのだろうと、他人事ながら考えていたのだ。
「──ダムガル、」
 無意識の内に、男の名を呟いていた。
──あれは私の父の敵だ。陸と海とが争い合う、歪みに生まれ出た膿だ。
 鉄塊の島民アトラハシスの過激派の筆頭、イナンナの父を殺した男、──マサダの襲撃を起こした張本人。見覚えがあるはずだ。この男の裁判が行われる度、トビトはふいご室の窓から、様子を眺めていたのだから。
「おや、その名を知っているのか」
 問われ、トビトは咄嗟に己の口を手で覆った。そんなことをしたところで、不用意な発言をなかったことにはできやしない。それでもトビトがそれ以上を答えず、黙ったままでそこにいれば、男は小さく笑ってみせる。
「君がどこでその名を聞いたか知らないが、そういうことになっている」
 苦笑混じりのその声が、静かな深い溜息とともに、この男の喉をすり抜ける。
 言葉に、苦渋の色が滲んでいた。少なくともトビトにはそう思われた。
 過激派の筆頭ダムガル。鉄塊の島民アトラハシス内部では反戦派の人間を殺し、共和国内に攻め入って、マサダの惨状を引き起こした男。ならばさぞかし血に飢えた、獣のような風貌なのだろうと、トビトはそう想像していたのに。
(ちっともそんなふうじゃない。……それに)
──あれに関わるな。神官長の客だ。
 先程の神兵が、確かにそう言っていた。神官長の客。現在、神官長の座には正典派の神官が就いているが、その正典派は鉄塊の島民アトラハシスのうち、反戦派であるイナンナの父と書簡を取り交わしていた──。だがダムガルは、それとは敵対する鉄塊の島民アトラハシスの過激派に属しているはずだ。
 あの日、あのマサダの襲撃の日。鉄塊の島民アトラハシスの大軍は、共和国側の警備の目をかいくぐり、町に姿を現した。反戦派からマサダ襲撃の情報を事前に得ていながら、それを黙認した正典派は、やはりその裏で過激派とも手を組んでいたのだろうか。
 それとも。
「ところで君、外の話を聞かせてくれないか? 牢の中は些か退屈でね。少しでも、気を紛らわせられれば嬉しいんだが」
 力の抜けたその声に、答えることができなかった。
 ごくりと一度、唾を飲む。イナンナはここに囚われている男のことを、ダムガルであると断言した。だからこそ鉄塊の島民アトラハシスであるイナンナが、それを殺さなくてはならないのだと。──けれど。
「あんた、本当にダムガルなのか……?」
 ぽつりと思わず問うてから、トビトは小さく身震いした。
 手にひどく汗をかいていた。自分は今、一体何を──何という答えを期待して、この男にそれを問うたのだろう。そう考えれば、何やら肝が冷えたのだ。
(この人が、もし、)
 ダムガルではないのだと、自らそう告げたなら。トビトが思う通りの人物であったと知れたなら、それで一体、どうしようというのだろう。
 牢の男はトビトのその問いを耳にして、微かな声で笑ってみせた。
「何をどこまで知っているやら……。何にせよ、それ以上の詮索はやめておきなさい。君のためにならない」
 男の言葉は淀みない。しかしトビトも、最早己の内に湧き出る問を、抑えることなどできなくなっていた。
 その男の笑みにトビトは、見知った面影を見つけていた。
「僕のためになるかどうかじゃない。僕の、……僕の友人のために、聞いているんです。テッサリア共和国と鉄塊の島民アトラハシスの和解のために、行動した人がいたと聞きました。鉄塊の島民アトラハシスでありながら、この国の神官と内密にやり取りをしていたって、……正典派の神官に書簡を送っていたって……。その人はダムガルに殺されたと聞いていたけど、でも僕は、あなたとよく似た笑い方をする人を、知っています」
 衝動に近い言葉であった。日中祈りの場で、オルガンを奏でた時とも同じ熱が、トビトの心に灯っていた。二人を隔てる鉄格子に手をかけ、やっとのことで立ち上がる。じっとその人影を見据えたまま、押し殺した声で、トビトはこう言葉を続けた。
「僕の友人も、そうやって穏やかなふうを装って、大人びた口調で、何もかも諦めたみたいに笑うんです。彼女は父親の敵を討つために、共和国と鉄塊の島民アトラハシスの全面対立を避けるために、たった一人で、はるばるこの町へやって来たそうです。鉄塊の島民アトラハシス過激派の筆頭、共和国に囚われた、ダムガルを殺すために。だけど、……だけどあなたは、彼女の言う敵ではないんじゃありませんか」
 君がそれを望まなくても、と、イナンナはトビトにそう言った。
──いつか君に、君には、居場所が見つかることを願ってる。
 泣きそうな顔でそう告げた彼女は、死地を探すトビトに己の姿を重ねたのだ。マサダの襲撃以降、鉄の船で立場を失い、ダムガルを殺すことを自分の使命と定めた彼女こそが、誰より、自分の居場所を求めていながら。
「あなたは、──イナンナの父親なんじゃないですか」
 ぽつりと問うたその言葉に、答える声は返らなかった。しかし暫しの間をおいて、この男はちらとトビトを見、やはり変わらぬ穏やかな声で、こう告げたのだ。
「あの日、……あのマサダの襲撃の日、本物は神兵に討たれて死んだ。それに乗じて、私は自ら襲撃の首謀者を名乗り出て、この町へと連行されてきたのだ。鉄塊の島民アトラハシスである私が、共和国の中枢に入り込み、この国の政を司る神官達と語らうために、他に方法はないと思ってな」
「それじゃ、……やっぱり」
 鉄格子を握りしめる、トビトの腕に鳥肌が立つ。この男はちらとトビトを見上げたが、頷くことはせず、ただこう続けるのみだ。
「共和国と鉄塊の島民アトラハシスの休戦を持ちかけたが、神官達は話を先送りにするばかりで埒が明かない。神官二派の均衡が崩れたのがいけなかった。共和国内の権力をほぼ手中に収めた正典派は保身に走るばかりで、改革には消極的だ。……なんにせよ、時間をかけすぎてしまった。過激派の指導者を共和国民が殺す事の意味を知る神官達は、私を殺すことこそしないが、ここに捕らえておくばかり。そろそろ、船に残った鉄塊の島民アトラハシスが、痺れを切らす頃だとは思っていたが……」
 深く、静かな溜息が響く。この男は節くれだった片手で己の顔を覆い、不意にその場へ立ち上がると、トビトのことをじっと見据えた。
 ひょろりと伸びたその腕が、鉄格子を軽く握る。心の中まで見透かすような、その視線に臆したトビトが、しかし目を逸らせぬまま立ち尽くしていると、彼は不意に声を和らげて、懇願するようにこう言った。
「この牢から出られたら、どうか黙って見守るようにと、君の友人に伝えてくれないか。そうすれば自ずと、描いたとおりの結末が訪れるのだと。
 ダムガルは近々、同胞であったはずの鉄塊の島民アトラハシスに討たれ、共和国との全面対立は避けられる。……そんな一時凌ぎではない和平を築きたかったが、力及ばず、申し訳ないと。ジウスドゥラは岩礁に身を隠している。それを見つけて、帰るようにと伝えておくれ」

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