第五章 自由の音 -1-
横っ面を殴られると、一瞬脳理が真っ白になった。バラクにされてきたのとも、イナンナにされたのとも違う、業務的な暴力に、トビトは呻き声をあげ、荒い呼吸で顔を上げる。
薄暗い独房にいた。
痛みと恐怖で、身体中が震えていた。鼻の奥が切れたのだろうか、血が唇を伝ったが、両手首を拘束され、鎖で壁に繋がれているため、拭うことすらままならない。
「まだ白状する気にならないのか? 今日、祈りの場に人を集めて、一体何をしようとした」
問われ、為す術もなく首を横に振る。白状するも何も、トビトには、人を集めようという気など少しもなかったのだ。だが何度そう言っても、彼らは、──正典派の神兵達は、トビトの言葉になど耳を貸しもしない。
「事前に許可のない限り、十人以上の人間を集めての集会は禁じられている。お前は元々改門派のオルガニストだそうだが、一体あの場で、何を目論んでいたのやら」
改門派。どうやらトビトのその経歴が、彼らのお気に召さないらしい。マサダの襲撃以来、多くの幹部が死に、構成員も激減した改門派が、民衆を集めて煽動し、国内対立の火種を作ろうとしている──、それがどうやら、彼らの筋書きであるようであった。
そんな大それたこと、トビトにできようはずもない。だがそれを聞いて、内心、安堵したのも事実であった。
おんぼろの高層アパートの入り口に神兵の姿を見た時は、てっきりイナンナのことが、──鉄塊の島民が共和国に忍び込んでいること、あるいは彼女が、ダムガルの殺害を企てていることが、露見したのではないかと肝を冷やした。だが彼らの問うことは、あくまでも日中、トビトが祈りの場で行ったオルガン演奏についてであり、イナンナの話題は出てこない。演奏ののち、トビトが誰とその場をあとにしたのか、ということですら、問われずに済みそうだ。
(捕まったのがイナンナでなくて、良かったな──)
そんなことを考えて、微かに苦笑した。トビトとの約束を一方的に反故にして、目の前から去っていった彼女に対してそんなふうに思うなどと、トビトも大概お人好しだと、そう感じたのだ。
(だけどイナンナには僕と違って、為すべきことがあるんだから、……)
そうだ。彼女は一人で行くことを選んだのだから──。そこにトビトがいなくとも、為すべきことを為すだろう。あの演奏台からダムガルを殺し、共和国と鉄塊の島民の、当面の火種をかき消すのだ。
「おい、いい加減に何か白状したか?」
新しい声を耳にして、辛うじて薄く目を開ける。トビトの捕らわれている薄暗い独房に、また一人、神兵が訪れたのだ。
見れば、ブリキのバケツを携えている。身構えるより早く頭から、その中に入った冷水を浴びせられ、トビトは力無く咳き込んだ。
「……、人を集める意図は、ありませんでした。改門派の神官の方々とも、アカデミー中退以降、一切連絡を取っていません。……僕が祈りの場に入った時、そこには誰もいなかった。オルガンの鍵盤が視界に入って、……アカデミー時代が懐かしくなって、それで何曲か弾いただけです。聞きつけた町の人達が、いつの間にか祈りの場にやってきていて、……でも、ただそれだけのことなんです」
理解を得ようという熱もなく、ただ魘されるようにそう語る。しかしトビトはそうしていながら、彼らの言葉を肯んじたっていいのではないかと、つい笑ってしまった。
そうだ、どうせ死ぬ場を探していたのだ。ここで彼らに頷けば、願ったとおりになるのだろう。しかし、──
「成る程、鍵盤を見てつい、か。ならその右足のように、残った腕も奪ってやれば、二度とこんなことは起こらないな」
腕。
言葉の意味を理解するや、瞬時にトビトの身の内を、真っ黒な恐怖が駆け上がる。
「確かにそうすりゃ、今後一切、オルガンに近寄ろうとも思わなくなるだろう」
「舌は噛ませるなよ。改門派の残党共を黙らせるための、大切な証言者様だ」
「火でも取ってくるか?」
「いや、ナイフで十分だろう」
神兵の一人がきらりと光るナイフを握り、トビトの腕へ手を伸ばす。
思わず小さな悲鳴を上げた。身体の震えが止まらない。咄嗟に拒絶の言葉を述べたものの、抗う術などありはしない。
「……、やめ、て、ください」
顔を上げられぬまま、やっとの事でそう言った。だが神兵達の耳に、トビトの訴えが届いた様子はない。独房に置かれた小さな灯りが、神兵の持った刃に反射するのを見て、トビトは「嫌だ」と呟いた。
──肝の座ったやつだな。死が恐ろしくないのか。
不意にイナンナのその言葉が、トビトの脳裏に甦る。そうだ。あの時は心の底から、死すら厭わないと、そう思っていたはずなのに。
(違う、今だって──、全部終わればいいと、そう思って、……今度こそ、今度こそ自分で全て終わらせれば、……それでいいんだ、僕は、)
──君のオルガンには、人を笑顔にさせる力があるよ。誰に利用されなくたって、君はそれだけの力を持っているんだよ。
いつもまっすぐなイナンナの目が、トビトを見据えてそう言った。
──おいあんた、一体何者なんだ? あんまり楽しそうに弾くもんだから、聞き惚れちまった。
──なんにしたって見事だったねえ。次々に音が広がっていくから、腕が四本くらいあるのかと錯覚しちゃったわよ。
ぎゅっと拳を握りしめ、しかしトビトは目を見開くと、神兵達を睨めつけた。
「やめて、ください」
声は震えていたが、今だけは、怖気づいてはいられなかった。
「随分反抗的な態度じゃないか。お前、自分の立場がわかっていないのか?」
苛ついた様子の神兵に、左の足を蹴りつけられた。それでもトビトは視線をそらさず、「腕だけは、」と、食い下がるように主張する。
「本当に、政治的な意図は何もなかったんです。僕はただ、自分のためにオルガンを弾いて、……そこにいた人達も、ただ楽しむためだけに、その場に集まったんです。それだけなんです。だから、」
──あんたの音楽、わくわくしてしかたがなかった!
──ねえ、途中で弾いていた曲、もう一度やってくれないかしら? ほら、あの、踊りだしたくなるような陽気な曲。
──これからは、自分のために奏でたらいい。それだけで周囲はきっと、勝手に幸せになるんだから。
この腕を、失うわけにはいかなかった。
つい先程、──あれだけ豊かな旋律を奏でたばかりの、この腕を。
──君が君のために生きることを、一体誰が咎めるっていうんだ。
「……やめろ!」
叫ぶようにそう言った。冷たい石造りの牢内に、トビトの声が反響する。
こんなに大きな声を出すのは、生まれて初めてのことかもしれない。すっかり血の気が失せていた。歯ががたがたと鳴っていた。それでもトビトは神兵達から目をそらさず、奥歯を噛み締め彼らのことを睨みつけた。
嵐の再来を待ちわびていた。あの日、マサダの襲撃で右足を失ったのと同じように、トビトに残された何もかも全て、失くしてしまえたらどんなに楽であろうと、トビトはずっと思っていた。
けれど。
「僕は、あ、あんた達が言うようなことは何もしていない、……改門派も、正典派も、どうでもいい、どうでもいいんだ、僕は……僕の奏でたい曲を、弾くんだ!」
苛立った様子の神兵が、無言でナイフを振り上げる。どんなに身を捩っても、鉄の拘束は緩まない。それでも顔は背けなかった。
その時。
「──やめてやれ。それはオルガニストの腕だ」
どこか暗闇から聞こえてきたその声に、ぎくりとしたのは神兵の方だ。ナイフは振り下ろされぬまま、神兵達はトビトから手を放し、落ち着かない様子で独房の外を振り返っている。
「この国において、高度な文化の存続とその継承者の保護は、海面上昇以来、遍く課せられた使命のはずだろう。大体、その青年はまだ裁判にもかけられていないではないか。私刑にでもするつもりか」
神兵達の視線の先を追い、トビトもようやく、彼らが何を見ているのかに気がついた。トビトのいる独房の正面にも、まだいくらか他の独房が並んでいる。そのうちのひとつに、──男の影があったのだ。