外つ国のゲンマ


第四章 嵐の訪れ -5-

「私がこのギデオンの町へやってきたのは、」
 清々しい様子でめいっぱいに息を吸い込み、イナンナはトビトにこう言った。
「ダムガルを殺すためだ。父さんの敵を討つため、そして鉄塊の島民アトラハシスと共和国との全面衝突を避けるため、……。だけど理由はもう一つある。私はどうしても、陸地に遺った文化を、芸術を、この目で、耳で、味わってみたかったんだ」
 日中の海は陽の光を受け、眩しいほどに明るく輝いている。イナンナはそれに背を向けて、トビトのことをじっと見つめると、「ありがとう」とそう言った。
「陸の人間と友達になるの、ずっと昔からの夢だったんだ。君と偶然出会えたおかげで、神殿のことも案内してもらえたし、あんなにきらきら輝いた、美しい音楽を聞くことすらできた。君のおかげで芸術に会えた。たった一人で土を踏んだ日は、何もかも怖くて、不安で、仕方なかったのに、……長年の夢がこんなに次々叶うだなんて、思ってもみなかった。君のおかげでこの二日間、──私はとても、幸せだった」
 突然、何を言い出すのだろう。しかしトビトの言葉を制するように、イナンナは一歩前へと踏み出して、続け様にこう言った。
「君には言っていなかったけど、私の父さんは、昔、陸地の人間だったんだって。でもまだ子供の頃、捕虜として鉄塊の島民アトラハシスの海へと渡った。頭領に気に入られて、鉄塊の島民アトラハシスの正式な一員になってからも、陸で見聞きした美しいもののことが忘れられないんだと言って、よく私に話してくれたよ。人の行き交う市場のこと、目を瞠るような絵画のこと、神様の存在を思わせる音楽のこと……。
 ダムガルを討とうと決めた時、せめて私の最後の時間は、父さんが教えてくれた様々なものを、この身で味わおうと心に決めてた。君のおかげで全て出来た。……だから、私の為すべきことはあとひとつだけ。計画通りにダムガルを殺す、ただそれだけ。そのはずだったのに」
 海辺から、強い風が吹き上げている。神殿の裏手より幾分海面に近いここには、潮の香りが満ちていた。イナンナの短い黒髪が、風に煽られ乱れている。彼女は気にしたふうもなく、ぎゅっとトビトの手を取ると、懇願するようにこう言った。
「ダムガルを殺すために、君の協力が必要だ。手を貸してもらう以上、君との約束は守りたい。だけど、……。トビト。できることなら、──君は生きてくれないか」
 イナンナの言葉は切実であった。しかしだからこそ、
 トビトは咄嗟にその手を振り払い、大きく首を横に振る。
「は、話が違う。僕は、──僕があんたに手を貸すのは、あんたが、全部終わらせてくれると思ったからだ。全て奪ってくれると思ったからだ、なのに今更、どうして」
「約束を違えて、申し訳ないと思ってる。だけど私には君のこと、とてもじゃないが殺せない。お願いだ、トビト。これから幾らだって、君にあった生き方が見つかるよ。君だってあんなに、あんなに楽しそうにオルガンを奏でていたじゃないか。だから、」
「それとこれとは別の話だ! もう、もう嫌なんだ、粗末な足を引きずって歩くのも、僕にはどうしようもない生まれや経歴のせいで後ろ指をさされるのも、誰かに利用されて、その顔色をうかがい続けるのも、……全部、全部終わりにしたいんだ、僕は」
 振り払ったイナンナの手が、それでもトビトの両肩を掴む。彼女はその手に力を込めると、真正面からじっと、トビトを見据えてこう言った。
「聞いてみてよくわかったよ。君のオルガンは、人の心に入り込む。演奏を聞いた町の人達の顔、見ただろう? 君が演奏している最中も、次はどんな旋律が奏でられるんだろうって、みんな子供みたいに目を輝かせて聞いていたんだ。その力があるからこそ、神官達も君を政治に利用した。そしてオルガニストとして手元に置けないとなるやいなや、アカデミーを追い出して、音楽の仕事に就けないようにしたんだ。
 ねえトビト、昨日の晩、君は誰かに利用されて死ぬなら、自分にはそれが似合いだと言ったよね。そんなことない。君のオルガンには、人を笑顔にさせる力があるよ。誰に利用されなくたって、君はそれだけの力を持っているんだよ。これからは、自分のために奏でたらいい。それだけで周囲はきっと、勝手に幸せになるんだから。誰の顔色も窺わなくていい。君が君のために生きることを、一体誰が咎めるっていうんだ」
 意志の強いイナンナの目は、出会った時と少しも変わらず、まっすぐトビトの目を貫く。それでもトビトは怯まない。
「薄々、思っちゃいたけど……、あんた、本当にお人好しだ。ダムガルを殺したら、自分だってただじゃすまないってわかってるくせに。目的を達する代わりに、──自分は死ぬ気でいるくせに!」
 ぱしんと乾いた音がして、トビトは目を見開いた。そうしてから、たった今叩かれた己の頬に手を添える。トビトに手をあげたイナンナは、じっとトビトを睨みつけ「ごめん」と一言、呟いた。
「それでも私はやらなきゃならない。父さんが必死に作り上げた、改革の火種を消さないために……。父さんが死んで、その腹心も皆死んで、本当は私がなんとしてでも、反戦派をまとめあげなきゃいけなかった。でも陸への怒りを募らせる人々のこと、私には、止めることが出来なかったんだ──。このままじゃ戦争になる。黙って見過ごすことなんて出来ない。私にはそんなの、赦されない。これが、これが最後の機会なんだ。私は、私がどうなったとしても、やり遂げなくちゃいけないんだ!」
 穏やかでいたイナンナが、その声を酷く震わせていた。
 その手にいつの間にか、トビトが持っていたはずの、神殿の鍵を携えて。
「鍵、……!」
 慌てて手を伸ばしても、身軽なイナンナに追いつけるはずもない。彼女はひらりと身を躱すと、トビトから距離を取り、「これで君は必要ない」と、短くそう断言した。
「本当はわかってたんだ。君を巻き込む必要はないってこと。この鍵さえあれば、私一人でも十分だってこと。だけど一人で死ぬのは寂しいから、君のことを利用して、共犯に仕立て上げようとした──。
 君は優しい人だ。マサダの惨状もよく知ってる。ダムガルの殺害が失敗すれば、戦争が起こるかもしれないと知っていて、私の邪魔をするようなまねはしないだろう。裁判の日、君はただいつものように、ふいごを踏んでいてくれたら良い。それが辛いなら、仮病を使って家にいるのでも、どこか違う町に行くのでも、どうか君の好きなように……。君がそれを望まなくても、私は、──いつか君に、君には、居場所が見つかることを願ってる」
 ふと、イナンナが微笑んだ。そうして彼女はトビトに背を向け、明るい口調でこう言った。
「さよなら。この二日間のこと、私は絶対に忘れない」
 イナンナが駆けていく。トビトはそれを追おうとして、しかし先程のようには体が動かず、足がもつれて転倒した。
「待って、──イナンナ」
 蹲り、掠れた声でそう言えば、自然と一年半前のことが思い出される。マサダの襲撃の直後、施療院でのこと。改門派の神官から支援の打ち切りを通告されたトビトは、同じように身体の自由が効かないまま、情けない声で嘆願した。
「僕の音楽は、……結局僕を、幸せにしない」
 震える声で、呟いた。
 
 やっとのことで立ち上がり、イナンナを探して徘徊した。彼女と歩いた町中を、人々の去った祈りの場を、神殿へ向かう坂道を。けれどそのどこにも、イナンナの姿は見当たらない。
(──裁判の日まで、騒ぎは起こしたくないだろう。明日、明後日の礼拝が滞りなく行われるために、必ずどこかのタイミングで、通用口の鍵を開けにくるはずだ)
 ならば通用口で待ち伏せれば、もう一度彼女に会えるだろうか。だが、会ってどうする。トビトの足で、イナンナから鍵を奪い返せるとも思えない。彼女はきっと、一人きりで、為すべきことを為すはずだ。
──本当は私がなんとしてでも、反戦派をまとめあげなきゃいけなかった。でも陸への怒りを募らせる人々のこと、私には、止めることが出来なかったんだ。
──このままじゃ戦争になる。黙って見過ごすことなんて出来ない。私にはそんなの、赦されない。これが、これが最後の機会なんだ。私は、私がどうなったとしても、やり遂げなくちゃいけないんだ!
 あんなに震えて、顔を真っ青にして、それでも彼女はトビトに言った。
──誰の顔色も窺わなくていい。君が君のために生きることを、一体誰が咎めるっていうんだ。
「僕が欲した言葉じゃない。そう言ってほしかったのは、……イナンナ、あんた自身じゃないのか」
 似たもの同士だろうと、彼女はトビトにそうも言った。神に祈るイナンナを見て、トビトが自身の姿を重ねたように、きっと彼女もそうしていたのだ。罪悪感から背を丸め、赦しを求めるトビトを見て。
 いつの間にやら、日はとっぷりと暮れていた。これ以上無闇に歩き回ったところで、イナンナを見つけることは難しいだろう。疲労に軋む足を引きずり、自宅へと向かう道を歩む。だが長く続く階段を昇る直前で、トビトはふと、足を止めた。
 辺りを照らすのは、細い月の光だけ。だがその暗がりの中、見慣れた制服を着た、二人組の男に声をかけられたのである。
「ネフィリム神殿付きのカルカント、トビトで間違いないな?」
 言葉もないまま、瞠目する。そこに立ち塞がっていたのは、武装した神兵であった。
「……僕に、なにか、……?」
 怯えて思わず後ずさる。すると即座にその腕を、二人がかりで拘束された。そうして彼らは抑揚もなく、トビトに向かってこう言ったのだ。
「日中、祈りの場に人を集め、集会を行ったのはお前だろう。改門派のトビト。お前を、煽動罪の容疑で連行する」

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