外つ国のゲンマ


第四章 嵐の訪れ -4-

 果たしてトビトのこの指は、かつてのように自在に、旋律を紡ぐことなどできるのだろうか。しかし不安を覚える一方で、茶と白の鍵盤を前にしたトビトの心は、静かな高揚に打ち震えた。
 パイプオルガンと違い、手鍵盤は二段だけ。音栓ストップを見ても、使える音種は限られている。ならばどの曲をと考えて、トビトはまず手始めに、パイプオルガンでも最もよく弾いた、春の曲の主旋律を演奏した。
 指が強張っていた。杖をつくことでできた、掌のマメが邪魔であった。そうでなくても、トビトの腕もその指も、やはり以前のように滑らかには動かない。何度も指を転ばせてしまい、その度に音は四方へ散った。だが構うものか。観客はイナンナ一人だけ。ここにはトビトの成績をつける教員も、トビトの価値を推し量る支援者も、存在してはいないのだから。
(そうだ。僕は今、……何の価値もない音楽を、ただ楽しむためだけに、好きに奏でていていいんだ)
 幼い頃、ベビーオルガンの三十九鍵を、掻き鳴らしていたのと同じように。
 心の内に、ふと何かが入り込んだかのような、不思議な感覚がそこにあった。春の訪れを喜ぶ華やかな旋律に引き続き、今度は繊細な高音で、鳥達の歌う軽やかな声を模して弾く。アカデミーにいた頃、トビトは庭先に出て鳥の声に耳を澄ませては、採譜するのを日課にしていた。そうして書き溜めていた譜面も、随分な枚数になっていたはずだが、それらは果たして、あの未開封の荷物の中に、今も紛れているのだろうか。
 春を祝う民衆の祭から作られたと聞く旋律を奏で終え、間髪入れずに弾き始めたのは、礼拝で歌われる賛美歌コラールだ。神への祈りと敬愛を込め、人々が口ずさむその歌に寄り添うように、伴奏部分を奏でていく。この狭い室内では、神殿のようには音が響かない。一音一音をいくらか長めに響かせて、しかし冗長にならぬよう、軽やかに曲を紡いでいく。
 そろそろ止めておかなくては、イナンナに呆れられるだろうか。そんなことを考えながら、ついに三曲目を奏で始めた。音を間引いてはいたが、それでも先程よりは確実に、両手の指が動いている。この調子でいけば、トビトが得意としていたトッカータだって、奏でられるのではないだろうか。そう思えば高揚が、ちっとも止まらなかったのだ。
 四曲、五曲と奏で続けた。祝いの場で紡がれる旋律に、堂々たる凱旋曲。流石に疲れが出て、指がもつれ始めていた。それでもトビトの心に灯った何かが、まだ熱を失えずに、小さく、しかしきらきらと輝いている。
(熱、……)
 トビトの脳裏にふと、イナンナの顔がちらついた。意志の強い、まっすぐな彼女の目にはいつだって、煌々と炎が灯っていた。
──鉄塊の島民アトラハシスの私でも、あれをゲンマと思っていいかな。ほんの一瞬でいいんだ。取るに足らない器だと、誰もが捨てた欠け皿を、輝かせることができるかな。
(僕にはゲンマは手に入らなかった。それに執着したせいで、大切なものを取りこぼした。……僕には、)
 トビトは最後に一曲だけ、短く懐かしい曲を奏でた。
 幾度となく、夢で弾いたその曲を。故郷のナフタリで、母と奏でた星の曲を。
(僕にとっては、乞食の皿アルフェッカでも良かったのかもしれない)
 欠けた器にほんのひと雫、──大切な何かを、灯せたのなら。
 最後の一音を奏で終え、すっと鍵盤から手を放す。はじめは渋っていたくせに、こんなにあれこれ演奏をして、イナンナは呆れているだろう。そう思いながら視線を上げ、トビトははっと目を見開いた。
 一瞬の静けさの後、先程までは閑散としていた祈りの場に、──拍手の渦が沸き起こったのだ。
 演奏を終えたトビトを迎えたのは、いつの間にやら祈りの場を満たしていた、ギデオンの町の住人達であった。
「おいあんた、一体何者なんだ? 見たところ、学生さんってわけでもなさそうだが……あんまり楽しそうに弾くもんだから、聞き惚れちまった」
「なんにしたって見事だったねえ。次々に音が広がっていくから、腕が四本くらいあるのかと錯覚しちゃったわよ」
「礼拝で聞くオルガンって、のんびりしたものばかりだから、そういうものなんだと思ってたよ。でもあんたの音楽、わくわくしてしかたがなかった!」
「ねえ、途中で弾いていた曲、もう一度やってくれないかしら? ほら、あの、踊りだしたくなるような陽気な曲」
 見知らぬ人間から代わる代わる話しかけられ、焦ってその場へ立ち上がる。いつの間に、何故、こんなに多くの人が集まってきていたのだろう。見れば入り口の方にまで、なんだなんだと押しかけてきた、野次馬達が集っている。
「あの、ぼ、……僕は、」
 言葉を続けられぬまま、後ずさろうと足を引く。しかし義足が椅子に引っかかり──、あわや転倒しかけたトビトの肩を、さっと支える手があった。
「イナンナ、」
 支えるその手の主を振り返り、トビトは小さく息を呑む。見ればイナンナは顔を真っ青にして、トビトを睨みつけていたのだ。
 何か怒っているのだろうか。体勢を立て直したトビトが、しかし彼女にそれを問おうとすれば、イナンナは、大きく首を横に振る。
「君のオルガンは、神の声なんかじゃない」
 顔を俯かせ、それを片手で覆ったイナンナが、震えを隠してそう言った。
「君の演奏は、まるで人の声だ。楽しかった頃の、……故郷の声だ」
 故郷。イナンナにとってそれは恐らく、──海の上の、鉄の船。
「どうしてだろう、話に聞いて憧れていた神殿を見た時ですら、こんなふうには思わなかったのに、……。どうして今なんだろう。ひとりぼっちは嫌だったのに、どうして、どうして君なんだろう」
 顔を覆ったイナンナが、しかし隠しきれぬその涙を、するりと頬に滑らせた。ようやく体勢を立て直したトビトはしかし、彼女に手は延べられぬまま、──
「おい、これは一体何の騒ぎだ!」
 乗り込んできた神官の姿を見て、ぎくりと肩を震わせた。
 人を掻き分け、こちらへ向かってくるのは恐らく、この祈りの場を受け持つ神官だろう。隣にいるのがオルガニストだろうか。トビトが息を呑む一方で、町の人間の一人がそっと、裏手の出口を指差した。そこから逃げろと言うことだろうか。トビトは立てかけていた杖を手に取り、イナンナを促すと、慌ててそちらへ足を向けた。
「これはこれは神官様。こんなに素敵なコンサートを開かれるなら、事前にひと声かけてくださったら良かったのに」
「おかげさまで、信心がより深まりました。次はいつ開催されますの?」
 人垣に守られ、イナンナと二人、そっと祈りの場を抜け出した。「走ろう」と言うイナンナに、トビトは慌てて「無理だよ!」と短く叫ぶ。
「僕が義足なの、知ってるだろ」
「改良してやったじゃないか。おかげで君、背筋が伸びてきた。きっとこれから、まだまだ身長も伸びるぞ」
 ぶっきらぼうに言うイナンナの声。身長が伸びるだなんて、一体何を言っているのだろう。人混みを避け、細い路地裏を縫うように、イナンナの後を駆けていく。正確に言えば、駆けるというほどであったわけではない。だがこの一年半、足を引きずり、杖をついて歩いてきたトビトにとっては十分に、頬へ風を感じる速度であった。
「トビト、私はね、──私と君とはきっと似たもの同士なんじゃないかと、勝手に、そう思っているんだよ」
 トビトの先を行くイナンナは、ただ前を見たまま、そう言った。
 やがて開けた場所へ出た。切り立つ崖で海から隔てられた、ギデオンの町の海岸線だ。
 すっかり息の上がったトビトが、ぜえぜえと肩で息をする。座り込みそうになるのをやっとのことで堪えながら、額に落ちた汗を拭った。涙を零していたはずのイナンナは、すっかり何事もなかったかのように晴れやかな顔をして、笑顔でそこに立っている。

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