外つ国のゲンマ


第四章 嵐の訪れ -3-

(バラク先輩は知っていたんだろうか。……あの日、マサダに鉄塊の島民アトラハシスが急襲することを、……)
 トビトもその日、マサダにいるであろうことを、彼は知っていたのだろうか。義足にも慣れないままマサダの施療院を追い出され、住む場所も生活の術もなく途方に暮れていたトビトに、カルカントの職を与えた彼は、──はじめから全て、知っていたのだろうか。
(もし僕を拾ったのが、改門派の神官でなかったなら、友人になれていたかも知れないと、そう思ったこともあった、……。もし僕が正典派だったなら、もし神官内に、派閥の軋轢なんてなかったら。もし共和国と鉄塊の島民アトラハシスの間に、諍いがなければ、もし、……)
 胸に沈んだ氷塊に、小さな亀裂が入っていた。
 何か不思議な渇求が、トビトの胸を焦がしていた。もし、そんなこと、考えたって仕方がない。時は遡れない。過去は変えられない。何をどんなに望んだって、ここには現実しかありはしないのに。
(もし何の争いもなかったなら、……僕はあの演奏台コンソールを、手に入れられていたんだろうか)
 気づかぬうちに、鉄の扉を広く押し開けていた。
──約束する。僕、絶対に冠をかぶって、母さんのことを迎えに来るよ。
 純粋な思いから来る約束であった。故郷の人々に愛されたトビトの音楽で、母を助けることが出来るならと、子供心にそう思った。
──どんなにお前を見下したって、成績が悪ければ、みんな三年で落第だ。
 実力をつけるにつれ、それへの執着はいや増した。欲したものが、すぐ目の前に、手の届くところへまで近づいているのを、トビトは確かに感じていた。
 トビトの長い指が、疼いて扉に爪を立てる。鉄の扉のその先へは、行ってはならぬと思っていた。荘厳な、パイプオルガンの演奏台コンソール。イナンナを案内したときでさえ、その扉を越えてはならぬと、そうはっきりとわかっていたのに。
 トビトの鉄の右足が、耐えきれず、一歩前へと踏み出した。しかしそうするトビトの肩を、──掴んでとどめる力がある。
「そろそろ礼拝が始まる」
 トビトの肩を掴み、ぶっきらぼうにそう告げたのは、いつの間にか訪れていたカルカントの一人であった。トビトは惚けた顔でそれを振り返り、しかし状況を理解して、咄嗟に気まずく顔を伏せる。
 自分は今、何をしようとしていたのだろう。慌てて身を引き、鉄の扉を閉じ直すと、トビトもふいごの前に立った。
(何もかも、もうどうでもいいことなのに。……どうせ三日後には、全て関係なくなるんだから。何もかも終わらせられるんだから)
 それなのに、何故思考が止まらないのだろう。
 当然のことながら、いつもと同じに礼拝は始まった。何も知らないままでいた、昨日までと同じように。ふいごの送る風の音、取り仕切る神官の声、そしてバラクの奏でる、パイプオルガンの旋律と共に。
 震えを隠してふいごを踏んだ。崩れそうにくしゃりと歪んだ、イナンナの笑顔がちらついた。
 「もう十分に眠ったよ」と笑い、くしゃくしゃとトビトの髪を撫でたイナンナの目許にも、隠しきれないクマが浮かんでいたことを、本当はトビトも気づいていた。気づいていたのに、見て見ぬ振りを貫いたのだ。
──どうか私を助けてくれ。しくじるわけにはいかないんだ。
──良い三日間にしよう、お互いに。
 
 その日の礼拝を終えたトビトは、外套を羽織り杖をついて、イナンナとの約束通りに町へと降った。町を見て回ると言った彼女は、あれからどうしていただろう。昼過ぎには町へ戻ると伝えておいたが、待ち合わせ場所の古井戸へは、迷わず辿り着けただろうか。
 かしましい市場通りを、やっとのことで抜けてゆく。所狭しと露店の並んだ、活気で賑わう大通り。人々はみな大声をあげ、眉唾物の商品を抱えて売り歩いて行く。その脇ではトビトより酷い襤褸ぼろを纏った子供や老人が、道行く人の服を引きながら、施しを、と声をかけていた。
 足元に細心の注意を払いながら、それでも進んでいけばやがて、目当ての井戸が見えてきた。イナンナの姿はそこにない。だがその代わり、トビトの視界に映り込む、殺風景な建物がある。
 白塗りの壁に、ネフィリム神殿のそれとは比べものにならない、ささやかなステンドグラスがはめ込まれた窓。神殿への入場が許されない下級市民達の為の、祈りの場だ。こちらも既に礼拝を終えたものと見えて、入り口は閑散としている。
 そこに足を踏み入れたのは、まったくの気まぐれからであった。人混みに疲弊して、喧噪を逃れたかったことも、理由のひとつにはあった。しかしその場に踏み込んで、ひとつ大きく溜息を吐いたトビトは、何気なく見回した会衆席の最前列に目を止め、──そのままそこへ、立ち尽くした。
 人のはけた祈りの場。だがそこに、ぽつりと座り込む、人影がひとつ残っている。祭壇に向かって頭を垂れ、顔の前で両手の指を組み、一心不乱に祈りを捧げる姿に、トビトは確かに覚えがあった。
(……願わくば、)
 水平線を睨みつけ、何度も噛みしめたその祈りが、不意に喉を過ぎてゆく。そうだ、トビトもずっと祈っていたのだ。ただ全てを終わらせるために、トビトの世界を蹂躙する、──猛き嵐の再来を。
「イナンナ、……」
 ぽつりと呼んだトビトの声に、その背がぎくりと小さく震えた。堅く組んだ指を解き、颯爽とその場へ立ち上がるイナンナはしかし、まるで穏やかに微笑んでいた。
「おかえり。ごめんな、古井戸で待ち合わせだったのに、探させてしまったかな」
 精一杯の明るい口調で彼女が言うのに、トビトは応えることが出来ないでいた。イナンナはトビトの応えを待たず、場を繋ぐように祭壇の方を振り返り、「変だったかな」とそう言った。
「陸の人達の礼拝を覗いていて、その、見よう見まねで、私も真似をしてみたんだ。ようやくダムガルの喉元にまで手が届いたと思ったら、柄にもなく緊張してしまってさ。それでつい、上手く行きますようにって、神頼みしてしまったよ」
 上滑りするその言葉を、しかしイナンナは蕩々と、苦笑しながら続けていく。
「なあトビト、祈り方はこれでいいのかな。指をこうして、右の拳を左の掌で包むようにして……。君達の教義からすると、私達は神に見捨てられた民族なんだっけ。それが祈りを捧げるなんて、滑稽かな」
 杖をつき、イナンナの元へ歩み寄る。問われたトビトは純粋に、黙って首を横に振った。鉄塊の島民アトラハシス。陸地を持たぬ海の蛮族──。しかしトビトは、海で生まれ育ったこの人物が、共和国の人間と何ら変わりなく美しいものを見て感慨に耽り、楽しげに食事をし、他人の傷を労ろうとする人間であることを知っている。
(イナンナ、……もしかしたら君も、誰かに)
 赦されたいんじゃないのか。
 祭壇に祈りを捧げるその姿に、見知った姿を重ねていた。海に向かって祈りを捧げた、ただひたすらに嵐の訪れを祈った、──昨日までの、トビトの姿を。
 不意に浮かんだその疑問を、すんでのところで噛み殺す。問うてはならない。乞食の皿アルフェッカを聞いたのと同じように、きっと後悔するのだから。
 暗闇に溺れるトビトには、欠けた船を懸命に漕ぐ、彼女を救えはしないのだから。
「──そうだ、君に見せたいものがあったんだ。この祈りの場にも、小さいけどオルガンがあってさ。陸ではオルガンのこと、神の声を代弁する楽器って呼んでいるんだってね。一度聞いてみたいんだけど、君、弾けないか?」
 思いもしない提案に、はっと小さく息を呑む。
 見れば確かに視線の先に、箱形のポジティフオルガンが置かれていた。アカデミーのレッスンでも、散々使ったその型の、足元にあるのはふいごだけ。右足のないトビトでも、これを奏でるのには十分だ。
 これなら弾けると言いかけて、しかしトビトは俯くと、「駄目だ」と短く呟いた。
「小さな祈りの場だけど、専任のオルガニストがいるはずだ。勝手に使っちゃ、叱られる」
 きっぱりと断ったつもりでいたのに、「いいじゃないか」と首を傾げるイナンナの言葉は、更に淀みない。
「ほんのちょっと、借りるだけだ。盗むわけじゃない。少しくらい叱られたって、謝ればいいさ。私も一緒に謝るから」
 悪戯っぽい口調でそう言って、とんとトビトの胸を突く。そうされてみて、はっとした。もう一年半も鍵盤に触れていなかった己の指が、またふと、疼いたように感じたのだ。
 アカデミーを離れて今日まで、鍵盤というものに近寄ろうともしなければ、アカデミーから送られてきた荷物の中に眠る譜面を、開こうとすらしなかった。右足を失った以上、足鍵盤のあるパイプオルガンを以前と同じように弾くことが難しいとはわかっていたし、今から他の楽器に転向しようにも、この国ではアカデミーを出たのでもなしに、音楽で生計を立てることなどできやしない。
 音を奏でるその行為から、ずっと距離をとっていた。仕事にすることもできないのに、無様にしがみつくべきではないだろうと、そう自分に言い聞かせて。
(……違う、)
 ごくりと唾を飲み込んで、トビトはそっと、小さなオルガンに手を延べた。
 恐らくトビトは、よくよく理解していたのだ。
 毎日通うネフィリム神殿。しかしその演奏台コンソールに、近寄ってはならぬと思っていた。ギデオンの町で日々を暮らしながらも、オルガンが置かれているであろうこの場へ立ち寄ろうとは、これまで一度も思わなかった。
「よく考えたら、……三日後には死のうとしている人間が、今更、叱られたからってなんでもないもんな」
 トビトの脳裏へ唐突に、オルガンの音が甦る。
 そうなっては、止められなかった。

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