外つ国のゲンマ


第四章 嵐の訪れ -2-

「そういえば昨日の話に登場した、冠座ゲンマって、どの星座のことだ? 実は初めて聞いたんだ。海では星を頼りに航海するから、それなりに詳しいつもりだったんだけど……。私が知っている星座とは、もしかすると呼び方が違うのかな」
 空に浮かんだ星を見て、イナンナも思い出したのだろう。彼女がきょろきょろと頭上を見回すので、トビトは一度足を止め、左手を空に向けると、「あれだよ」と円を描く。
「大三角よりもっと町に近い、あの辺りに、──ほら、円のような星座があるでしょう」
 「あれが、ゲンマ?」問い返すイナンナの声は、何やら訝しげだ。
「円になりそうでならない、あの星座のことだよな?」
「そうだよ。イナンナ達は、あれをなんて呼ぶの?」
 なんの気もなしに問うてから、しかしトビトは、己の言葉を後悔した。ちらとトビトの様子をうかがい、逡巡する様子のイナンナの姿を見て、もしかすると自分は、知らずにいればそれで済むことに、わざわざ触れてしまったのではないかと、そんな予感がしたからだ。
 予感は見事に的中した。イナンナは言いにくそうに目を伏せて、「乞食の皿アルフェッカ」と呟くようにそう告げる。
「──乞食の皿アルフェッカまったき円になり損なった、夜空に浮かぶ不出来な星座」
 聞いてトビトは答えられぬまま、しばしその場へ、立ち尽くした。
──寂しくなったら、あの星座を見上げて、母さんのことを思い出して。
 母の言葉が胸に落ちる。楽器の王、神の声を奏でるパイプオルガンに、トビトが愛されますようにと、母が希いをのせた星。
(なり損ないの、星、……)
──恨むなら、事件を起こした鉄塊の島民アトラハシスを恨め。あいつらに傷物にされなけりゃ、お前の価値は皆それなりに認めていたんだ。
──トビトのやつ、教育を受けたオルガニスト様と言っても、あのザマじゃあな。ああ、違った。元オルガニスト様か。
──あいつ、極北の出身らしいぜ。下級市民の中でも最底辺の身の上で、改門派あがり、片足も無いとあっちゃ、このご時世でまともに生きていけねえよ。
──足を失った以上、ここでカルカントとして生きる以外に、お前に道などあるわけがない。その知識だけがお前の価値だ。お前には、──オルガンの他に、何も、ないんだから。
「……、僕には随分、似合いの星だ」
 ずしりと傷つく己の胸を、しかし宥めようとして、すぐに自ら呟いた。
 誰かに言われるより先に、自分で認めてしまいたかった。乞食の皿アルフェッカ。何物も持ち得ない、何者にもなり得ない、トビトにぴったりの星座ではないか。トビトの事情を知るイナンナも、きっと同じ事を思ったろう。その通りなのだから、それでいい。トビトは頬に笑顔を貼り付けて、瞬きもせず、こう言った。
「もう、行こう」
 そう言うだけで、精一杯。浅く目を伏せ、星に背を向け杖をつく。慰めの言葉も、励ましの言葉も、今は耳に入れたくなかった。けれどイナンナはそれに続かず、じっと空を見上げたまま、ぽつりとトビトにこう問うた。
鉄塊の島民アトラハシスの私でも、あれをゲンマと思っていいかな」
 「えっ?」と思わず振り返る。睨みつけるかのように空を眺めていたイナンナも、同時にトビトを振り返った。目と目があって、ぎくりとする。うっすらと昇り始めた朝日の色を背景に、肩越しに振り返るイナンナは、頬を赤らめてこう言ったのだ。
 トビトが思いもしなかった、──泣き出しそうな、満面の笑みで。
「ほんの一瞬でいいんだ。取るに足らない器だと、誰もが捨てた欠け皿を、輝かせることができるかな」
 ギデオンの町に隣接した海に、明かる陽が徐々に顔を出す。暗い星々はいつの間にやら、空から姿を消しつつあった。
 眩い光に目を眇める。刹那の幻影をそこに見た。
 遮るもののない大海原。凪いだ海に波はなく、孤独に進む一艘の小船だけが、水面に線を刻んでいく。
 欠けた箇所から浸水する、襤褸ぼろ船を漕ぐのはイナンナだ。足元は半ば水に浸っているというのに、彼女は必死に櫂を操り、船を漕ぎ続けている。思わず手を伸ばしかけたトビトはしかし、そうする手前で凍りついた。
 手を差し伸べて、それで一体何になるのだ。毎夜のように暗海へ囚われ、為す術もなく溺れるばかりのトビトの手に、沈みかけのその船を、支えてやれるわけもないのに。
「……、きっと望んだ通りになるよ」
 やっとのことでそう言った。イナンナは「ありがとう」と言って、困ったように、こう笑う。
「君って奴は、嘘をつくのが下手だなあ」
 
「──それじゃ、また後で。待ち合わせは、市場に隣接した古井戸だったよな」
 手を振るイナンナに見送られ、トビトはいつもと同じように、神殿へ向かう長い坂道を歩き始めた。
 足元の悪い道を行き、人々が集まりだした広場を横目に、カルカントの通用口へと向かっていく。鍵を預かっている立場上、他のカルカント達より早い時間にここを訪れるのはいつものことであるが、イナンナが手を加えた義足は存外に歩きやすく、常よりも早く着いてしまった。
 通用口の鍵を解き、ふいごの横を通り抜け、その先にある厚い鉄の扉を、うっすらと押し開ける。そうしてそこにそびえ立つ、パイプオルガンを仰ぎ見た。
(三日後、イナンナはあの演奏台コンソールからダムガルを撃つ)
──過激派の筆頭だったダムガルを、反戦派の指導者、エフライムの娘である私が殺すことに意味がある。
 そう断言したイナンナは、しかし事を為した後、演奏台コンソールからどのように逃走するのかと問うたトビトに、答えを返さなかった。
 海を漂う鉄塊の島民アトラハシス。その船からたった一人、テッサリア共和国へと乗り込んできたイナンナ。マサダの襲撃以来、鉄塊の島民アトラハシスの船は過激派の温床になったと語りながら、しかし自らは反戦派を名乗り続ける彼女は、どんな思いで船を下り、ここまでやってきたのだろう。そんな考えが今ようやく、トビトの胸に湧いて出た。
 ダムガルが共和国民の手で処刑されれば、それに触発された鉄塊の島民アトラハシスが陸へ攻め込み、争いになる。だからそうなるより以前に、鉄塊の島民アトラハシスである自分がダムガルを殺す。イナンナはそう言った。ダムガルは父親の敵であるとも言った。しかし彼女の話を考えれば、彼女以外にも、ダムガルに肉親を殺された人間は多くいたはずだ。
(過激派が力をつけたからと言って、反戦派が誰一人いなくなったとは思わない。それならイナンナは、何故一人なんだろう。誰か、イナンナを助けようと思う人は居なかったのかな)
 マサダの襲撃以来、共和国ではすっかり正典派が力を持ち、構成員の多くをなくし発言力を失った改門派は、落ちぶれ冷遇されるようになった。トビトをアカデミーから追いだした時、「代わりは幾らでもいる」と彼らは言ったが、実のところ、今は神官達の体制の立て直しに追われるばかりで、オルガニストの確保にまで手は回っていないだろう。だが潰えたわけではない。彼らは彼らの方法で、巻き返しの時を虎視眈々と狙っているはずだ。
(陸と海との争いを避けるため、共和国の神官と手を組もうとした鉄塊の島民アトラハシス。マサダで襲撃事件が起こることを事前に知りながら、害を被るのが改門派神官であることを知って、口を噤んだ正典派、……)
 イナンナはそうとまで言っていなかったが、状況を考えれば、正典派に至っては、鉄塊の島民アトラハシスの過激派とさえ手を組んでいた可能性もある。あのマサダの襲撃において、鉄塊の島民アトラハシスの大軍は何の気配も悟らせずに近くの岸辺へ着岸し、あっという間に町を蹂躙してみせた。正典派の手引きがあったと考えれば、それも容易く済むかもしれない。
(けど、……もしそうだったら、何だって言うんだ)
 鉄の扉に手を掛けたまま、じっと、目の前にそびえるパイプオルガンを睨み付ける。正典派の思惑がどうであれ、改門派がトビトを見捨てた事実は変わらない。鉄塊の島民アトラハシスの内部対立がどうなっているかなど、尚更、知ったことではないはずだ。
 ダムガルを殺さねばならぬイナンナは、その手段としてトビトと手を組んだ。トビトはただ最期の時を迎えるためだけに、イナンナに協力する約束をした。それだけだ。余計な詮索をしたところで、トビトの利になることはない。
 それなのに。

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