ディエス・エラ


 3 * PANTHALASSA《唯一の大海原》
 
「明日はここへ来ちゃ駄目よ。明日は、ゴンドワナ市の調査官達が視察にやってくる日だからね」
 イノリはそういう事を言う時、いつだってじっとコルウスを、コルウスの瞳を見つめていた。言い聞かせるようなその視線は真っ直ぐで、誠実で、迷いがない。それはコルウスの知る『新人類』には、感じたことのない力であった。コルウスの知る人々は、元来、他人の事には踏み込むまいとする傾向がある。だがそんな話を聞かせれば、イノリは少し考えてから、「わかる気がする」と呟いた。
「狭いコミュニティの中で協調性ばかりを求められてきた私達と違って、あなた達のご先祖様は、きっと、強く気高い人達だったんだわ。必要以上に他人に立ち入らないことも、きっと新しい生き方を受け入れる上で、お互いの誇りを守るために、必要なことだったんじゃないかしら」
 イノリのその言葉を聞いても、やはりコルウスにはぴんと来なかった。来なかったがしかし、楽しそうに、興味深げにコルウス達のことを知ろうとするイノリを見れば、何故だかいつも心が湧いた。
 『旧人類』を、イノリ達のことを快く思わない人々が多くいることを、コルウスはよく知っていた。特に、このゴンドワナ市はそうなのだ。その証拠に、イノリ達は保護区域より外へ出ることを認められず、隣のローラシア市では認められている最低限の市民権も、参政権も、彼女たちには何一つ与えられてはいなかった。だがそれも、きっと今だけのことであろう。コルウスはそう思っていた。『旧人類』の存在が知れて、まだ十年。今年で十三になるコルウスにとって、彼らは物心ついた頃からニュースを騒がせる存在であったが、大人達にとっては、そして『新人類』にとっては、まだそういう存在にはなり得ないのだろう。そんな風に考えたのだ。
「誇りを守るために──。そんな事、今まで考えもしなかった。イノリはよくわかるね。保護区域より外のことは、僕が話したことしか知らないはずなのに」
 聞いて、イノリは明るく笑った。そうしてしたり顔で、「当然よ」と言ったのだ。
「だって私達、元は同じ人類だもの」
 コルウスもそれに同意した。イノリの言うとおり、『新人類』も『旧人類』も、大昔はこの星で、同じように生きていたのだ。
 だから、いつか必ず手を取り合える。二人は確かに信じていた。
 それなのに。
『今回の事件を受けて、ゴンドワナ市長が急遽会見を行いました。その中で市長は、生体アーカイバーの住環境に配慮し、和解のために尽くしてきた調査官がこのような事件で命を落としたことに対して遺憾を示し、その上で事件の再発防止に向けた対策を講じる必要があるとして、明日にでも保護区域の全面的な立ち入り調査を行う方針です──』
 慣れた道を小走りに駆け、人ごみを避け、道を渡る。いつもは平和に賑わうその町が、何やら不穏な空気に包まれている事を作り物の肌で感じながら、それでもコルウスは駆けていた。
(何かの間違いだ。こんなこと、──こんなこと)
『一連の騒動を引き起こしたユーラメリカ保護区域の生体アーカイバー等は、その場で身柄を拘束され、収容施設に搬送されたとの情報が入っています。しかしながら専門家は、今回の事件を一部の生体アーカイバーの単独行動ではなく、組織としてのテロ行為であるとの見方も示しており、予断を許さない状況です』
 『報道をご覧の皆様は、無闇に保護区域へ近づかないよう、細心の注意を払って行動して下さい』アナウンサーの声がそう続けるのを聞きながら、いつも通りに幅の広い道路を渡りきる。事件の直後だ。保護区域の周りには、野次馬か、警察関係者がたむろしているのだろうと思っていたが、そういうわけではないらしい。こちらは正規の入り口の裏手にあたるから、かえって閑散としたのだろうか。なんにせよ、コルウスにとっては好都合だ。
 鉄格子の抜け道を通ると、「イノリ!」と大きく声を上げた。普段のコルウスなら、けっしてそんな事はしない。だが今は、なによりも、彼女の無事を確かめたかった。
「イノリ、どこにいるの? 僕だよ、コルウスだ」
 シダの葉を掻き分け、辛抱強く耳をそばだてる。しばらくそうしていると、不意にどこかから、聞き覚えのある声がした。
「放して、……放してったら!」
(──イノリの声だ)
 何やら切迫した様子のその声に、コルウスの胸がずきりと疼く。そうして声の方へと駆け寄って、コルウスは思わず息を呑んだ。イノリの小さな小屋の前に、数人の人間がたむろしている。銃を携え、イノリを小屋の壁に押しつけ、取り囲んでいるのは明らかに、──コルウスと同じく人工義体を纏った、『新人類』達だ。
「騒ぐな、煩わしい。おい、誰かこいつを黙らせろ」
 調査官だろうか。上官らしい男がそう言えば、周囲の人間がイノリに向けて銃を構える。それを見てコルウスは、咄嗟に「やめろ」と声を張り上げた。
 男達が振り返り、銃口をコルウスに向ける。撃たれるかもしれない。そんな考えが一瞬脳裏を過ぎったが、それ以上を考えるより先に、脚はイノリへ向かって駆けていた。
「コルウス、どうして」
 青ざめた表情で問うイノリを、庇うようにして立てば、「お前が例の」と、誰かが呟くのが聞こえる。例の、一体何だというのだろう。しかし取り囲む彼らを威嚇するつもりで睨み付けると、上官らしい男はにやにやと笑んで、部下達には持ち場へ戻るようにと早々に指示を出した。
「お前が何らかの被害に遭っていたなら、わざわざ事を起こさずとも済んだんだがな」
 一体、どういう意味だろう。しかしコルウスがそれを問うより先に、男はイノリのことを頭から爪先まで眺め回し、「ふん」と小さく鼻を鳴らした。
「ここの女は確かに柔らかいが、生臭くて堪らん」
 イノリの頬に、さっと羞恥の朱が差す。だが颯爽と身を翻し、その場を去っていく男の背中を見送って、コルウスは小さく、深く安堵の溜息を吐いた。状況がちっとも理解できないが、どうやらこの瞬間の危機は、脱したように思われる。しかしこうしてコルウスが保護区域に忍び込んでいることに対して、全くの不問だったのは、一体どういうことなのだろう──。
「コルウス。……今日は、来ちゃ駄目だと言ったのに」
 か細い声で言うイノリの声に、咄嗟に「わかってたよ」と言葉を返す。「でも、……でも、ニュースを聞いて、心配で居ても立っても居られなくなって、ここに」
 「ニュース?」聞き返すイノリは、何故か穏やかに笑んでいる。
「そう、……外でも既に報道されているのね。ねえ、教えてコルウス。今回のこと、外では……『新人類』は、一体なんて報道したの?」
 深く息を吐いたイノリが、ふらりとその場へしゃがみ込む。コルウスは慌ててそれに手を貸し、彼女を近くの切り株に座らせると、自らもその近くに膝をついた。
「それは、その……。それよりイノリは、大丈夫? さっきの奴等、一体何を」
 「コルウス、」言葉を遮るように、しかし疲れ切った声で、イノリが短く名を呼んだ。その視線は真っ直ぐにコルウスのそれを捕らえ、掴んで、放さない。
「教えて」
 弱々しくとも、彼女の言葉は真摯であった。嘘はつけない。誤魔化しもきかない。きっとコルウスがそうしたところで、イノリはこの強い目で、嘘を嘘だと、誤魔化しを誤魔化しだと、すぐに見抜いてしまうだろう。だからコルウスは一瞬目を伏せ、息をつくと、ぽつりぽつりとこう言った。
「ニュースで見た限りでは、……。今日、この保護区域へ視察に来た調査官が一人、『旧人類』に殺されたって──。主犯格の人達は既に捕らわれたけど、その、……『旧人類』総意のテロ行為かもしれないって、だから注意しろって、そういう……そういう報道だった」
 「そう」と小さくイノリが答える。「そうなのね」と続いたその声は、ほんの少し、震えていた。
「本当なの? 本当に、貴女の仲間が人を殺したの? 僕にはそうは思えない。イノリ以外のここの人と話したことはないけど、でも遠くから見る彼らは貴女と同じように優しそうで、人を殺したりするようには、とても」
「コルウス」
「もしかして、何か誤解があったんじゃない? きっとそうだ、さっきの調査官達も、何か様子がおかしかったもの」
「コルウス、それは」
「全て本当の事よ」
 そう答えたのは、目の前にいるイノリの声ではない。びくりと肩を震わせ、しかし咄嗟に視線を上げて、コルウスは小さく息を呑み込んだ。小屋の影からこちらを窺うように立つ、数人の人影に気づいたからだ。
(イノリ以外の、『旧人類』……)
 ゆらりとそこに立つのは、どうやら全て女性である。華奢な体つきの彼女らは、互いに互いを支え合うようにやっとの事でそこに立ち、じっとコルウスを見つめていた。
「報道されたのは全て本当のこと。いずれ立ち上がらなくてはならなかった。そしてそれが今日だった。ただ、それだけの事よ」
「お前達『新人類』は、私達の身体を調べるだけ調べ、それが終わると今度は、私達を道具のように扱った」
「調査官達が今日、私達に何を言ったと思う。若い娘を差し出せと、そして研究室で奴等の造った人工細胞の子を孕めと言ったのよ。男達はそれに抵抗した。そして争いの中でウヤマイが、調査官の一人を殺してしまった。……途端に奴等、大義を得たとばかりに男達を縛り上げて、……」
 疲れ切ったその声が、徐々に嗚咽に変わっていく。イノリもまたコルウスのすぐ側で、打ちひしがれた様子で俯いていた。
 「私、ずっと不思議だったの」イノリがぽつりと、呟いた。「コルウスは、どうしてこんなに易々と、保護区域の中に入って来られるんだろうって。でもさっきの調査官の言葉でわかったわ。きっとあいつらは、私達が何か、『新人類』に楯突くような事件を起こすのを、ずっと待っていたのよ。だからおまえがここに忍び込むのも、気づいていたのに黙認した。他の都市との関係上、なんの理由もなしに私達を弾圧する訳にはいかないから、……口実を得るために、私達がおまえに危害をくわえでもしたら都合が良いと思ったんでしょう。その為に、その為だけに、おまえみたいな、ただ純粋な好奇心で私達を知ってくれようとする人の心まで利用して」
 その時、
 ぽろりとイノリの瞳からこぼれ落ちたのがなんなのか、コルウスにはしばらくわからなかった。大粒の水滴が、次から次に、ぽろぽろと、彼女の瞳から溢れていく。それがいつか授業で聞いた、『涙』であったのだと気づいたのは、少し遅れてからのことだった。
 その時のコルウスは、ただただその透明な、宝石のような光の粒に魅入っていた。
「手を取り合えると思ってた。苦難を乗り越えた、人間同士と思っていたの。だけど、違う。違うんだわ。私達、互いに、こんなに遠いところにいるのね」
 なんて美しいのだろう。
 こんな美しいものを、『新人類』は遙か昔に喪い、忘れてしまったのか。だから今でもそれを持ち続ける彼らのことを、妬み、虐げ続けるのか。
(ああ、これが、──これが貴女の顔なのか)
 一瞬どくりと鼓動が鳴った。じわりとした思いが、胸に、染み渡っていく。
 この美しい光を、もし、
「逃げよう、イノリ」
 もし、自分のものにできたなら。
「僕はここにいる。こんなに、貴女の近くに」
 さもすればそれは、ただの独占欲であったのかもしれない。だが気づけばコルウスは、ぎゅっとイノリの手を握り、彼女の視線を捕らえていた。イノリが以前、コルウスに対してしたように、彼女の視線を強く捕らえて、放さない。
「逃げよう。このゴンドワナを出て、……北のローラシアへ行こう。ローラシアの『旧人類』は、市民権を保証されてる。そこでならきっと、『新人類』と『旧人類』が手を取り合って生きていく方法だって、探っていけるはずだよ」
 「そんなこと、出来るわけがないわ」顔を青くしたイノリが、恐る恐る首を横に振る。「ゴンドワナがどれだけ遠いか、わかっているの? 第一、私達はいつだって、この足環で行動を見張られているのよ。逃げるなんてそんな事、出来るわけがない」
 イノリの言うことももっともであった。だがなにか、なにか手はないのだろうか、──。思いあぐねて目を伏せる。するとその時、二人を取り囲むようにしていた内の一人が、ふと、「そうなさい」と穏やかな声を上げた。
「……、ミチタリ」
 イノリにそう呼ばれたのは、年配の一人の女性である。彼女は品定めでもするかのようにコルウスを睨み付け、一方で、そっとイノリに寄り添った。
「そうなさい。ここから逃げなさい。この地下に巨大な洞窟があることを、確かイノリは知っていたわね。隕石衝突の際、マグマが流れて出来た洞でしょう。それが一体、どこに続いているのかはわからないけれど、でも運が良ければ、それを使って、他の大陸に抜けられるかもしれない。どこか、住みよい場所へたどり着けるかもしれない。──行きなさい、イノリ。『新人類』の少年と手を取り合って、最後まで外を夢見なさい。あなたには、きっとその方が良いでしょう」
 女性の声は、あくまでも温和で、優しかった。けれどイノリは青ざめたまま、ふるふると首を横へ振る。
「できません。そんな、私、──こんな風にユーラメリカを出るなんて、怖くて」
 聞いてミチタリは、「あら、おかしいわ」と笑ってみせる。「幼い頃の貴女は、いつだって方舟の外を夢見ていたじゃない。その姿に私がどんなに励まされたか、貴女は知らないのね」
 そう言って彼女は、イノリの瞳からぽろぽろと溢れ出る大粒の光を指で拭うと、ふと姿勢を改めて、鋭い口調でこう言った。
「夫、ウヤマイの代理者として伝えます。イノリ、貴女をユーラメリカから追放するわ」
 イノリの肩が、びくりと震える。コルウスは咄嗟にその背に手を添えて、「イノリ」と彼女の名を呼んだ。
「男達を奪われた今、私達は戦わなくてはならない。戦えない者は要りません。さあ、お前達。二人を連れて行きなさい」
 力のある声。周囲の女達が黙ってそれに頷くのを見て、イノリが悲鳴にも似た声をあげる。
「戦うなんて駄目、せいぜい斧を振りかぶることしかできない私達に、勝ち目なんてあるわけがない──! 戦っては駄目、戦っては駄目よ、私達は対話しなければならないの、理解し合わなければいけないの。同じ人類として、──人類として!」
 女達が数人がかりで、ミチタリへ手をのべるイノリの肩を抱く。そのうちの一人が、コルウスにそっと鉄の鎌を差し出した。意図はすぐに知れた。受け取ったコルウスは、それを躊躇なく振り上げると、イノリの足環に突き立てる。
 彼女と行くのだ。なんとしてでも、この美しい顔を持つ、彼女と共に歩んでゆくのだ。そう思えば必死であった。二度、三度と叩きつければ、足環は曲がり、ひび割れて、最後にばりんと砕け散る。──すると同時に、その拘束具が破壊されたことを報せるサイレンが、保護区域中に耳障りな音を響かせた。
 後戻りはできないのだと、けたたましく鳴るその音が、その場の全てに告げていた。
「──その昔、この大地が洪水に見舞われた時にも、私達の祖先は大きな方舟を造り、そこに身を寄せたのだと聞いた事がある」
 イノリとコルウスの二人を地下へと導きながら、女が一人、そう言った。
「やがて彼らは、大地が再び顔を出したかどうかを確かめるため、方舟から大烏を放ったのだそうよ。一度目に放った時、大烏は大地を見つけることが出来ずに方舟へ戻り、二度目も同じ事になった。けれど三度目に、大烏は地上を見つけ、そのまま方舟に戻ることはなかった──」
 慌ただしい足音がする。サイレンを聞きつけた『新人類』が、こちらへ向かっているのだろう。しかしそうは思いながら、コルウスはイノリの手を引き放さなかった。放そうとは思えなかった。そしてコルウスもまた、最早これまでの居場所には戻ることが出来ないのだという実感に、その不思議な高揚感を、どくりどくりと鳴る胸の音を、鎮めるのに精一杯であった。
「『運命の大烏』が戻らぬことを、願っているわ」
 
   裁きをもたらす審判者よ
   裁きの日の前に
   赦しの恩寵をお与えください
   私の祈りに
   少しの価値もございません
   けれど、どうか
   広い御心で迎えて下さい
   私が永遠の炎に
   この身を灼かれてしまわぬように
 
 薄暗闇の洞の中、震える声でイノリが歌う。そうして彼女は歌の終わりに、ぽつりとこう呟いた。
「きっともう、ユーラメリカの人々に会うことは出来ないのね」
 コルウスも、同じように震えていた。だが彼女の手を取り、何らかの衝動に突き動かされるようにして、闇の中を歩いて行く。しかし、
「『祈り』という言葉の意味を、私、ようやく知ることができたのだわ」
 彼女の不思議な呟きに、「──、イノリ?」と短く聞き返す。彼女はふふ、と小さく笑った。
 そうしてから、足元すらおぼつかないこの薄暗闇の中で、イノリはこう問うたのだ。
「ねえコルウス、私は今も、──上手に笑えているかしら?」

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