ディエス・エラ


 2 * INORI《祈り》
 
「ねえ、おばあさま。私たちの大地は以前、ずっとずうっと向こうまで続いていたって、本当なの?」
 幼い頃のイノリが尋ねると、血の繋がらぬ老婆はにこりと微笑み、頷いた。
「そうだよ。イノリは物知りだねえ」
「この前読んだ、本に書いてあったのよ。昔、私達の住む『星』には七つの海と大陸があって、人々は自由にその広い世界を旅することができたんだ、って。ねえ、それは今でもあるのかしら。いつか私達、海を、大地を、……空を、感じることができるのかしら」
 「そうねえ」答える老婆の声は、あくまでも穏やかだ。「私も昔はお前のように、期待に胸を躍らせていたものだけれど」
「おばあさまは、それらを見たことがある?」
「いいや。今、この方舟の中に生きている者は、誰も外へ出たことがないからね。外のことを知っているのは、今となってはこの方舟自体だけさ。大昔にご先祖様達が造ったこの方舟は、私達を守りながら、つぶさに外の様子を観察しているの。そうして『運命の大烏』が戻らぬ日を、ずっと、ずっと待っている」
 老婆が震えのある目蓋で目を眇めたのを見て、イノリは老婆の節くれ立った手にそっと触れ、老婆に倣うように、静かに深く、目を閉じる。
「どんな日も毎日、今日こそは、今日こそはと思いながら、この石の壁を眺めていた。うちのじいさまも、ずっと前に死んだお前の両親も。私達はこの方舟に身を隠してから、途方もなく長い間、いつか来る再会の日を夢見て生きてきた。そう、再会の日をね」
「再会の日、……」
 再会。一体、誰と?
 イノリが問えば、老婆はしばし困った顔をして、しかしぽつりと呟いた。
「──祈りを、捧げるべき相手に」
 
 まだ明け方のことであった。方舟の中とは違い、季節によって時を変える朝日の光が薄ぼんやりと、イノリの住む粗末な小屋の中を照らしている。
(懐かしい夢、……)
 子供の頃の夢。まだイノリが、方舟の中で暮らしていた頃の夢だ。あの頃イノリは方舟の中に設置された図書館へ毎日のように足を運び、人類の歴史を、文化を学びながら、まだ見ぬ大地に思いを馳せていた。
 無邪気に、壁の外を夢見ていた。
(今日は『新人類』の調査官が来る。部屋の中を片付けておかないと。……コルウスには、今日はここに来てはいけないと言ってある。大丈夫よ。いつも通りに採血させて、脚の電子鎖を確認させたら、さっさと追い返す。それで終わり。それで終わりなんだから)
 自らにそう言い聞かせ、深く大きな溜息を吐く。そうして床に置いていた瓶から僅かながらのワインを飲むと、イノリは己の小屋を出た。
「……、裁きをもたらす審判者よ。裁きの日の前に、赦しの恩寵をお与えください」
 いつか方舟の中で聞いた、祈りの歌を口ずさむ。だが己の名と同じ音を持つ、『祈り』という言葉の意味するところを、彼女はついぞ知り得ない。
 方舟の中にいたのは、人と、獣と、それだけであった。そこに祈りを捧げるべき相手はいないのだと、老人達はいつも言った。だが彼らも、最早それ以上を語ることはない。知恵者として若い世代に知識を語り継ぐべきであった老人達は、皆方舟での生活に慣れきっており、十年前の目覚めの日に、──方舟の壁が役目を果たしたその直後に──環境の変化に耐えきれず、次々に命を落としてしまったのだ。
 だからイノリは今でも、この歌を捧げるべき相手を知らない。もしかすると老人達もまた、本当の答えなど知らなかったのではないだろうかと、今となってはそうも思う。それでも彼らの遺した歌は、本来の意味を伴わないまま、イノリの心に棲みついていた。
 
   私の祈りに
   少しの価値もございません
   けれど、どうか
   広い御心で迎えて下さい
   私が永遠の炎に
   この身を灼かれてしまわぬように
 
 桶に水を汲み、昨日のうちに他の小屋からも集めておいた汚れた衣服を、その中へと浸していく。そうして曖昧な旋律を繰り返しながら洗濯物を水に浸し、ふと、「また来るよ」と言い去っていった、少年のことを思い出す。
(そうね、今日はコルウスには会えないんだわ)
 そう思うと、不意に気持ちが落ち込んだ。けれど己の落ち込みに気づき、思わず苦笑してしまう。これではまるで、あの小さな『新人類』の少年に、恋でもしているようではないか。
 イノリが彼に出会ったのは、まだ三ヶ月ほど前のこと、冬の終わりの頃である。ユーラメリカ生体保護区域と名付けられた、この方舟の跡地にも春は麗らかに訪れており、イノリは土に芽吹いた小さな命を感じながら、例年通りにその訪れを言祝いだ。だがそうしてユーラメリカの中を歩き回る内に、柵の割れ目から潜り込んだ、小さな侵入者に遭遇したのだ。
 イノリも始めは警戒したが、しかし次第にそれが馬鹿馬鹿しく思えるようになる程、この侵入者は無邪気であった。ただ純粋な好奇心から保護区域に入りこんだのだという彼は、目新しいものを見つける度、これは何、あれは何とイノリに問うた。気づけばイノリもまた、彼にユーラメリカの外の世界を問うようになっていた。彼が何故、これ程までに何度も、容易く柵を越えられるのかはわからなかったが、そのうち彼の訪れは、抑圧されていたイノリにとって、喜びに変わっていったのだった。
(ずっとずっと、方舟の外の世界に憧れていた。どんなものがあるんだろう、そこで私になにができるんだろうって、幼い頃から夢見ていた……。私達が再会したこの世界はけっして甘くはなかったけれど、だけどあの少年は、私に再び夢を見せてくれる──)
 「これもきっと、一つの恋の形なのだわ」ぽつり、呟いた。
(今度コルウスが来たら、私の織った布を見せてあげよう。外の世界では、布は全て機械が織っているのだと言っていたもの。手織りの布を見たら、あの子、また目を輝かせて話を聞いてくれるに違いないわ)
 そう考えると、自然と頬が緩んでいた。同時に、「不思議だ」と呟いた、コルウスのことを思い出す。
「不思議だ。貴女には、顔がない」
 コルウスの口調を真似てみて、イノリは不意に笑ってしまった。だが不意に聞こえた足音に、思わずはっと背筋を正す。
「今日はゴンドワナの奴等が来る日だ。わかっているな?」
 背後から聞こえたその声は、このユーラメリカ保護区域のリーダーであり、いずれイノリの夫となる、ウヤマイの発したものであった。彼は既にイノリの倍近くも生きており、他にもミチタリという妻がいたが、同じ区域に同世代の男がいないイノリは、彼に宛がわれることになっている。
 「わかっているわ」と慎重に返せば、ウヤマイは物憂げな顔で、「そうか」と静かに呟いた。調査官達の訪れがあるからだろうか。ユーラメリカの人間を守らねばならない重責を負った彼の表情は、いつにも増して翳っている。しかしイノリがそれを労うより早く、彼は重々しく、イノリに対してこう言った。
「イノリ。お前は昔から、好奇心が強くよく学ぶ、賢い子だった。亡くなった老人達も、お前にものを教えるのを心底楽しんでいたよな」
「急にどうしたの、ウヤマイ。あなたに褒められるなんて、なんだかこそばゆいわ」
「茶化すな。俺が気づいていないとでも思ったのか」
「……、何のこと? それより、今日の仕事を先に片付けてしまわないと。調査官達ったら、どうせまた私達にねちねちと文句を付けて、無駄な時間をとらせるのだから」
 洗濯板にこすりつけていた衣服を取りあげ、絞る。しかしそうする腕に影が落ちたことに気づくと、イノリは何も言わず、ただそこに立つウヤマイの方を振り仰いだ。イノリを見下ろす彼の表情は固く、眉間に皺が寄っている。
「ここに、『新人類』の子供が来ているだろう」
 コルウスの事を、気づかれていたのか。
 イノリは表情を変えず、ウヤマイを一瞥すると、何も言わずにまた洗濯の仕事へ戻ろうとした。だがそうするイノリの右手を、ウヤマイの太い腕が掴んで放さない。
「『新人類』と馴れ合うのはやめろ。あれは俺達の敵だ。この十年間、どんな仕打ちを受けてきたか、お前もよくわかっているだろう」
「でも、あの子はまだ子供よ。調査官や、政治家達とは違う。ただ純粋な好奇心でここに来ているの。いいじゃない。ああいう子が増えてくれれば、私達も同じ人類なのだと、認めて貰うきっかけになるかも」
「同じ、人類? まさか本気で言っているのか?」
 ウヤマイの語気に怒りが混じる。それでもイノリは怯まない。「そうよ」とはっきり口にすると、ウヤマイの腕を払い、洗濯物を置き、その場へすっくと立ち上がる。
「以前、政治家が来た時に言っていたでしょう。北方の大陸にあるローラシアでは、『旧人類』と『新人類』の間で、一定の対話がなされているって。このユーラメリカを取り囲むゴンドワナでも、いずれそういう動きがあるかもしれないって、」
「一体どれだけ昔の話だ。対話だと? そんなもの、俺達を一時的に黙らせる為の方便にすぎなかっただろう」
「ローラシアの『旧人類』が私達の現状を知ったら、何か働きかけてくれるかもしれない」
「ローラシアへ亡命して、助けを乞おうとでも? 足環のことを忘れたのか。粗雑な作りだが、俺達がこれをはずそうとするなり、ユーラメリカの外部へ出ようとするなりすれば、すぐにでも『新人類』が銃を片手に駆けつけるぞ」
「それでも──! 私達は互いを理解し合えるよう、努力し続けるべきだわ。確かに私達にとって、方舟が扉を開けた先に、私達とは違う方法で生き残った人類が存続しているなんて想定外だった。だけど人類はそれぞれの方法で、懸命に厄災を生き延びたのよ。私達は大岩の中に閉じこもり、彼らは生身の身体を棄ててまで! そうして再び出会えたなら、しっかりと手を取り合うべきだわ。そうでしょう。私達は等しく、厄災を乗り越えた人類でしょう!」
 堂々たる態度でそう語るイノリに、ウヤマイはすぐには答えなかった。だがその代わりに、怒りを噛み殺すように首を振ると、ふと、彼の脚についた電子鎖を睨み付ける。
「お前が何故まだそんな戯れ言を言っていられるのか、俺には理解できない」
 唸るようなその声と共に、ウヤマイが固く拳を握る。
「自分の置かれた現状を、十年かけてまだ把握していないのか。あいつ等にとって俺達は、同列の人間ではない。奴隷でも、家畜ですらない」
 「やめて」短く言って、両手で己の耳を塞ぐ。だがウヤマイはその手を取ると、言い聞かせるようにこう言った。
「あいつ等が俺達のことを、生体アーカーバーと呼んでいるのを知っているだろう。あいつ等にとって俺達は、奴等があの気味の悪い人工義体を棄て、生体を取り戻すための情報源でしかないんだ。それだけなんだ。何故、お前にはそれがわからない!」
 押し殺したその声が、イノリの心に突き刺さる。
 すぐには言葉が出てこなかった。だが戸惑うイノリが視線を逸らした、その瞬間。
 ユーラメリカ保護区域の中心部から、集合を促すサイレンが鳴り響く。ああ、予定通りに、調査官達が訪れたのだ。
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