ディエス・エラ


   怒りの日ディエス・エラ
   その日、彼らの
   予言のとおり
   すべては燃え尽き
   灰となるだろう

   全てが厳しく
   裁かれる時
   その恐ろしさは
   どんなにか

(死者のためのミサ曲 続唱 『怒りの日《Dies irae》』より)


 1 * CORVUS《大烏》
 
 不思議だ。貴女には、顔がない。
 コルウスがそう呟くと、彼女は眉をしかめ、下唇を突きだして、訝しげにコルウスを振り返った。
 ある夕焼けの時刻のことであった。細く流れる雲が、落ちてゆく陽の朱を細やかに色分けし、うっすらと顔を見せ始めた月の、星の、曖昧な輪郭が、こちらを覗き見始める頃合いのことである。
 振り返る彼女の背は高い。だから子供の身体をしたコルウスはいつだって、自然と彼女を見上げる形となる。それはコルウスにとってはもどかしい事でもあり、なにがしかのくすぐったい、喜びの姿でもあった。
 見上げたそこにいる彼女は、いつだって美しい。
 濃い森の香り。歌うように響く虫の声。いずれも、最近までコルウスの知らなかったものばかりだ。けれどそれらの風景を、音を、温度を、全てを、彼女はいつだって、当たり前のように許容する。
 陽を背にした彼女の表情は、逆光のためによく見えない。しかし可笑しそうに笑う声を聞いて、コルウスは小さく首を傾げた。
「なぜ笑うの」
「だっておまえが、突然おかしなことを言い出すものだから」
「顔がない、と言ったこと?」
「そうよ。私に顔が無いだなんて、随分不思議なことを言うのね。おまえには、私のこの目や口が、見えていないとでも言うのかしら」
 いじけたようにそう言う彼女は、しかし気分を害した様子ではない。
 風が吹く。彼女の豊かな黒髪が、ふわりと視界に散らばった。しゃらりと鳴る涼やかなそれは、彼女が身につけた、銀の足環の擦れあう音であろう。彼女の自由を制限するために付けられた、その足環のことすらも、彼女はけっして憎まない。「いい音よね」といつか話していたその言葉の穏やかさを、コルウスはよく覚えている。
「見えてるさ。貴女の目の青がどんなに深いか、その唇がどんなに柔らかいか、僕はよく知っているよ。だけど、……そう、貴女は僕たちと違って、『普通の顔』を持たないでしょう」
 「普通の顔?」と彼女が促す。コルウスは一つ頷いて、「そうさ」とまた言葉を続けた。
「僕たちはみんな、自分に与えられた顔をベースに、悲しい時には悲しさを表す顔をするし、嬉しい時には嬉しさを表す顔をする。だけど貴女には、そのベースとなる顔がないのだもの。貴女はいつも笑っている。だけど、同じ笑顔は一度もない。毎日違う顔で、貴女はずっと笑っている」
 それが僕には、とても不思議だ。コルウスがそう続ければ、彼女はふと足を止め、ほんの少し視線を泳がせてから、小さくコルウスを手招きした。そうしてコルウスの肩に手を置き、コルウスと視線を合わせるように、その場に軽く腰を落とす。
「上手に笑えているかしら?」
 彼女の質問が、コルウスにはどうも不可解であった。笑顔のパターンに、上手いも下手もあるだろうか。しかしコルウスはその問いを口にせず、代わりに、「貴女の笑顔はとても素敵だ」と、思った通りに言葉を紡いだ。
「僕は貴女の笑顔が好きだ。この森には不思議な物が溢れているけど、その中でも一番、貴女の笑顔は不思議で、素敵だ」
 彼女が何やら目を伏せる。曖昧に笑うその口が、「ありがとう」と呟いた。
「まるで口説かれているみたい。コルウスったら、おませさんね」
「『口説く』って、一体どういう意味?」
「おまえはまだ、知らなくてもよろしい。……さあ、そろそろ町に帰りなさい。誰かに見つかったら大変」
 腰を上げながら、彼女がコルウスの頬にキスをする。コルウスはそれが嬉しかった。母のそれとは違う、柔らかい、湿っぽい、そのキスは、いつだってコルウスの心を浮き足立たせてしまうのだ。
「また来るよ、イノリ」
 彼女は最早、それを否とは言わなかった。ただ微笑んで、そっとコルウスに手を振った。
 彼女に背を向け、慣れた森を歩き出す。今日は長居をしすぎてしまった。少し急いで帰らなくては。木々の茂みを掻き分け、大きなシダの葉を避ける。一部の壊れた鉄格子に手をかけ、ひょいとその外へ顔を出して、──コルウスは慌てて首を竦めた。鉄格子の外を囲むように走る道路に、スピードを出した自動車が走り抜けていったのだ。
 危うく轢かれるところであった。コルウスはそっと安堵の溜息を吐き、今度は慎重に外の世界へ降り立つと、歩道のない道路を駆け、渡る。そうして道路の対岸へと辿り着き、もう一度大きな溜息を吐いた。今度は安堵のそれではない。現実に引き戻された、落胆のための溜息である。
 ふと振り仰ぐ町は鮮やかな電飾で色づき、背の高いビルの間を縫うように、『人工義体』に心を宿した『人間』達が町を闊歩している。
 ある人は仕事を終え、急ぎ足で帰路につき、ある人は最近ようやく認可の下りた、生体犬を首輪で繋ぎ、誇らしげに通りを歩く。ふと見上げればビルに取り付けられた巨大なモニターに、アナウンサーの姿が映し出されたところであった。
『パンゲア政府は本日、マウスを使用したテロメアの再生実験を再開しました。この実験は、現環境に適応可能な『生体アーカイバー』のクローン精製計画において最も重要な研究と位置づけられており、関係各所は勿論、人類の生体回帰を悲願とする人々の注目を集めています』
 画面が切り替わり、研究の結果を心待ちにする民衆の声が流れてくるのを聞き流しながら、小走りに町中をゆく。早く戻らなくては、また短気な寮長に叱られる。幼年期を終え、少年期を迎えたコルウスには、既に担当の両親もなく、帰るべき家もない。となれば、他の子供達と同じように少年寮へ戻るより他にないのだが、彼はどうにも、この寮と相性が悪いのだ。
(時間通りに区切られた生活、決まった食事、決まった勉強。──ああ、そんな物はもううんざりだ)
 ふと立ち止まり、振り返れば、彼女の森が随分遠くに見えていた。ユーラメリカ生体保護区域。それがイノリの住む森の、今の正しい名称である。深い土に木々が根を下ろし、以前は図鑑データでしかお目にかかれなかったような、獣達が棲む原始の森──。太い道路で隔てられたこちら側とは、まるで、別世界のような場所。
(町へ戻ってきたばかりなのに、……すぐにでも、イノリのいる森へ帰りたいや)
 『こちら側』の世界はいつだって無機質に整えられ、しかし人々はその致し方ない秩序を誤魔化すかのように、鮮やかな光の装飾を、賑やかな喧騒を、競うように飾り立てた。
 生体を失った人々が、長い歳月と執念を持って築き上げた不屈の都市、ゴンドワナ。
 それが、コルウスにとっての故郷であった。
 
 今から三千と五百七年前。まだ人類が、当たり前のように生身の肉体を持っていた頃のこと。人々はある日科学のはじき出した、確実な『未来』の様に戦慄した。
 直径十キロメートルもの大型隕石が、地球に衝突する未来。衝突地点とその周辺が隕石に押しつぶされるのみに留まらず、破壊された地殻が破片となって地表に降り注ぎ、あるいは地殻津波となってクレーターを押し広げ、発生した蒸気が全ての木々を、そして命の源たる水を灼き尽くすという地獄絵図──。隕石の衝突から一年もかけず、深海に生きる一部の生命以外、ほとんど全ての命が死に絶えるであろうと宣告され、その『未来』がいよいよ目前に迫った時、人々は限りある選択肢の中から、己の未来を選びとることを迫られた。
 一つ目の選択肢は、己の運命を受け入れ、隕石の衝突と共に死の眠りにつく選択。この選択を行った者は、隕石の衝突と共に等しく灰燼に帰した。
 二つ目の選択肢は、自らの精神をデータ化し、火星基地で研究の進んでいた人工知能に、それを上書きするという選択。精神のアーカイブを行った者は隕石の衝突と共に生身の肉体を失い、しかし地球に再び太陽の光が届くようになった頃、火星で製造された人工義体に精神を上書きし、この惑星へと帰還したのだ。
 生身の肉体を持たぬ彼等は、過酷な環境にも音を上げることなくよく働いた。荒廃しきった世界を慣れぬ人工義体で開拓し、途方もない努力の末に、文明的な世界を復興させてきた。だがその過程について、コルウスのような子供はただ授業で学んだのみで、実際にその目で見てきたわけではない。不思議なことに彼等の精神は、人工義体の老朽化と共に老い、朽ち、やがて等しく死を迎えたからだ。人工義体とそれに宿った精神も、生身のそれと同じく老いる。その事に気づいた人々は、定期的に新たな人工義体を造り、そこに記憶の初期化を行った子供の精神を上書きし、それを育てることにした。そうすることで、かつて全ての生き物がそうであったように、『次なる世代』に人類の存亡を託してきたのである。
 かくして人類は生身の身体を代償に、それでも技術の粋を集め、知識を、文化を復興させ、この星での歴史を再び歩むことに成功した。喪ったものの大きさは計り知れなかったが、それでも、生き延びるために彼等が選び得た道はそれしかなかった。
 誰もがそう考えていた。だからこそ人々は、古い確執を棄てて手を取り合い、ここまで立ち直ることができたのである。
 第三の選択肢が存在していた事を、思い知らされるその時までは。
 
『それでは次のニュースです』
 急いで駆けるコルウスの耳に、再びアナウンサーの声が届いた。市街地を歩くといつもこうだ。そこかしこに設置されたモニターには、様々な色が入れ替わり立ち替わり映し出され、各地から届いた情報が、絶えず人工鼓膜を揺らがせる。彼女の森とは正反対の、いつも忙しないコルウスの故郷。せめて受信の指向性を狭めようかと試みたコルウスの耳に、ふと、今ではすっかり聞き慣れた、ある単語が飛び込んだ。
『ゲノム解析の済んだ生体アーカイバーの扱いに関して、意見が大きく割れています。生体アーカイバーの生活圏を保護区域内に限定し、その中での最低限の人権は尊重するべきであるとの見解を示すローラシア市と、生体としての種の存続を優先課題とし、新人類は生体アーカイバーの暮らしへの直接介入、管理、指導を行うべきであるとするゴンドワナ市双方の主張は依然として平行状態を保っており、議会は国民投票を視野に入れた上で、……』
 生体アーカイバー。コルウスのように人工義体に心を宿した『新人類』とは違う、生身の身体を持つ人間──。『旧人類』と当初は呼ばれていた彼らのことを、今では誰も、そうは呼ばない。
 第三の選択肢の存在を、人工義体を纏った『新人類』が認識したのは、わずか十年前のこと。それ以前から人々は、地上の各所にぽつぽつと、一見すると山とも思われるような巨石が遺されていることを知っていた。だがまさか、それが限られた生物だけを守る方舟であっただなんて、想像すらしていなかったのだ。
 十年前のある日から、巨石達は徐々に目を覚まし始めた。シェルターとして長い年月を過ごしてきたそれは、石に見せかけた表皮の下に、肥えた土を、獣を、植物を、そして生体を保ったまま子孫を残し続けた『人類』を棲まわせていた。
 この事がわかった時、『新人類』は戦慄した。精神以外の全てを喪った彼らが、それでも必死に育て、かき集めてきたものを、見せかけの石の表皮を隔てたすぐ隣で、当然のものとして享受していた者がいた。その事実は、簡単に受け入れられるものではなかったのだ。
 長い年月を方舟の中で過ごしてきた人々は、石の目覚めを経て初めて外界の現状を知ると、『新人類』に和解を持ちかけた。『新人類』も、表面上はそれを受け入れた。
 だが和解をうたう一方で、『新人類』は『旧人類』を巨石の跡地──保護区域に封じ込め、電子鎖を付けて管理し、彼らを人類ではなく、ただ『生体情報を保管した者《生体アーカイバー》』と称したのだ。
 『旧人類』の数は多くなく、一つの石に数百人が棲む程度であった。そうして彼らのほとんどは、最早旧時代の文明を持たず、石の中に生きる家畜や農作物を育てるのみで命を繋いでいた。
 『新人類』と『旧人類』、両者の力の差は歴然であった。
 その圧倒的な優位を得た上で『新人類』は、──生体のまま現代までを生き抜いた彼らのことを、けっして、
 けっして許さなかったのである。
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