黒塗りの絵画


「まったく、酷い目に遭った」
 苛立たしさを隠せずに、男が低く、そう唸る。
 耳をすませば分厚い壁の向こう側に、雨音がいまだ響いていた。季節外れの豪雨である。今年は雨の少ない年であったから、近隣の町は今頃、喜びに大いに湧いていることであろう。だがそれはあくまでも、田畑を耕し家畜を養う者にとっての喜びである。この男のような生業の者にとって、それは恵みの雨ではなく、ただ彼の歩みを阻む、障りでしかありはしない。
 つい先程まではこの男も、豪雨の真っ直中にいた。夜更けの森を移動するさなか、突如降り出した雨は容赦を知らず、男の纏った外套を、男の背負った大きな『荷物』を、穿つかの如く打ち続けた。それでも唯一幸いであったのは、――雨避けのできる場所を探すうち、偶然にも、この古びた屋敷に辿り着いたことである。
「ふふ、大変でしたでしょう。ですが、もう大丈夫ですよ。暖炉に火もいれますし、食事の準備も進めましょう」
 堅牢な石造りの建物の中、暗い廊下に唯一灯るその光が、明るい声でそう話す。ぐっしょりと濡れそぼった外套を、やっとの思いで脱ぎ捨てた男が、「助かる」と短く言えば、相手は手にした燭台を上げ、にこりと優雅に微笑んでみせた。
「さあ、この廊下はお寒いでしょう。こちらへどうぞ」
 そう語って奥へと手を延べたのは、まだ年端もいかぬ少年であった。偶然この屋敷に辿り着き、縋るような思いで戸を叩いた男の声に応えたのが、他ならぬ彼であったのだ。いかにも上質な絹地のシャツに身を包み、黒いタイを結んだこの少年は、男が雨に難儀している旨を伝えると、一も二もなく屋敷の中へと男を迎え入れた。
「それにしても、この森の中にこんな立派な屋敷があるとも、そこに住人がいるとも思わなかった」
 男が言えば、少年はただ、「そうでしょうね」と笑って返す。
「どこもかしこも真っ暗だが、お前一人で住んでいるのか?」
「いいえ。一人きりでは寂しいですからね。手伝いの者をほんの数名住まわせています」
「親はどうした。まさかお前のような子供が、この屋敷の主人というわけでもあるまい」
「その『まさか』なんですよ。この屋敷の主人は、他でもない私なんです」
 少年が笑う。楽しそうに、しかし控えめにクスクスと笑う。一体何が可笑しいのかと男が問えば、彼はただ、「みなさん、同じ事を言われるものですから」と言いまた笑った。
 少年について歩いていくと、そのうち、広い部屋へと行き当たった。暗がりでよく見えないが、どうやら客間であるらしい。少年の持つ燭台の火を頼りに目を凝らせば、壁にはなにやら豪奢な額が飾られている。それも一つではない。三つ、四つ、五つ……。壁一面に掛けられた額にどのような絵が飾られているのかまではわからないが、少年が手にした火を近くの燭台へ伝え灯せば、きらりと光るものがある。金の額縁。となれば、飾られた絵もさぞかし値の張る物に違いない。
(雨に降られた時は、とんだ災難だと思ったもんだが)
 今までは存在も知らなかった屋敷であるが、この部屋へ至るまでの廊下を見ても、敷かれた絨毯には巧緻な模様が施され、置かれた花器には東方由来の見事な鶴が描かれていた。暗がりの中で見ただけでもそれだけのものがあるのだから、恐らくこの屋敷には、それ以上に価値のあるものが、幾らも存在しているのに違いない。
 肌身離さず背負ってきた『荷物』に手を当て、男は思わずにやりと笑った。彼がせっせと手を変え品を変え、方々から拝借してきたこれらの『荷物』は、この森を抜け国境を越えてから、売り捌くことに決めている。だがどうしたことだろう。神はどうやらこの働き蜂に、新たな獲物を与えようとしているらしいのだ。
(こんな子供が主とは、随分楽な仕事じゃないか)
 暗がりのうち、外套の裏に仕込んだナイフの位置を確認する。
 少年の一挙手一投足に、じっと静かに意識を配る。するとついに少年が、客間の奥の暖炉らしき影に近づいた。
(さあ、この屋敷にどんなお宝が眠っているのか)
 暖炉に火が灯れば、視界も随分拓けるであろう。思わず綻ぶ両頬に、力を込めて表情をただす。
(じっくり拝見せてもらおう)
 少年が手にしたその炎が、暖炉の薪にじわりと灯る。火が火を呼んで肥大化し、暗闇の黒を塗り替えていく。
 期待に満ちた男の視界に、金の額縁が浮かび上がる。しかし、――
「……、鏡?」
 眉間に皺を寄せ、思わず男が呟いた。すると少年が微笑んで、「いいえ」と短く応えを返す。
「馬鹿言え、どこからどう見たって鏡じゃないか。ほら、俺の姿が映ってる」
 募った期待が大きいだけに、その落胆があまりに強い。だが間違いない。暖炉の光に照らされた薄暗い室内には、大なり小なり十数もの額縁が飾られているのだが、そのいずれにも期待したような絵画は飾られていない。ただ薄闇を受けて曖昧に光るそれを男が覗きこみ、自らの姿を映してみれば、少年は悪びれもせず、「素敵でしょう」とそう言った。
 その時だ。
 男のすぐ隣に掛けられた鏡が、ほんの一瞬瞬いた。何か反射でもしたのだろうか。だが覗き込んでみても、瞬いたものが何であるのかわからない。
「鏡、……そうですね。あなた方にとっては、これは鏡のようなものかもしれない」
 変わらぬ少年の明るい声に、何故だか不意に、総毛立つ。男は弾かれるように少年の方へと視線を戻し、
 声のないまま、戦慄した。
 少年の背後にかかった『鏡』に、何やら蠢くものがある。
「これらは皆、れっきとした絵画です。ただ普通の絵画とは違い、それを目にする人間次第で、描かれているものが異なって見えるんですよ」
 得体の知れない暗闇が、身を伸縮させとぐろを巻いた。
「私達はこれのことを、『心を映す絵画』とも呼んでいます。あなたの心は――、おや、なんとも貪欲に、お腹を空かせているようだ」
 男が数歩後ずさる。逃げ出さねば。男の本能が叫んでいた。
 逃げ出さねば。一目散に、この場を去らなくては。しかしそうは思うのに、身体が上手く動かない。
 少年が一歩歩み寄る。そこから距離を取ろうとして、男がまた後ずさる。しかし、
 ふと男が視線を上げ、そのままその場へ凍り付く。男のその目が映したものは、一体何であったやら。
「――おやおや、獲物は何でもお構いなしだとは。来世ではどうかもう少し、美食を嗜んでいただきたいものですね」
 がりがり、ぺちゃぺちゃと響く不穏なその音の中、少年は静かにまた微笑んだ。
2015/12/31

:: Thor All Rights Reserved. ::