鳴き沙のアルフェッカ


第三章 海神祭 -3-

「なあ、ちょっと寄りたいところがあるんだけど」
 祭主の服を身に纏ったイスタバルは、何気ない口調でこっそりと、カラヤ一人にそう告げた。
 前夜祭を終えた翌日のこと。海神祭を目前に控えた二人は、この日もやはり隠れ浜を訪れていた。とはいえいつものように稽古場として、この場所を選んだわけではない。神官達に面会を拒絶され、朝から暇を持て余すことになったカラヤは、怒りを向けるあてのないまま一人でここを訪れたのだ。そこへ後から、祭主としての身支度をすっかり整えたイスタバルが、その姿を見せびらかすかのようにやってきたのである。
「寄りたいところって、一体どこだよ。お前まさかその格好で、あちこち出歩くつもりじゃないだろうな」
 海神祭は、陽が落ちてから行われる。思うように振る舞うことが許されないというのなら、せめてここで波でも見ながら、祭までを静かに過ごそうと、カラヤはそう考えていたのだ。それなのに、とんだ邪魔が入ってしまった。苛立ちを隠しもせずにそう問えば、イスタバルは少し考えるような素振りをしてから、「付き人のことで、まだいじけてるのか?」とカラヤに問う。
「いじける? 誰が!」
 立ち上がったカラヤが食ってかかれば、イスタバルは神妙な顔をして、「不適切なことを言った」と素直に謝罪した。言ってはならぬ冗談だったと、彼もすぐに気づいたのだろう。
「子供の頃から、十五の年の海神祭で祭主に選ばれることが目標だったんだ、ずっとな」
「……、ああ」
「お前に敗けたことはまだいい。俺の鍛錬が足りていなかったからだと諦めがつく。けどな、もう少し、……もう少し、敗けたことに対して、落ち込む時間を与えろよ。付き人だと? はあ? ふざけるな! なんでこんな訳のわからんことに苛つかなけりゃならないんだ! あの下っ端役人め、何の権限があって俺達の祭に水を指す? くそったれ、神官も神官だ。なんだってあんな奴の言いなりなんだよ!」
「うん、うん、……そうだな」
「お前だって、やっと勝ち取った祭主の立場を、蔑ろにされたんだぞ!」
 足元の砂を蹴り散らすカラヤを見て、イスタバルは呆れるでもなく、しかしたいして同調する様子でもなく頷いた。腕っ節は強いくせに、この男は昔から、憤るということを滅多にしない。奴隷なりの処世術が幼い頃に身についてしまったのだと、以前本人が言っていたが、こんな時ですら、彼の心は波立たないというのだろうか。
「俺はイフティラームの戦士として認められたくて、鍛錬してきたつもりだったのに、……」
 ダフシャの使者の真意は判じかねたが、恐らく彼ははじめから、この任務の為に郷へ来たのだ。前夜祭でカラヤが敗けたとしても、なんとしてでも、カラヤを海の祭壇へと向かわせる。そうやってカラヤの顔を立てることで、——ダフシャ国王の権威を保ったと、そういうわけなのだろう。
 結局カラヤがダフシャに生まれを持つ以上、その影響力から逃れることはできないのだろうか。カラヤはこの先も、ダフシャの血を引く人間として生きていくしかないのだろうか。そう考えれば、腹立たしさより情けなさが先に立つ。
 しかし。
 力強く背を叩かれて、カラヤははっと顔を上げた。顔を上げればイスタバルが息をつき、「あんまり悩むなよ」と苦笑する。
「あんたを育んだのは血筋でも生まれでもなく、この土地なんだろ。強気でいなよ。いつもみたいにさ」
 にやりと笑ってそう言った、その顔を見て、カラヤは思わず言葉を飲んだ。
 いつもと変わらぬ、友人の姿がそこにはあった。時にからかい、時にぶつかり、競い合ってきたその友が、しかし目元に力を込めて、——まるで泣き出しそうに言ったのを、カラヤは初めて目にしたのである。
 そんな己の様子を、カラヤに見せまいと思ったのだろうか。すぐ顔を背けてしまったイスタバルに、カラヤは事を問えないままでいた。
「別に、弱気になんかなってない」
 咄嗟に気の利いた言葉が浮かばず、見当違いなことを言ってしまった。しかしイスタバルは何事もなかったかのようにカラヤを振り返ると、「それはよかった」とにやり、笑ってみせる。
 「それで、寄り道の件だけど」イスタバルが話を戻すのを聞き、「どこに行きたいんだよ」と呆れて問うた。「寄ってくれるのか?」と問い返すイスタバルは、もうすっかり、いつもの調子を取り戻している。
「場所にもよるけど」
「ああ、そんなに遠いところじゃないんだ。浜辺から、海の祭壇へ行くちょうど途中にあってさ」
 「祭壇へ行く、途中?」想像もしなかったその答えに、ぎょっとして思わず問い返す。しかしそれを受けたイスタバルは、むしろ普段よりも穏やかとすら見える顔をして、「そう」と一言肯定した。
「人がなんとか横たわれる程度の、岩場がいくつかあるだろう? そのうちのひとつに寄りたいんだ。海神祭の祭主として船を出すのは日が暮れてからだし、ほんの少し寄り道したって、岸辺からは気づかれないはずだ」
「いや、そうだけど、なんでそんなところに、……それに、海神祭の最中じゃなくたっていいだろ。明日でも」
「明日じゃ駄目だ」
「なんでだよ」
「駄目なんだ」
 あまりにきっぱりとそう言われ、カラヤは一度、口をつぐんだ。イスタバルがこんな風に、自分の考えを押し通そうとするのは珍しい。だからひとまず最後まで、話を聞いてやろうと思ったのだ。
 人当たりはいいが、いつもどこか、一歩引いたところがある。それがこの男の常であった。誰にでも笑顔で受け答え、なんでも素直に学ぼうとする。だから郷の人々はイスタバルを構いたがったし、船の難破で主人を失った以上、帰る場所も手段もないと言う彼を、家族のように迎え入れた。しかしカラヤは知っている。恐らく、本当は気づいてさえいたのだ。己のことをいつまでもイフティラームの民であると認めない彼が、何かしら、秘めた思いを抱えていたことを。
「その岩場が、……俺がイフティラームの郷を見た、初めての場所だったんだ」
 イスタバルがそう告げたのを聞いて、カラヤは幾度か瞬きした。初めてというのはつまり、イスタバルが海を漂流して、この郷に辿り着いた時のことだろうか。
 そういえばここにたどり着いた時、イスタバルの身体はどこもかしこも傷だらけであった。例の主人につけられた傷もあったのかもしれないが、しかし、浜に流れ着く手前で、一度岩場に打ち上げられ、そこで傷を負ったのだと考えても不思議はない。とすればイスタバルは恐らく、その岩場でイフティラームの郷を見つけ、そこから自力でか、結局波に流されてか、ともかく己の意志をもって、人の姿のあったこの郷まで移ってきたのだろう。
「それがはじめだったから、……海の神殿へ向かう前に、ほんの一瞬でいいから、立ち寄りたくてさ。どうしても今日、この姿で」
 己の纏った祭主の服を見下ろして、イスタバルがそう言った。それで、今日でなくては駄目だったのか。カラヤは小さく息をつき、「それじゃ、行こう」と苦笑した。
「案外、感傷に浸る人間だったんだな」
「自分でも驚いてるよ」
 夕時の強い潮風が吹くと、布地の多いイスタバルの衣服がたなびいた。海水に濡れた砂浜は、夕陽を受けてきらきらと明るく輝いている。
「もう時期、祭が始まる。俺達もそろそろ向こうの浜に戻ってないと、まずいな」
「そうだな。……行こう、凪の水面カラヤ
 イスタバルがそう言ったので、カラヤもひとつ、頷いた。

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