鳴き沙のアルフェッカ


第一章 異邦の子ら -2-

「おお、カラヤ様。それにイスタバルも。ここにいたのか」
 イスタバルの言葉を遮る形でそう声をかけたのは、カラヤの後から梯子を登ってきていた郷の警備隊長、ミスマールだ。彼は人のいい笑みを浮かべ、太い腕で無頓着に二人の頭を撫で付けると、「首長様に聞きましたよ」と豪快に笑ってみせた。
「カラヤ様は海神祭が終わるまで、仕事は一切おあずけだと言うじゃないですか。そうこられちゃあこの私も、男を見せないわけにはいきませんからな。……イスタバル。お前ももう見張りはいいから、海神祭に向けて肩慣らしでもしてきなさい。カラヤ様にも、手合わせの相手が必要だろう」
 人のいい、この警備隊長の提案に、カラヤは大きく頷き、「ありがとう」と礼を述べた。カラヤも丁度、なんとかしてイスタバルを手合わせに誘おうと考えていたのだ。
「海神祭の祭主になる機会を与えられるのは、十五になるその年だけ。カラヤ様も運が悪かったですねえ。同じ年の候補にイスタバルがいるなんて」
 イスタバルの才能を見込み、武芸を教え込んだこの男は、にやりと笑んでそう言った。しかしカラヤは気にしない。
「関係ないさ。互いに全力を出し合って、勝利したほうが祭主になる。それだけのことだ。さあ、イスタバル。行こう!」
 ひらりと身を翻し、梯子に手をかけたカラヤが声をかければ、イスタバルは苦笑して、「行ってきます」と残りの兵士達に声をかけた。そうして滑り降りるように物見台から地面へくだると、二人してすぐさま、浜の方へと駆けていく。
「おい! ああ見えて、警備隊は忙しいんだぞ!」
「そうか? どうせこの時期、戦う相手は眠気だろ?」
 途中、イスタバルが不満げに言ったのを聞いて、カラヤは明るく笑って返す。足元に落ちていた流木を拾い、銛を打つ要領で力一杯投擲すれば、イスタバルは悠々とそれを避け、砂浜に突き刺さった別の流木を手に取った。
「後継ぎ殿と違って、俺は仕事熱心なんでね」
「はあ? ダフシャでの俺の勤労ぶり、お前にも見せてやりたかったなあ」
 砂を蹴り上げ、一瞬怯んだイスタバルのみぞおちに、突きを一発食らわせる。しかし手応えを感じたその瞬間、イスタバルが唐突に右足を引いたのを見て、カラヤは思わず眉をしかめた。イスタバルの行動は、カラヤの突きを避ける動きでもなければ、反撃のための動きとも思われない。だが、——
 イスタバルの右足が、不意に砂浜を踏みしめる。と同時に、浜に半ば埋もれていた流木が顔をもたげて、イスタバルが踏みつけたのとは逆の端が、カラヤの脛を強打した。
「痛ってえ!」
「まずは俺の一勝、だな。続けるか?」
 「当然!」カラヤも拾った流木で一閃を薙ぎ、イスタバルがそれを受け流したのを見て取ると、浜続きの岩場の向こう側へと視線を向けた。そうしてどちらが合図をするでもなく浜辺を駆け、岩場をよじ登り、いつもの場所へと向かっていく。
 隠れ浜と呼ばれるそこにはまた小さな入り江があり、その周囲は高い岸壁で覆われている。それを見上げ、岸壁に所狭しと掘られたイフティラームの戦士達の墓、岩窟墓ロコ・マタに向けて、カラヤは握りしめた両拳を、胸の前で一度突き合わせた。イフティラームの郷に伝わる、戦士の礼だ。イスタバルも同じように礼を取り、しかしすぐに流木を構え直すと、カラヤにそれを振り下ろす。
 カンカンと木の打ち合う音が、隠れ浜に響いていた。前日の雷の海が嘘かのように、穏やかな浜にはいつもと同じく潮が満ち干きし、春の風が吹き抜けている。
 夕暮れを前に始まった二人の手合わせは、星が見える頃まで続くのが常である。休憩も挟まずあの手この手で技をかけ、すんでのところで相手の攻撃を躱しているうちに、日はとっぷりと暮れていた。
 最後に一発腹を打たれ、「くそったれ」と毒づいた。そのままカラヤが砂浜に尻を付けば、肩で息をしていたイスタバルも、仰向けにふらと倒れ込む。
「あんた、容赦なさすぎだろ」
 明け方の陽のような明るい色の髪が、浜辺の砂に絡むのも構わずに、イスタバルがそうぼやく。「お互い様だ」とカラヤが言えば、「それもそうだ」と彼も笑った。
 いつのまにやら、随分と潮が満ちていた。横たわるイスタバルの足元にまで波は届いていたが、疲れ果てた二人のどちらも、そこを動こうとはしない。
「明々後日か」
 どちらともなく、呟いた。海神祭の前日。今年の祭主を決めるその日。その一日を、今までどれほど心待ちにしていたことだろう。
「楽しみだな」
 カラヤが言った。イスタバルは答えなかった。
「前夜祭の対戦表は、普段の実力を考慮して作られてる。俺とお前が当たるとしたら、多分決勝戦だろうな。……絶対に決勝まで残れよ、イスタバル」
 そう続けても、やはり応える声はない。怪訝に感じたカラヤが覗き込むようにすれば、仰向けに倒れたままのイスタバルはじっと夜空を見つめたまま、カラヤのことなどちらとも見ずに、「いいのかな」とまず言った。
「いいって、何が?」
「最近色々、考えちゃってさ。例えば、……俺なんかが祭に参加してもいいのか、とか。海神祭は元々、イフティラームの建国者達が、騒海ラースの民からこの入り江を守り抜いたことを祝うために、海の祭壇に火を灯しにいく祭だろ? なのにもし、俺みたいな他所者が、その大役を担うことになったりしたら、……海神様や、ここに眠っている戦士達の英魂がお怒りになるんじゃないか、罰が当たるんじゃないか、なんて」
 穏やかに言うイスタバルが、眠りにつくかのように深く目を閉じる。
 その指先が、彼の左腕に走る大きな傷跡を、そっと、なぞっていく。
 肩口から手の甲までをいびつに割いたその傷を、イスタバルはいつだって恥じていた。故意につけられたそれを見る度に、彼は恐らく、己が過去に置かれていた境遇を、嫌というほど思い出していたのだろう。
 その傷は、彼の昔の主人がつけたものなのだという。落ち度があって咎めを受け、炙ったナイフでじわりじわりと切り裂かれたのだと、本人から聞いたことがあった。
 何故そんな横暴を許したのかと尋ねれば、彼はただただ苦笑して、当時の彼は、主人に楯突くようなことなど考えもしなかったのだと言った。
 この郷へ来る以前の彼は、どこか遠い異郷で買われ、はるばるこの界隈まで連れられてきた、奴隷の子であった。
「乗っていた船が難破して、俺一人が偶然、このイフティラームの浜に流れ着いた。素性も知れないガキ相手に、この郷の人はみんな親切だったよ。食べるものも着るものも、当たり前みたいに恵んでくれた。武術だって教えてもらったし、おかげで警備隊の仕事を得られた。——恩を、仇で返したくないんだよ。だから、」
「だから他所者のお前は、祭に参加しないとでも?」
 カラヤが思わず言葉を被せれば、イスタバルは否定も肯定もしないまま、また口をつぐんでしまった。
 それでいい。その続きは、言わせない。カラヤは浜に落ちていた尖った貝殻を二、三拾うと、なんの躊躇いもなしに、それを、横たわるイスタバルの顔めがけて投げつけた。
「おい、なにすんだ」
 明らかに気分を害した様子でイスタバルがそう言ったが、カラヤは一切取り合わない。それどころか苛立ちを隠さずに足を投げ出すと、カラヤ自身も、その場にどっかと倒れ込む。
「俺もイフティラームの血を継いでいないと知っていて、それを言うのか?」
 言葉に感情が乗らないよう、細心の注意を払ったつもりであった。だがそれでも、全ては押し隠せない。ほんの一瞬、己の声が揺らいだのを聞き取って、握る拳に力を込める。
「そういうことじゃない」
 慌てて起き上がったイスタバルが、苦々しい口調で言った。「奴隷だった俺と、王族のあんたとを同列に語るな」
「そうさ、生まれは王族だよ。宗主国ダフシャの王族だ。それで女にだらしのないダフシャの王と、何十人もいる兄姉にやっかまれて、生まれてすぐにこの郷へ送られた。早いうちに妻を亡くして、後継ぎのいなかった首長様がそれを請うたって名目だけど、結局のところ、イフティラームの土地を狙うダフシャが、いずれ俺をその為の手駒にしようと画策してるのは、目に見えてる」
「カラヤ、」
「けど、……それでも、俺はイフティラームの人間だ」
 有無を言わさぬ口調で、きっぱりとそう言い放つ。
「イフティラームの人間として施政を学ぶし、イフティラームの人間として祭に臨む。この郷に恩があるから、この郷のために身を尽くすよ。俺はダフシャの人間じゃない。仕事でダフシャへ行く度に、そう思い知らされるんだ。俺を俺にしたのは血筋じゃない。生まれでもない。俺を育んだこの土地だ。——俺はそのことを、今度の海神祭で、内外に知らしめてやりたいと思ってる」
 「お前もそうするべきだ」と、何の躊躇いもなく、カラヤは本心からそう口にした。
「イフティラームの郷の人達は、俺達のこと、他所者扱いなんかしてない。そうわかっていても、不安になる気持ちは俺にもある。でも、だからこそ祭で証明しよう。罰なんか当たるわけがない! 海神様にも、この岩窟墓ロコ・マタに眠るイフティラームの英魂達にも認められるような戦いをして、——俺達はイフティラームの人間なんだって、二人とも、胸を張ってそう言おう」

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