鳴き沙のアルフェッカ


終章 遺されたことば -2-

「イフティラームの人間になりたくて、必死だったんだ」
 ぽつりとひとつ、呟いた。
 慣れ親しんだ隠れ浜。カラヤは葬り直された友の墓前に座し、一人、打ち寄せる波を眺めていた。
 カラヤにとって、十六回目の海神祭、——騒海ラースの民を返り討ちにし、ダフシャの客人共を追い払ったあの日から、既に半年が経っている。しばらくの間は一連の騒動の後始末に忙殺される日々であったのだが、ようやく一人の時間をとることができるようになり、真っ先に足が赴いたのが、いつものこの浜であった。
 もう動かないその友に、語りたいことがいくらでもあった。応えがないことなど百も承知であったのに、詰りたいことも、問いただしたいことも、——謝りたいことも、次から次に浮かんできては、溢れ出して仕方がないのだ。
「ダフシャの血を引いていることが苦痛だった。ダフシャへの献身が期待されていることも、俺のせいで、首長様達が難しい立場に立たされることも、どうしても腑に落ちなくてさ。だけど俺は、……自分の事情をお前に重ねて、理想を押し付けていたんじゃないか」
——イフティラームの人間として施政を学ぶし、イフティラームの人間として祭に臨む。この郷に恩があるから、この郷のために身を尽くすよ。
 お前もそうするべきだ、と、カラヤはイスタバルに向かってそう言った。しかしその言葉が、今、友の遺した手紙を読む度、カラヤの胸を締め付けるのだ。
「お前のことを、俺の理想に巻き込んだ。お前は俺なんかより、ずっと難しい立場に立たされていたのに、……この郷を救ってくれた。そのことは心の底から感謝してる。けど、……俺が理想を強いなければ、お前は今頃、死なずに済んでいたんじゃないかな」
 落ちていた貝殻を拾い、無造作に海へ投げつけると、不意に強い風が吹いた。潮風はカラヤの髪を乱し、隠れ浜の砂を巻き上げると、岩窟墓ロコ・マタにめいっぱい音を響かせ、天空へと抜けていく。その力強い音が、今のカラヤには幸いであった。己の口にしたその懺悔が、他の誰に聞かれてもならないものなのだと、理解していたからだ。
「カラヤ、」
 己の名を呼ぶ声を聞き、はっとなって目許を拭う。顔を上げればそこに、一人の少女が立っていた。
 この半年で、もうすっかりイフティラームに馴染んだ、ヴィラだ。痩せこけていた頬には張りが出て、以前のような危うげはない。しかし今日の彼女は髪を短く切り、男物の服を纏った姿で、肩に荷物を担いでいる。
「今日、ここを発つことにしたわ。その前に一応、あんたには挨拶をしておかなくちゃと思って」
 「今日? 急だな」立ち上がってそう言えば、ヴィラは小さく頷いた。そうしてふと岩窟墓ロコ・マタを振り仰ぎ、「兄さんにも、さよならを言わないと」と目を瞑る。
「旅に出るっていうお前の意思は尊重したいけど、……くれぐれも気をつけて。困ったことがあったら、いつでも頼ってくれたらいい」
「大丈夫よ。この半年間、ミスマールに武術を教えてもらったし」
「生兵法は大怪我の元だ。何かあったら、立ち向かわずにすぐ逃げろ」
「わかった。……カラヤって、結構口うるさいのね。まったく、兄さんが余計なことを書くから」
 溜息混じりにそう言って、ヴィラが小さく笑ってみせた。そうして笑う彼女の顔は、彼女の兄に、よく似ている。
 見送りは要らないと言うヴィラを、それでもカラヤは己の身の許す範囲で、送っていくことにした。彼女はまず北の国、ザミールを目指していくと言う。
「南には、騒海ラースの民の残党が流れたっていう噂があるから、当面は避けるつもり」
「……残党、か」
 あの海神祭の日。訪れた騒海ラースの民を蹴散らしたカラヤ達はしかし、暫くの間、本隊の報復があるのではないかと身構えていた。こちらには捕虜もいる。それを奪い返しに争いを仕掛けて来るか、あるいは、捕虜を解放するための交渉をしに訪れるはずだと踏んだのだ。
 しかし騒海ラースの民は訪れなかった。恐らく、そうするだけの勢力さえ残っていないのだろうと、内情を知るヴィラは言った。
——イスタバルの提案を呑んで、陸地の争いごとから手を引いてさえいれば、こんなことにはならなかっただろうにな。
 カラヤはあの時、そう告げた。
 そうだ、イスタバルは、——騒海ラースの民の動きを知り、即座に戦士を動員したカラヤとは、——違うものを見ていたのだ。
 「ヴィラ、」別れの際、カラヤは彼女にこう言った。
「旅に出て、……色々な土地へ行って、色々なものを見たら、たまにこの郷へ帰ってきてくれないか? それで俺に、どんなものを見たのか、どんな人がいたのか、そこにどんな考えがあったのか、広く教えてほしい」
 カラヤの言葉に、ヴィラは「良いわ」と頷いた。
「そうする。……ずっと誰かの思惑通りに生きてきた私には、まだ、自分で考えて選択をすることが難しいから、……。しばらくは、兄さんがきっとやりたかっただろうことをしようと思うの。旅には出るけど、たまに帰ってくるわ。あんたや、この郷の人達の顔を見にね」
 「約束だからな」とカラヤは笑った。そうして互いに握手をかわすと、ふと、ヴィラがこう問うてくる。
「そういえば、……その掌の傷、どうしたの? 随分ひどい跡だから、ずっと気になってたの」
 掌の傷。カラヤの左掌に残る、——イスタバルが遺した、刃の跡。
 隠すつもりはなかったが、咄嗟に握りしめてしまった。それを見て、まずいことを聞いたようだと思ったのだろう。ヴィラは戸惑うように視線を泳がせて、「違うの、ただ、」と言葉を続ける。
「左手に傷があるなんて、なんだか、私や兄さんと同じだなって、勝手にそう思ってて、……ああ、一緒にしちゃ駄目よね。でも、」
 言い淀むヴィラが、驚いた様子で息を呑む。カラヤにはそれが何故なのだか、一瞬わからなかった。
 気づけばカラヤは傷の残る左手を差し伸べて、彼女の腕を掴んでいた。
「同じだと思ってくれて、——ありがとう」
 ヴィラはそれ以上を問おうとはしなかった。ただ困ったように微笑んで、カラヤに背を向けると、北への道を進んでいった。
 
 そろそろ夏も終わるだろう。半年の間、見上げ続けた乞食の皿アルフェッカも、天から姿を消す頃合いだ。
 次にあの星を見上げる頃には、旅の話を聞かせてもらえるだろうか。ならばカラヤも、語り合うための話題を用意しておかねばなるまい。そんなことを考えながら、カラヤはふと笑い、己の選んだ郷へと歩き始めるのだった。

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