鳴き沙のアルフェッカ


第五章 交戦 -1-

 カラヤが政務と裁きの家トンコナン・ラュクへ戻ると、中ではムハイヤラ、ミスマール、それにジャッドが、机に広げた地図を前に腕を組み、眉間に皺を寄せていた。
「ああ、カラヤ。戻ったのか」
 ムハイヤラの言葉にカラヤがひとつ頷けば、傍らに立つジャッドは、カラヤの背後に立つ、頭からすっぽりと布をかぶった人影を見て首を傾げる。「その方は?」と問われ、カラヤはただ、「客人だ」とそう告げた。
「ミスマール、しばらく警備隊の方で、彼女を守ってくれないか」
 聞いて、ミスマールが訝しげにこう応じる。
「ご用命にお答えしたいのは山々ですが、……実は、カラヤ様。ダフシャの御客人方が、今回の祭の警備体制について色々と口を出してきまして。人数やら割り振りやら、てんで滅茶苦茶な要求をしてくるので、今はあまり、他のことに人を割けないのです。ですから、……」
「それでも、彼女を守って欲しい。その価値のある人だ。俺がこれからしようとしていることで、不利な立場に立たされたとしても、彼女は生き証人になってくれる」
 相手方に見られてはまずいからと、布をかぶせて連れてきた。しかしカラヤがひとつ頷くと、彼女は何かを決意したように、その細い腕で布を脱ぎ捨てて、
 じっと挑むように、目の前の人々を睨めつけた。
 彼女のその風貌に、皆も思うところがあったのだろう。視線で問われたのを見て、カラヤはまず、「イスタバルの妹だそうです」と簡潔に告げた。それからふと気づき、「名前は」と彼女に問う。
「——、必然ヴィラ
 ヴィラ。美しい名だと思った。しかしその考えはおくびにも出さず、カラヤはムハイヤラに向き直ると、「俺はこのくにの人間です」と、一言一言、噛みしめるようにそう言った。
「イフティラームの人間の血を継いでいなくても、首長様の実の子ではなくても、俺を育んでくれたこの郷の人間として生きたいと思っています」
 「突然、何を、——」カラヤの言葉に、ただならぬものを感じたのであろう。口を挟もうとしたジャッドを手で制し、ムハイヤラは穏やかな声音で、「続けなさい」とそう言った。
「ありがとうございます。……その前にひとつ、うかがいたいのですが。もしかするとダフシャの客人方は、今回の祭主の付き人にも、俺を指名しているのではありませんか?」
 すぐに応えはなかったが、ジャッドとミスマールが顔を見合わせたことから察するに、恐らくそのとおりなのであろう。カラヤはまた頷くと、「それでは、」と厳かな声でこう言った。
「指名された通りにして下さい。ただし、ダフシャの言うとおりに人を配備するのではなく、……俺に、この郷の戦士つわもの達を預からせていただけないでしょうか」
 
 月の細い夜であった。こんな夜は、その分、星がよく見える。カラヤは一人櫂を漕ぎ、帆を操って船を波の流れに乗せると、頭上の星空を振り仰いだ。
 満天の星。その中に彼を導く春の星座を見つければ、ほんの少し、緊張に胸が高鳴った。一年前、イスタバルもこんな気持でいたのだろうか。誰にも己の思いを告げず、何も知らない脳天気なカラヤと共に船を漕ぎ、——己の運命とも、宿願とも言えぬそれと一人戦うことを決めた彼の心情は、いかなるものであったろう。カラヤにはそれを想像することしかできないが、けれど今、己の敵に刃を向けにいかんとするカラヤの心は、不安に翳る一方で、高揚に打ち震えてもいた。
「空ばかり見て、この船、進路は大丈夫なの?」
 祭主の衣装を身に纏い、船尾に腰掛けた少女——ヴィラにそう問われ、カラヤは思わず苦笑した。
「心配するなよ。イフティラームの男はみんな船乗りだ」
「ちゃんと着くなら、それでいいけど」
 不満げな声でそう言って、ヴィラが船の両端にしがみつく。そうでもしていなければ、波に揺れるこの小舟で、うまく重心をとることができなかったのだろう。聞けばカラヤのひとつ年下であるらしいこの少女は、とてもそうとは思えないほど、ほっそりと痩せこけている。
「お前がついてくる必要はなかったのに。……危険な目に、合わせるかもしれないし」
「祭主の替え玉なんて、別に誰だっていいでしょう。誰がついてきたって、危険なのは一緒なのだし。それにこんな衣装、歩きにくくて仕方ないもの。戦士に着せるものじゃない。今晩は一人でも多く戦える人間が必要なんだから、こういう役は、私でいいのよ」
「……イスタバルは、その衣装のまま戦ったそうだけど」
「知ってるわ。一年前、私はその場で見ていたんだもの。けどこんなものを着てさえいなければ、もう二人は多く、騒海ラースの民を討ち取っていたはずよ」
 物怖じしないその態度が、今のカラヤにはありがたい。しかし目的の場所が眼前に迫っていることに気づくと、カラヤはそっと、腰に帯びた青銅の剣と、服のうちに差し入れた、彼の手紙とに手を触れた。
——いつかあんたが首長様の座を継ぐ時、縒り芦の冠をかぶったあんたの隣に、俺も、イフティラームの戦士として立てたらいいな。
 物怖じしてなどいられない。
 この先の道は、堂々と歩まねばならぬ。
 祭壇のある島へ、あの祭の日にはついぞ訪れることのなかったその島へ、カラヤは足を踏み入れた。既に到着していた神官達が、皆、自らの胸の前で拳を突き合わせ、カラヤに戦士の礼をとる。カラヤはそれに無言のままで頷いて、ヴィラと二人、炎を燃すべく作られた祭壇へと足を向けた。
 前方を遠く眺めれば、イフティラームの浜の灯りがちらほらと、風に揺られて見えている。そうして後方に、——大海原から再び押し寄せんとするその気配に耳を傾け、カラヤは深く息を吸う。
「美しいイフティラームの郷が、我々の崇高なる祭の日が、今日再び、外海の敵の手により踏みにじられようとしている」
 低い声で、しかし腹の内から決意を滲ませ、人々に向け、そう告げた。
「昨年は、郷の勇者がそれを退けた。だが我々の美しい浜は、虎視眈々とその恵みを狙う者達に今も脅かされている。——全員、己の剣をとれ! 岩窟墓ロコ・マタの英魂達に、恥じぬ武勲を見せつけろ!」

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