鳴き沙のアルフェッカ


第四章 乞食の皿 -2-

「イスタバル、……?」
 自分でも気づかぬうちに、カラヤはそう問いかけていた。だが、あるはずのないことだ。
 事件の現場を見たわけでないとはいえ、カラヤはその目でしっかりと、イスタバルの遺体を目にしていたのだ。海の祭壇から引き上げられた彼の身体は凍てつくように冷え切って、胸にも背にも、数え切れないほど無数の傷を追っていた。何よりその首は、とどめを刺すためにそうされたのであろう、半ばまで、断ち切られてさえいたというのに、——。
 ふらりとその場に立ち上がり、思わず、目の前のその首に手を伸ばす。それでも彼女は身じろぎもせず、じっとカラヤを睨めつけていた。
 そう、そこに立っていたのは、見知らぬ一人の少女であった。
 よくよく見れば、まだ幼い。背丈はカラヤより随分と低く、伸びた髪は手入れもされず、無造作に背に垂らされている。郷の娘達のように紅を入れていない目許は痩せて幾らか落ち窪んでいたが、しかし、懐かしさがあった。
 その姿にカラヤが見入っていると、彼女はぽつりと呟いた。
「あんたさえいなければ、イスタバルは、この郷を見捨てることができたの?」
 少女にしては低い声。低い、——怒気の篭った声。
 彼女がナイフを振りかぶるより一瞬早く、カラヤは咄嗟に、大きく後ろへ下がっていた。すんでのところで躱したが、一歩遅れていたなら確実に、カラヤはこの少女に胸を突かれていただろう。服の内に刃を隠し持っていたのだろうか。しかしカラヤがそれを問うより早く、彼女は細いナイフを握りなおし、またカラヤに振りかぶる。
「こうやって殺してしまえばそれで済んだのに、あいつらが、余計なことばかりするから」
 鯨骨のナイフを構え、少女の刃を受け、弾く。すると彼女は軽々と、カラヤが弾いたその方向に、足をもたれさせ倒れ込んだ。この細腕で、たいした力があるはずもない。隙を突いた初撃で仕留められなかった以上、彼女がカラヤに力で勝つことなど、土台無理な話である。
「一体、何者なんだ」
 カラヤがそう尋ねても、少女は何も答えない。しかしふと、彼女が顔を上げたのを見て、カラヤは小さく息を呑んだ。
 別人だ。わかっている。だが、それでもそこに、——よく見知った友の面影を、思わずにはいられない。
「イスタバルの、……妹か、何かか」
 妹がいるなどと、そんな話は聞いたこともない。だが振り乱した髪の色も、こちらを睨みつけるその顔も、見れば見るほど、まさか他人とは思えない。その上、彼女の左腕には、見覚えのある傷跡があった。
 肩口から手の甲までを、いびつに割いた傷跡が。
「その傷、」
 呟くようにカラヤが言えば、その時ばかりは彼女も己の傷跡に触れ、「ああ、これ?」と笑ってみせた。
「馬鹿馬鹿しいわよね。騒海ラースの民の連中がつけた印よ。陸地の人間を領海に踏み込ませる時の、しきたりだとか言ってたけど、どこまで本当なんだか。炙ったナイフで一筋ずつ、この浜を追われた恨みを思い返しながら、復讐を誓って刻むんですって。こっちからしたら、八つ当たりでしかないけど」
「……騒海ラースの民?」
 イスタバルに腕の傷のことを問うた時、彼は苦笑して、炙ったナイフで裂かれたのだとそう言った。彼が奴隷であった頃、その主人にされたのだと。だが。
「お前、一体何を知ってる」
 ようやく立ち上がったその少女を見て、しかしナイフは収めぬまま、カラヤは短くそう問うた。彼女はそれに答えない。しかし船の縁にぶつけたのだろう、細い腕をさすってから、岩場の先を指差した。
「早く行ったほうがいいわよ。知り合いの墓を、荒らされたくないのなら。——ふふ、馬鹿よね。あんた達が埋葬した墓を暴いたところで、何も出てくるわけがないのに。あいつらも必死なんだわ」
 丁度その時、岩場の向こうから、何か崩れる音がした。がらがらと鳴るのは、土塊が砕かれた音であろうか。しかし小舟の上からでは、向こうの様子がわからない。
 そうこうするうちに、少女はカラヤに背を向け、ぽつりと逆にこう問うた。
「それともあんたは、『アルフェッカのホウセキ』の場所を知らされてるの?」
 乞食の皿アルフェッカ
 更に何かの崩れる音がして、カラヤは迷わず船を降りると、岩場の方を駆け上がった。少女を捕らえておくべきか、不穏な音のする岩窟墓ロコ・マタへ向かうべきか、それは咄嗟の判断であった。しかしカラヤは少女を捕らえず、慣れた岩場を登りきる。そうして、隠れ浜で岸壁に鍬を突き立てる人々に向けて声を荒げた。
「お前達、そこで一体何をしている!」
 すっかり夜は明けていたのに、それでも一瞬、カラヤの視界に雷が走る。鋤を掲げる男達が、怯えた様子でカラヤを見た。先ほど船から降りた、髭面の男達だけではない。いつの間に合流したのやら、そこに数人の男が集っていた。雷鳴が轟く。男達の手元があらわになる。それを見て、カラヤの忿怒は極地に達した。
 岸壁に掘られた墓穴から、彼らが引きずり出そうとしているのが、——誰の骸か、理解したからだ。
「ここがどこだか、わかっているのか?」
 高い岸壁に囲まれたこの浜に、カラヤの声は何倍にも増し響き渡る。同時にまた、ひとつ大きな轟きが落ちた。
「ここは、……この岩窟墓ロコ・マタは郷の、イフティラームの誇り高い戦士の魂が眠る場所だ。お前らのような輩が、踏み入っていい場所じゃない。去れ! ——この場から、一人残らず即刻立ち去れ!」
 雷の力もあってのことだろう、竦み上がった男達が、我先にと浜の向こうへ逃げていく。その先の森に猛毒を持った蛇がいることなど、地元の者なら誰でも承知していることではあったが、カラヤは黙って、彼らが去るのを見送った。無様な動きだ。あの人数なら、カラヤ一人で打ち負かして、全て捕らえることもできたかもしれない。
 しかしカラヤはそうしなかった。そこに幾人か、昨晩、ダフシャとの会食の前後で見た顔が紛れていることに気づいていたからだ。
——馬鹿よね。あんた達が埋葬した墓を暴いたところで、何も出てくるわけがないのに。あいつらも必死なんだわ。
——奴らは周到に、何年も前からこの郷に内通者を潜り込ませていたというではないか。
——歴代の戦士が眠る岩窟墓ロコ・マタに、その男の墓すら彫ったらしいな。何故そのようなことができる! まさかおまえも、騒海ラースの民と通じているのではあるまいな。
——状況証拠は揃っている。その男が、騒海ラースの民の手引をしたに決まっているだろう。
 怒りに息が上がっていたが、しかし彼らの姿が見えなくなる頃には、カラヤの思考も定まっていた。
 ああ、そういうことなのか、と、その時すとんとカラヤの腹に、何某かの納得が落ちた。
「気づいてたの? ——騒海ラースの民の襲撃に、ダフシャの奴らが絡んでいたこと」
 背後から、恐る恐る問いかける少女の声がある。カラヤは振り返らなかった。己の顔に貼り付いたこの怒りの矛先を、向けてしまいそうだったからだ。
「いいや。……間抜けなことに、今、初めて、その可能性に思い至ったよ」
 怒り。一体何に対しての怒りだというのだろう。死者を冒涜されたことに対してか。それとも、それらを操る卑劣な陰謀に対して。何も言わずに死んでいった、友に対して。あるいは、
 不甲斐ない己に対してか。
 怒りのあまり、かえって力が抜けてしまった。ふらりとなにやらおぼつかないまま、岩場を降り、隠れ浜へと踏み込んだ。以前は毎日のように訪れ、イスタバルとともに、鍛錬を積んだ場所。イスタバルの葬儀を終えてこの一年、何度も足を向けかけては、引き返すことを続けていた。けれど。
——あの星座を見ると、俺はこの隠れ浜を思い出すよ。なんとなく、入り江の形と似てるだろ?
 この一年、考えても考えても埋まらなかった疑念の鍵が、開いていくような予感があった。ふと見れば、先程の男達がこじ開けた岸壁の穴から、知った色の髪がこぼれ出て、陽の光に晒されている。カラヤはいまだ呆然としたまま、ただ静かにその髪を撫で、ぽつりぽつりと、呟いた。
「やっと知れるのか」
——冠座ゲンマ? 初めて聞いた。
——ああ、そっか。イフティラームではそう呼ばないもんな。ほら、あれだよ。『乞食の皿アルフェッカ』。半円を描く七星と、細かな星を繋げてみると、頭にかぶる冠みたいだろ? 三番目の星は特に輝いて、まるで冠を飾る宝石だ。
「お前が何をしようとしたのか、一体何を隠していたのか、どうして死ななきゃならなかったのか、——俺はようやく知れるのか」
 「イスタバルは、……」毒気を抜かれた様子でカラヤの傍らに立つ少女が、躊躇いがちにそう言った。「兄さんは、最後、私にこう言ったわ。アルフェッカのホウセキを掘り出してくれ、って」

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