鳴き沙のアルフェッカ


第四章 乞食の皿 -1-

——皆さんの仰るとおり、あの男と一番多く行動を共にしていたのは俺です。あの男が一体何をしようとしていたのか、……突き止めるのは、自分の役目だと思っています。
 カラヤがそう告げたことで、ダフシャから来た使者達も、一旦は矛を収めてくれたらしかった。会食を終え、ようやく解放されたカラヤは、気遣わしげに彼を見るジャッドやムハイヤラの同行を断り、慣れた浜辺を一人ふらふらと歩いていた。
——あんたにはどんなに謝っても謝り足りないけど、それでもいつか、……あんたが首長様の座を継ぐ時、その隣に俺も、イフティラームの戦士として立てたらいいなって、この期に及んで俺はまだ、そんなことを考えてるよ、カラヤ。
 カラヤを裏切り、毒を用いてまで、イスタバルは祭主の座を勝ち取った。「この先へは連れていけない」と、彼はカラヤにそうも言った。
騒海ラースの民があの祭の日にやってくることを、イスタバルは知っていたんだろう。そしてその場へ自分一人で赴くために、俺に毒を盛った。そう考えれば辻褄が合う。けど、……)
 ならば何故。そう己に問いかける度、カラヤの胸のうちには今も、燻り続ける疑念の影が揺らめいた。騒海ラースの民の襲撃を知っていたなら、何故それを、くにの誰にも告げなかったのだ。イスタバルがそれを告げていたなら、いくらだって対応策を講じることができたはずだ。カラヤだって、共に戦うことができたはずだ。
 言えない事情があったのか。ならばそれは、一体どんな事情であったのか。
(俺にすら、どうして最後まで黙ってた)
——あんたの言う通り、二人揃って、俺達はこの郷の人間なんだって言って胸を張ろう。そうしたら俺も本当に、この郷の人間に、なれるような気がしてきた。
——奴らは周到に、何年も前からこの郷に内通者を潜り込ませていたというではないか。お前達はそれに気づきもせずに、その内通者を、昨年の祭主に任命した。
——そうやってあんたはいつも、俺が異郷の奴隷のままでいることを許さない。
——状況証拠は揃っている。その男が、騒海ラースの民の手引をしたに決まっているだろう。
——他にどんなことでもするから、どうか置いて行かないでくれって頼んでも、奴ら、聞いてくれやしなかったんだ。
「イスタバルは、騒海ラースの民と繋がっていた。騒海ラースの民が、イフティラームに攻め入るための手引をした……。イスタバルはずっと、この郷を裏切っていた。裏切り続けていた。だから誰にも、本当のことを告げられなかった」
 呟いた。ダフシャの使者達の言う通り、そう考えれば合点がいく。だがそれなら、彼は何故、命をなげうってまで騒海ラースの民と対峙したのだ。祭壇にはイスタバルの他に数名、絶命した騒海ラースの民の遺体が残っていたと聞く。イスタバルの決死の行動は、芝居のたぐいではなかったはずだ。
 一年間、同じことを考え続けた。しかしいつだって堂々巡りをするばかりで、一向に答えは得られない。何か残っていやしないかと、イスタバルが使っていた小屋を訪れ、遺品をかき集めても、海の祭壇に足を運んでも、何の手がかりも掴めなかった。郷の人間一人一人に声をかけ、その日のことを訪ねても、決定的なことを知る者は、誰一人としていなかったのだ。
 カラヤの足は自然と、隠れ浜へと向いていた。明け方も近い夜更けの海に人影はなく、春雷は既に遠のき始めていた。それでも光は空を走り、まだ時たま、果ての海へと降り注ぐ。
 空を見上げる。星は見えない。雷雲の垂れ込める先には今日も乞食の皿アルフェッカが、——ゲンマが輝いているのだろうか。
——いつかあんたが首長様の座を継ぐ時、縒り芦の冠をかぶったあんたの隣に、俺も、イフティラームの戦士として立てたらいいな。
「何が、冠だ」
 吐き捨てるようにそう言った。
 騒海ラースの民と戦い、郷に異変を報せたイスタバルを、イフティラームの人々は英魂として迎え入れた。ダフシャの使者達のようにその処遇に疑問を唱える者もあったが、それでも彼の遺体はイフティラームの勇敢な戦士として祀られ、歴代の戦士が眠る岩窟墓ロコ・マタに葬られた。
 彼はイフティラームの戦士になったのだ。けれど、カラヤの隣にはいない。
ゲンマ、……乞食の皿アルフェッカ
 カラヤにとってあの星は、やはり乞食の皿であった。欠けた皿。大切なものを取りこぼす、役立たずの器の星、——。
 またひとつ、激しい雷鳴が轟いた。
 眩い光が視界を灼く。真っ白なその光は、瞬時あたりを照らし出し、岩陰に何者かの影を映し出す。ぼんやりと立つカラヤの影。そしてその側にもうひとつ、——それを支えるように立つ、在るはずのない人間の影を。
 何やら背筋が粟立った。そんなわけがない。頭ではそう理解していた。恐らく岩かなにかの影が、雷光の走ったその瞬間、人影に見えただけのことであろう。それなのに愚かしい期待の熱が、カラヤにその場から去ることを許さない。
 雷鳴が轟く。光が降る。カラヤの隣にはやはり、ひとつの影が見えていた。得体の知れないその影が、まるで意思を持つ者かのように身じろぎする。
 手を伸ばす。そこに影の主はいない。
 しかし。
 光源を振り返り、カラヤは小さく息を呑んだ。雷を背にこちらへ向かってくる何者か——見覚えのない船の存在に気づいたのである。
 それは一艘の小舟であった。カラヤのいる所からでは、漕手の顔は見えないが、模様のないその舳先を見るに、イフティラームの船ではない。
 先程見たのは、この船の影であったのだろうか。そんなことを考えながら、カラヤは咄嗟に、岩場の影へ身を滑り込ませた。春雷の日、それも、まだ太陽も顔を出さぬような未明に訪れた客である。警戒するに越したことはないだろう。
 漁のために持ち歩いている鯨骨のナイフに手を添わせ、息を潜めて、岩陰から様子をうかがった。小舟はカラヤの存在に気づいた様子もなく、岩場に船を隠すように、そっと浜へと乗り上げる。船から二人、髭面の男が降りてきた。小舟に向けて何か話しかけているようだが、内容までは聞き取れない。気配を殺し、じわりじわりと近づけば、男達は大股に岩場を登り始める。
(……、隠れ浜へ向かうつもりか?)
 岩場に沿うようにして進んでいくと、小舟の様子が確認できた。積荷もない、粗末な船だ。しかしその中にひとつ、小柄な人影が座り込んでいる。
 留守番だろうか。頭からすっぽりと布をかぶったその人影は、去っていった男達を見送るでもなく、ただ肩を丸めてそこにいた。事情を聞き出すのなら、先程の男達を締め上げるより、こちらのほうが手っ取り早く済むだろう。
 息を潜めて歩み寄る。そうして身軽に小舟へ飛び乗ると、カラヤは座り込む人影の背後を取り、瞬時に、その首元へ手にしたナイフを突きつけた。
「俺はイフティラームのカラヤ。——お前達は何者だ」
 押し殺した声でそう問えば、相手は声もなく肩を震わせた。思った以上に肩幅が狭い。子供か、もしくは女だろうか。しかしそこまで考えてから、カラヤははっと息を呑む。その人物は両手足を荒縄で縛られ、小舟にその身を拘束されていたのだ。
 暗闇ではじめはわからなかったが、どうやら目隠しもされている。あまりにきつく縛られているせいであろう、その指先から血の気が引いているのを見て、カラヤは咄嗟にロープへ己のナイフをあてた。何者かは知れないが、こんな風に捕らわれて、きっと恐ろしい思いをしたことだろう。まずは腕を縛っていたロープを、次に足を縛っていたロープを断ち切れば、この人物は騒ぎ立てることもなく、しかし礼を言うでもなく、口に含まれていた布を除き、目許を覆っていた目隠しを剥ぎ取った。
「カラヤ、……あんたがカラヤなの?」
 ひび割れた唇が、乾いた声で聞き返す。その時ふと、明け方の太陽が、細く水平線に顔を出した。
 薄ぼんやりとした陽の光が、イフティラームの浜を照らし出していた。よろりと立ち上がったその人物の足元に、頭からかぶっていた布が落ちる。その姿を見て、カラヤは思わず、絶句した。
 汚れたシャツを纏ったその人は、ただ黙してカラヤのことを見つめていた。伸びた手足はひょろりと細く、傷だらけだが、瞳には不思議と生命力が溢れている。しかしカラヤを驚かせたのは、その瞳の強さではない。忘れもしない、——明け方の陽のような、明るい色の髪であった。

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