鳴き沙のアルフェッカ


第三章 海神祭 -4-

 その年の海神祭も、例年と同じように太陽が西の山に沈み、陽が完全に落ちた時分に始まった。
 祭主であるイスタバルとは違い、カラヤの準備は簡単に済む。手早く着替えを済ませると、彼はイスタバルと二人で帆のついた小舟に乗り、膜鳴打楽器クンダンの音が響く中、静かな海に漕ぎ出でた。
 見上げるこの春の空には、数日前と同じ、あの星座が輝いている。
乞食の皿アルフェッカ、……」
 カラヤがぽつりと呟くと、イスタバルはすっと背筋を伸ばし、「その話、他の誰かにしたか?」と何気ない口調でそう問うた。
「星座の話か? 別に、誰にも言ってないけど」
「そうか。……なあ、ところで、俺とあんたがいつから友達になったのか、覚えてるか?」
 イスタバルが唐突にそんなことを問うたので、カラヤは首を傾げ、眉間に皺を寄せた。イスタバルが浜に流れ着いた後、所在なげに施しを受けるこの少年の回復を、今か今かと待ちわびて、声をかけたことは覚えていた。だがいつから、と問われると、如何とも返答に困ってしまう。「いつだっけ?」と問い返せば、イスタバルは小さく吹き出した。
「初めからだよ。あんた、俺がまともに歩けるようになるとすぐさま、容赦なくあちこち連れ回してさ。どこへ行っても俺のこと、自分の友達だって紹介するもんだから、俺はいつの間にか、カラヤ様の友達ってことになってた」
「そうだったか?」
「そうさ。俺はよく覚えてる。ここ数日、あの頃のことばっかり思い出してたしな。あんたに無理やり、銛打ちに駆り出された時のこととか」
「ああ。あれはお前、怖がって半べそかいてたよな。今じゃ信じられないけど」
「初心者をいきなり、ウダイザメの漁に連れて行くやつがあるかよ。下手したら食われてたぞ」
「お前だって、季節の早いクダの実を取ろうとして、蜂の巣を落としたりしただろ。真っ黒にたかった蜂の群れに追われて、あの時は死ぬかと思った」
「見たことない模様の蛇を見つけて、どっちが討ち取るかって大喧嘩したこともあった」
「それは俺も覚えてる。結局、森の長かもしれないから逃してやれって、ミスマールに諭されたんだよな」
 言ってカラヤがにやりと笑えば、イスタバルも同じように笑い、小さく、「楽しかったよな」と呟いた。そうしてから一度櫂を持ち上げ、目をすがめてみせる。
「ああ、ほら、その岩場だ」
 座礁しないよう細心の注意をはらいながら、そろりそろりと船を岩場へ寄せていく。カラヤがひょいと岩場へ降りれば、てっきりそれに続くのだろうと思っていたイスタバルは船に立ったまま、じっと、岸辺の方を眺めていた。
「あの日、俺がここに取り残されたのも夜のことだった。嵐になる直前で、あの時は郷の姿なんか、ここからじゃちっとも見えなかったけどな。他にどんなことでもするから、どうか置いて行かないでくれって頼んでも、奴ら、聞いてくれやしなかったんだ」
 イスタバルがぽつりというのを聞き、カラヤは眉間に皺を寄せた。
 取り残されたと、今、そう言っただろうか。流れ着いたのではなく、ここに何者かの手で、取り残されたのだと。
「イスタバル、……」
 なぜだか背筋が粟立った。カラヤのよく知る友人は、これまで、——こんなふうに思い詰めた顔を、カラヤに見せたことがあっただろうか。
「嵐の間、必死にこの岩場にしがみついて生き延びた。今日みたいに凪いだ日なら、ここからでも郷の灯りが見えるけど、あの一夜は地獄みたいだったんだ。それでも、こんなところで死んでたまるかって、そればっかり考えてた。だって俺は、帰らなきゃいけなかったんだから……。
 嵐が過ぎて地平線から太陽の光がさした時には、陸地が見えたことに涙が出たよ。郷に流れ着いてからは、驚くことでいっぱいだった。俺はただ、生き延びたってだけのことが嬉しくて、あんなに涙が出たのに、あの郷の人達は、俺に生きる方法や、理由も教えてくれたんだ」
 イスタバルはそう言って、ふと、カラヤが船に残していた櫂を持ち上げ、それをカラヤに差し出した。受け取れと言うことだろうか。先程から、ちっとも話の流れが読めない。カラヤは眉間の皺を深くして、しかし櫂を受け取ろうと、イスタバルに左手を差し出し、——
 掌を深々と薙いだその痛みに、思わず小さく呻き声を上げた。
「悪いけど、この先へは連れていけないんだ」
 状況が理解できぬまま、咄嗟に己の左掌を見る。船に火は灯していなかったが、月明かりのおかげで、手元は十分確認することができた。そうしてようやく気づいたのだ。イスタバルが手にしたその短剣で、カラヤの掌を切りつけたのだということに。
「なんで、……」
 思わずそう呟いたが、しかし、言葉が続かない。何やら急に目眩がした。立っていられずに、どしりと岩場に座り込む。イスタバルはそれを見るや、カラヤの櫂を岩場に放り、「レムラァの痺れ薬だ」とぽつり、言った。
「ダフシャの使者が余計なことを言い出さなければ、今日は使わずに済むはずだったんだけど。後遺症は出ないって聞いてる。昨日は飲水に少し混ぜただけだったけど、やっぱり、傷口から入ったほうがよく効くみたいだな」
「……、昨日?」
 震えのある口元で、しかしそれでも問い返す。前夜祭の日、——痺れ薬。決勝戦で勝敗を分かったのは、カラヤの腕に出た痺れだった。
「いつか、……」
 己の櫂を操って船を岩場から引き離しながら、イスタバルは、ぽつりぽつりとこう言った。
「あんたにはどんなに謝っても謝り足りないけど、それでもいつか、……あんたが首長様の座を継ぐ時、その隣に俺も、イフティラームの戦士として立てたらいいなって、この期に及んで俺はまだ、そんなことを考えてるよ、カラヤ」
 イスタバルの船が離れていく。引き止めなければと思うのに、身体に力が入らない。立ち上がることもできなければ、声を上げることもできなかった。イスタバル、何故、一体何が起こっているんだと、そう幾度も問うたのに、カラヤの問は何ひとつとして音にはならなかったのだ。
「思うようには、いかないかもしれないけど。……罰なんか当たるもんか。俺は俺のやり方で、イフティラームの海神に、認めてもらいに行くんだから」
 イスタバルの言葉が聞こえた気がしたが、定かなことではない。カラヤの視覚も聴覚も、奇妙なまどろみの中に落ちていた。
 波の音すら聞こえなくなった。
 イスタバルの船が見えなくなる頃には、カラヤはそこに横たわったまま、意識を失っていた。
 
 カラヤはその夜、何が起きたのかを、己の目では見ていない。全てはカラヤの意識が閉ざされたのちに起こり、彼が明け方の光で目を覚ますまでに、既に幕を下ろしていたのだ。
 ここから先のことは全て、祭壇でカラヤ達の到着を待っていた神官から聞いた話である。たった一人で祭壇のある小さな島へと漕ぎ入れたイスタバルは、カラヤの姿がないことについて問われても、何も答えようとはしなかったという。だが不審がった神官達がイスタバルを問い詰めるより早く、何者かが、続いて祭壇に乗り入れた。
 それが、遠い海から来た騒海ラースの民達であった。
 祭の日、イフティラームの沖にはいくつか、郷の戦士らが乗った船を出していた。だが騒海ラースの民達は、まるでその位置を把握していたかのように、見張りの船の目をかいくぐり、十数名で祭壇に訪れたのだと聞いている。
 イスタバルは神官達へ逃げるようにと声をかけ、一人、騒海ラースの民に向かっていった。
 だがここからが、曖昧なのである。
 混乱の中で神官達は、慌てふためき船に乗った。イスタバルにも船に乗るようにと何度も言ったが、聞き入れなかったと語る者もいれば、イスタバルは自ら騒海ラースの民に語りかけており、まるで古くからの知り合いのようだったと話す者もいる。
騒海ラースの民の船を壊せと、帆を破ってから別の船で逃げろと、そう言われました」
 一人が、カラヤにそう語った。まるでその事態を見越していたかのような、的確な判断であったのだと。
 神官達は無事に逃げおおせ、一人祭壇に残ったイスタバルは、本来祭事に使うはずであった火を用いて、陸地に急の異変を報せた。陸地の戦士らはすぐさま船を出したが、それを察した騒海ラースの民の生き残りは、残った船で方々へ逃げたと聞いている。
 カラヤが目を覚ました時、全ては既に終わっていた。そうとは知らぬカラヤは、痺れの残る手足で、しかしやっとのことで郷に泳ぎ着き、——
 ちょうど祭壇から引き上げられてきた、イスタバルの遺体と、対面したのである。

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