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 乗合馬車を降り、慣れた町中をふらふらと歩く。
 季節は夏。からりとした空気が、照りつける陽の光を容赦なく素通りさせるのを肌で感じながら、シモンは帽子を目深に被り直した。視界が狭まるのと同時に、ほんの少し、心が緩む。だが、まだ人の往来のあるこの場所で、気を抜くわけにはいかなかった。あんなにも悔しい思いをしたのを、必死に取り繕ってここまで来たのだ。ここで気を抜いてはいけない。演じきるのだ。悔しさなど微塵も感じさせない、――堂々たる帰還を、演じきってみせようではないか。
 何気ない足取りでガリラヤ劇団の劇場前を迂回し、遠回りをして自宅への道を急ぎ歩く。そうして自宅の扉を開き、中に誰の気配もない様子であるのを確認すると、
 シモンは大きな溜息を吐き、ずるずるとその場に座り込んだ。
「ああーーーーーーーーー」
 堪えていた声が音になる。胸の内にわだかまっていた悔しさが、塊となって流れ出す。
「ほんと、嘘だろ、もうあのあいつらどこに目ぇ付けてんだよ信じらんねえ」
 両手で顔を覆い隠し、自分自身でも何を口走っているやら理解せぬまま、靴も脱がず駄々をこねる子供のように、その場にごろりと横たわる。じわりと目許に涙が浮かんだのを感じて、シモンは一度、強く奥歯を噛みしめた。流石にこれ以上、醜態を晒すわけにはいかない。ほんの一瞬そう思ったのだ。しかし、
(醜態? 誰に? 誰も居ないのに?)
 そう考えれば、眉間に深く皺が寄る。ぽろりと大粒の涙が目尻に流れ、耳を掠った。緩んできた鼻を、音を立てて啜る。外では堪えていた全ての感情が、シモンの表面に浮かび上がる。
「くやしい」
「なにが?」
 突然聞こえた返答に、ぎくりとシモンの肩が揺れる。だがシモンの中の辛うじて冷静な部分は、それが誰の声であるかを瞬時に判断した。
 イサクだ。しかし家の中には誰も居ないと思っていたのに、何故。
 反射的に腹筋の全力を用いて起き上がり、浮かんだ涙を袖で拭く。ちらと視線を上げれば、仕事用のナイフを手にしたままの兄が、梯子のかかった二階から心配そうにこちらを見下ろしているのが見てとれた。
「お前、なんっ……なんでそこに」
「なんでって、仕事を」
「出かけたと思ったのに! いないと思ったのに! もっと存在感出して仕事しろよ頼むから!」
「ええ……」
 曖昧な声をあげ、イサクが階を降りてくる。やめろ、馬鹿、今は来るな、良いから黙って放っておけ。そう思うのに、言葉に出しては言えやしない。そんなことを言ったところで、このお人好しの兄は、余計に心配をしてシモンに構ってくるだけなのだから。
「ええと、……今日は隣町の劇団の、オーディションの日だって言ってたよな。どうだった?」
 控えめに、言葉を選んでイサクが問う。それを聞いてシモンは深く溜息を吐くと、念のためもう一度、袖で目許を拭いさる。
 泣き顔など、見られてたまるものか。
「……、役はもらえた」
「へえ、凄いじゃないか。何の役になったの?」
「王様」
「王様かあ。最近大分、男役ももらえるようになってきたね」
 ガリラヤ劇団団長であるシュムリの提案を受け、慣れ親しんだ劇場での活動を一旦休止し、あえて外部の劇団での仕事を受け始めたのが、既に半年ほど前のこと。元々女優としてこの界隈で人気を博していたシモンの評判を受け、女優の仕事は引く手あまたにあったのだが、一方で男優の仕事となると、なかなかオファーがないのが現状である。それでこうして、オーディションがあると聞けばすぐさま向かい、どうにかこうにか役を勝ち取る日々を送っているのである。
 しかし。
「違う、俺は戦神の役がやりたかったんだ」
 溜息混じりにシモンが言うのを聞きながら、イサクが棚からリンゴを取り出し、それをシモンの前に置く。シモンはそれを片手で掴むと、がぶりとそのまま噛みついた。
「戦神? 珍しく、随分と猛々しい役をやりたかったんだな」
 意外そうな表情で問われたのを聞き、シモンは大きく頷いた。戦神。そうだ、その響きだけを聞いたのならば、イサクが言うように『猛々しい』役のようかのように受け取れるだろう。だが。
「そうじゃないんだ、あの圧倒的武力で敵を蹴散らし己の主張をまっすぐに貫きながらも女性的包容力を兼ね揃えたあの役は……あの役は猛々しいとかそういうのじゃないんだ、もっと繊細なものなんだ……」
 「そうなんだ?」と、頓着しないイサクの声。この兄に演劇について何を語ったところで、答えは大抵こんなものだ。シモンにしても、別段専門的な見解を求めているわけではないので、それは適当に聞き流す。
 ある王国に降り立った二柱の神、戦神と司法神。当初は協力関係にあったこの二神はいずれ反目するようになり、最終的に戦神は、司法神に呪いの言葉を残し、裁かれる。今回の台本を一読したときから、シモンは、何が何でもこの戦神を演じたいと思っていた。
 戦神は自国を守るために他国にこそその武を見せつけるが、己を裁こうとする人々を前に手を上げることは一切しない。この神はただその言葉によってのみ、人々に問いを与えるのだ。
 その圧倒的な武と理知的な気高さを演じてみたかった。オーディションを控え、稽古を重ねるにつれ見えてきたものもあり、この役を演じきれるのは自分しかいないとさえ感じられていたというのに。
「大体、王様って……、俺オーディション受けてないし……なんで王様のオーディション受けた人達じゃなくて、戦神のオーディション受けた俺が受かったの」
「うーん、きっとシモンならできる! って思ってくれた人がいたんだよ」
「台詞も少ないんだ、全編の台詞数が百六文のところ、十三文しかないんだ」
「……、それ、わざわざ数えたの?」
 呆れた様子でイサクが笑う。そうして彼は続けて、何気ない口調で、こんな事をシモンに言った。
「でも演技って、台詞がなきゃできないものじゃないだろ?」
 その言葉が、何故だかさくりと、シモンの心に刺さり込む。
「当たり前だろ」
 咄嗟に言えば、「そうだよね」とイサクも頷く。「前に言ってたじゃないか。演技をするときは、息づかいから視線の配り方まで、全てに於いてその役になりきらなきゃならないんだって。シモンならきっと台詞が少なくたって、王様を演じきれるよ」
 いつも適当な返事しかしないくせに、そういう事は覚えているのか。
 イサクの言うことはもっともだったが、素直に認めるのも癪である。「下手くそのくせに」 口を尖らせてシモンが言えば、イサクはちっとも気にする素振りを見せず、穏やかにこう言葉を続ける。
「確かに俺は演技なんかできないけど、でも観客としてはかなりの回数、舞台を見てるよ。観劇のプロだよ」
「その全回数分以上、俺は舞台に立ってるの」
 「はいはい」イサクが笑って、また二階へと去っていく。それを見送り、ふと鞄から台本を取り出して、シモンはまだ読み慣れぬ王のト書きを目で追った。
(観劇のプロって、……)
 イサクの言ったおかしな言葉を思いながら、ぱらぱらとページを捲っていく。そうしてシモンはふと、手を止めた。
(序盤の王に台詞はない。裁判のシーンのスポットライトは、王には当たらないんだ。王は暗殺されかけるという危険に遭いながら、己を王に立てた二柱の神のやりとりを静観する――)
 だがじっと沈黙を貫きながら、この王は裁判という舞台に上がった二柱の神をつぶさに観察し、それによって己に求められる役割を読み取ろうとしているのだ。
(ああ、王は当事者でありながら、舞台に立ちながらにして、……この歴史を、神々の舞台を俯瞰的に見守る、傍観者にもなり得るのか)
 手にしたリンゴの残りを頬に詰め込み、もしゃもしゃと、やる気なくそれを咀嚼する。既にシモンの脳裏から、リンゴのことは消え失せていた。その目はただ爛々と、質の悪い紙に記された文字の羅列をなぞっている。
「ふーん、……観劇かあ」
 ぽつりとひとつ、呟いた。
 
「えっと、今日からよろしくお願いします。こちらの劇団で演技をするのは初めてなので、あの、みなさんの演技から、沢山学ばせてもらえたらって思ってます」
 精一杯の愛想笑いを頬に貼り付け、控えめにそう挨拶する。一歩下がって会釈をすると、ぱらぱらとまばらな拍手が聞こえ、また次の役者の挨拶へと人々の視線が移っていった。今度の舞台を共にする人々の視線が完全に他所へ移ったのを感じ取り、シモンは両手で持ち上げた台本で、そっと己の顔を半ばまで隠すと、まずは小さく息を吐く。
 他所の劇団で経験を積むのはいいのだが、こうして初対面の人間達と挨拶を交わす行為には、いつまで経っても慣れやしない。中途半端に演技がかった、この曖昧な距離感が、シモンはどうにも苦手であった。
 隣町のヤーマック劇団。今回の舞台を構成するのは、既存の劇団員が八割、シモンのように他所からやってきている客員が二割。だがその殆どは裏方の人員となるため、役者として舞台に上がるのは、シモンの他に今回はいない。
(主演二人は、ヤーマックの人か)
 常に役者同士がしのぎを削っているような都会の劇団でもない限り、主所属の団員が良い役に就くのは、よくある話である。それを考えれば今回のシモンが王の配役を勝ち取ったのは、上出来だったといえるだろう。
 司法神の役に細身な壮年の男。戦神の役――シモンの逃したその役には、どことなく華やかな雰囲気のある、二十代の男がついた。厳つい男でなくてよかった。もしこの戦神を演じることになったのが、役名から連想されるようないかにも屈強な男であったなら。分をわきまえぬ行為と承知で、演出家に、一言物申さずにはいられなかったかもしれない。
(あーダメダメ、俺今回そういう役柄じゃないし。ここの劇団の人達に嫌われても、やりにくいし。まずは様子見。黙って様子見)
 そんな事を考えながらちらと視線を向けたのは、ヒレルより十は年上と思われる演出家である。彼もシモンと同じく、別の劇団から今回の舞台のために呼ばれてきた人間であるらしい。シモンの視線に気づいたのか、彼はにこりと微笑むと、ひととおり自己紹介を終えた面々に対しこう声をかけた。
「それじゃ、まずは台本読みから。午後からはすぐ立ち稽古に入るので、そのつもりで」
 「はい」と各々応える声。同じく返事をするシモンは、しかしふと視界に入った鋭い視線に、思わずぎょっと肩をすくめた。
 舞台近くに、シモンと同じ年頃の青年達が立っている。その彼らが何やら敵意を露わにした様子で、こちらの様子を見ていたのだ。勘違いかとも考えたが、どうやら他の人間ではなく、シモンのことをこそ睨みつけているように思われる。
 一体何の用であろう。三人並んでこちらを見ていた彼らは、しかしシモンが声をかける間もなく、ふいとそっぽを向いて去っていってしまう。
(……、……、……なんだ?)
 思わず眉間に皺がよったが、答えは得られない。シモンが彼らの視線の理由を知ったのは、昼食時のことであった。
 
「あなたは私に、王としての役割を授けてくれた。――今度は私が、あなたの迷いを背負いましょう」
 大通りの店で買ったサンドイッチを頬張りながら、人気のない階段の踊場に座り込み、セリフを一人、諳んじる。一通りの台本読みを終え、昼休みを言い渡されてから暫くの間、シモンはようやく見つけた一人きりになれるこの場所で、ただぶつぶつと己に与えられたセリフを読み続けていた。だが読むと言っても台本は傍らにおいたまま、指一本も触れはしない。
 セリフ自体は、もうすっかり頭のなかに入っている。だがどうにも、己の喉を通る言葉が馴染まない。それで昼食の誘いを断り、こんなところに座り込んで、脳裏に刻んだ台本を、改めて読み上げていたのだ。
(農奴だった人間が、神に見出されて王となる――。持たざるものが、一夜にして強大な権力を得た。それなのにこの王は、己を蔑む者を摘発するでもなく、己を殺そうとした神に対して怒りを見せるわけでもない。……この調子じゃ、たとえば自分を虐げた元の奴隷主に復讐……なんてことも、とてもじゃないがやったとは思えない。権力があるのに、それを振りかざさない……)
(そもそもこの王には、反逆しようという気概が見えない。神に見出されたのでもなきゃ、きっと一生奴隷のまま暮らしたはずだ。――何かの理由で奴隷の身分に堕ちたっていうより、生まれからして奴隷だったって感じかな。むしろ、そういう生き方しか知らなかったのかもしれない)
(なら、結局はおかざりの王だったのか? ただ神々の顔色をうかがって、自分が望まれる役を演じるだけの? けどこの王は奴隷の頃、所有者である主に何度虐げられても、挫けることなく意見を主張し続けている、――)
 腕を組み、ううむと小さく唸り声を上げる。家で稽古をしていた時から、毎度疑問にぶち当たっては、解決できないままここまで来てしまったのだ。
 しかし。
(……司法神役と戦神役、どっちもうまかったなぁ)
 午前中、まだ一通りの台本読みと簡単な立ち稽古をしただけだが、今回共演するヤーマック劇団の二人の演技はずば抜けていた。理知的に人々に言葉を説く司法神と、奔放に見えて核心を突く戦神の演技は、神という天上の住人たちの役でありながら、人間味があり魅力的だ。
 では王はどうだ。主要人物のうち唯一の人間であり、奴隷として何の権利も持たず、恐らく知識も教養もなく、ただ神に見出されて舞台に上がる、この王は。
 サンドイッチの最後のひとかけを頬張り、指を舐める。しかしその瞬間、階下から聞こえてきたその声に、シモンは小さく息を呑んだ。
「見たかよ? あいつ。ほら、ガリラヤから来た」
 シモンのことだ。咄嗟に身を縮こまらせ、そっと階下を覗き見る。手すりの隙間から見えるそこには、見覚えのある青年が三人、輪を描くように座り込んでいる。
 先程舞台でシモンを睨みつけていた、同世代の青年達だ。
「見た、見た。なんなんだ? あのもだもだした挨拶。おまけに女みたいな仕草で、台本で顔、隠してやがるし」
「ああ、なんでもつい最近まで、ずっと女優をやってたらしいぜ」
 まさか当のシモンが聞き耳を立てているなどと、考えてやいないのだろう。彼らが口々に言うのを聞いて、シモンは思わずぎくりとした。まさか、そんなところを見られていたとは思っていなかったのだ。
 関係者挨拶の箇所など、完全に気を抜いていた。そこに今まで『女優』として培ってきた習性が現れてしまっているなどとは、考えてすらいなかった。
(うわあ……、気をつけよう)
 まずは素直に、そう思う。だがその程度のことで、あんな風に睨まれたのではたまらない。そもそもそれくらい、面と向かって言ってくればいいではないか。
 しかし。
「女優? あの年で? 女優なんか、もっとガキがやるような端役ばっかりだろ?」
「そうそう、演技の素人枠な」
「はあ? 俺達そんなやつに役を取られて、今回裏方やるのかよ」
 続いて聞こえたその言葉に、シモンは思わずぎりぎりと、階段の手すりに爪を立てた。
 素人枠。――今、素人枠と言っただろうか。
 女が舞台に立つことを許されないこの世の中において、まだ年若く演技の経験も浅い少年達が、女優として舞台に立つことは、確かによくあることである。実際にシモンとて、元々はそういった経緯にて、女優の座に立ったのである。
 だが。
(お前らみたいな馬鹿げた考えの人間が多いせいで、女優を中心に据えた台本がいつまで経っても増えないんだろうが……!)
 人間の約半数が男として、残りの半数が女として生まれつくのが、大自然の摂理である。だが女が舞台に立つことを許されない世の中において、演技をする玄人役者達が皆男の役を演じるとなれば、どうしたって舞台の設計に偏りが出てしまうのだ。脚本家達もその現状をよく知っている。だからこそ彼らは、元々、男役を舞台の中心に据え、女役を端に追いやる傾向があることは、シモンもよく理解している。
 ガリラヤ劇団で演じている頃、シモンを舞台の中心に据えようとするヒレルは、しかし演じさせる役が少ないと言ってはあちこちを駆けずり回り、脚本をかき集め、ある時は脚本家を口説き落として、女役を全面に押し出す物語を新たに作らせた。ここ数年でガリラヤ劇団の知名度が上がったのは、そういったある意味『斬新』な試みが功を奏したからでもある。
(くそったれ、今回演じるのが女役なら、こいつらが地団駄踏むほどの演技をして、女劇の面白さを教えてやるのに!)
 募る苛立ちに歯噛みして、しかし今にも飛び出していきたいのを、やっとのことで我慢する。まだ合わせ稽古の初日だ。初日から、既存の劇団員と喧嘩をやらかしては良くないと、どうにか自分に言い聞かせる。いやそもそもここでシモンが女劇の面白さを語りだしたところで、どうせ彼らには伝わらない。ならばどうしてやるべきか。
「けどさ。あいつあんな調子で、王の役なんてできるのかね?」
「別に出番も多くないし、最悪『女王』になっちまっても、まあいいかと思ったんじゃねえの?」
「ま、けどあいつも、流石にもう男役のつもりでここに来てるだろ。――あいつ、女優として都のマクペラ劇団に押しかけていったくせに、結局自信喪失して、オーディションも受けずに帰ったらしいぜ」
 続けて、けらけらと明るい笑い声。しかしそれとは対象的に、
 如何ともしがたい苛立ちが、ゆらりとシモンの胸に燻る。
 こちらの事情も知らないで、知ったかぶるなと言ってやりたい。しかしそれを伝えたからと言って、何の意味があるのだろう。彼らにとってはシモンの事情など、知ったことではないのだろうから。
 自分たちが役を取れなかったやっかみを、しょうもない世間話で発散している、それだけだ。しかしそうは思いながら、すっくと立ち上がったシモンが階下に向けて歩みを進めようとした、その瞬間。
 一陣の風が吹き込んで、足元の埃を吹き荒らす。それがいくらか目に入ったのを感じ、咄嗟に腕で顔を覆った。乱れた髪が、シモンの頬を叩いていく。その耳元で、何やらパラパラと比較的派手な音を聞き、薄っすらと目を開けて、――シモンは小さく、悲鳴を上げた。
「台本が、……!」
 仮止めしていたクリップが取れ、ばらばらになった台本が、無秩序に宙を舞っている。しかし思わず声を上げてしまってから、置かれた状況を思い出し、恐る恐る視線をやれば、先程まで無頓着に語らっていた青年達が三人ともが、ぎょっとした様子でシモンのことを見上げていた。
「うわ、嘘だろ……」
 気まずくそう呟きながら、しかしやっとのことで身を乗り出し、舞っていた数ページを掴み取る。階下の青年達はその様子を見ていながら、地に落ちた残りのページを拾おうともしない。
 シモンが慌てて階段を駆け下りる間に、彼らは既に背を向けている。「おい、待てよ!」と声をかけたが、しかし彼らは振り返ることすらせずに、小走りに去っていってしまった。
「待てったら! お前ら散々人の悪口言っておいて、見つかったら逃げるのかよ! なあ、おい! ……あーもう、くそ!」
 悪態をつきながら、しかし風に遊ばれる台本を、一枚ずつやっとのことで捕獲する。そうして全てを拾い終え、誰もいなくなったその場で、これみよがしに、シモンは大きく地面を蹴りつけた。
「くそったれ」
 あれだけ色々言っておいて、雁首揃えて逃げることなどないだろうに。向こうが正面切って妬みを訴えてくれるのなら、こちらも応戦するまでなのだが、逃げられたのではシモンには、己の意見を主張することすらできないではないか。
 腹の中が収まらぬまま、台本を正しく並べ替え、シモンはまたやれやれと、そのままその場に座り込む。そうしているとどうしても、先程耳にしてしまった幾つかの言葉が、シモンの脳裏に渦巻いた。
――あいつ、女優として都のマクペラ劇団に押しかけていったくせに、結局自信喪失して、オーディションも受けずに帰ったらしいぜ。
――なんなんだ? あのもだもだした挨拶。おまけに女みたいな仕草で、台本で顔、隠してやがるし。
(それでも、……『王』に選ばれたのは、俺だ)
 そうだ。彼らがいくらやっかみを口にしたところで、その事実は変わらない。
『あなたは、』
 ぽつりと言葉が、飛び出した。
『あなたは、農奴である私を王に選んで下さいました。……無学な私は、恩恵が己に舞い込んできたのだと思いました。けれど、……』
 先程までは他人の言葉としか思われなかったそのセリフが、つらつらとシモンの口を吐いて出た。
 賢く敏い、若年の王。彼がシモンと同じように、彼を貶めるべく言葉を吐く人々に対し、内心激高していたやら、その真偽はわからない。だが彼は、彼を認めようとしない人々に対しても、態度を一貫して貫いている。
『恩恵などではなく、あなたにとって私が適任だから選ばれたのだろうと思えました』
『今でも私の出自を蔑む者はいますが、あなたは気にしない。だから私も、気に病む必要はありませんでした』
 戦神の役を取れなかったと悔しがったが、しかし女優上がりのシモンは実際、男役の立ち回りなど、まだまだ把握しきれていない。
 素人枠。そう言われたことには腹も立ったが、あながち間違いではないだろう。年若い少年達が演じる女役は、多少演技の質が悪くとも、観客の目溢しをもらえるのが慣例だ。シモンがこれまで持て囃されてきたのは、そのぬるま湯の中にあって、それでも腐心して女優として演技の質を高めてきたからに他ならない。
 これから学ぶ男役の世界には、シモンなどとは比べ物にならない程の長い間を舞台の上で過ごし、演技力を磨いてきた人々が山といるはずだ。だが、それでも……
(それでも、今回『王』に選ばれたのは、他でもないこの俺だ。もし他に、いくらでも換えがいたとしても、――)
『けれどあなたは、私に王としての役割を授けてくれた』
 しわくちゃになった台本を胸にだき、その場へ静かに立ち上がる。やってやろう。完璧なまでに演じてやろう。
 誰がなんと言おうと関係ない。これまでの経歴を揶揄されようと、シモンより優れた代わりがどこにいようと、――チャンスを掴んだのは、シモンなのだから。
(俺の演じる、この王は強欲だ)
 手にした権力を振りかざしたり、力に驕るようなことはしない。そのメリットがないからだ。持たざるものが一夜にして国を得た。だがそこにはさもすれば、何の必然性も存在してはいなかったのかもしれない。神の気まぐれで拾われ、王になった男。しかし降って湧いた恩恵を、彼は闇雲に消費しない。
(王はただ、恩恵を享受すればいいだけの立場にはいない。神が期待するだけの働きを行えなければ、いつ首を挿げ替えられてもおかしくない位置にいる。……王もそれを理解していた。だから、善き王としての行いを学び、王者の立ち居を身に着けた。己の役割を果たし、その座を長く、よりよい形で享受し続けるために)
 周囲の顔色をうかがってばかりいるような、気弱な王ではない。彼は確固たる己の意見をもっているし、誰に貶されようが、己の信じる役割を演じ続ける以上、雑音に気を病むことをしない。
 ただ一度、
(――裁判)
 そう、あの裁きの日を除いては。
(彼を立てた二柱の神のうち、片方が離反した。己の役割を寡黙に演じ続ける王は、これをどう受け取ったのか、……。あの裁きの日、王は、……己を選んだ神々の、彼に対する評価がくだされる可能性を考えたはずだ。離反の理由が己の行いの不出来にあるのなら、彼はそれを贖わなくちゃならない。でも、)
 王は裁きの日、まるでそれを見守る観客の一人であるかのように、静かに舞台を傍観した。その裁きの焦点が、なんであるかを見極めるために。
(それを見極めたからこそこの王は、王の位に立ち続けることを、……己を立てた二柱の神のうち、片側に寄り添って立つことを、自らの意志で選択した、――)

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