シメオンの聖卓


【後編】

「――ならばその祭壇に、私の魂を焚べましょう。この欺瞞という牢獄の中で慄然と輝く、マメルティヌスの祭壇に!」
 右の指先を滑らかに伸ばし、声をおさえて読み上げる。だがその声がかすれているのを聞き、シモンは所在なさを感じながら、深く溜息を吐いた。と同時に、隣から壁を殴る音。恐らく隣人が、抗議のためにそうしたのだろう。
 シモンのために用意された仮暮らしのこの家は、壁が薄く、少しの物音ですら、隣の部屋に筒抜けてしまう。先程までは静かだったものだから、てっきり今日は留守にしているものと思っていたのに、どうやらそうではなかったらしい。シモンは外套を羽織り、台本を手に取ると、窓が一つに寝台と書き机しかない狭い部屋を後にした。
 音の響く暗い階段を降り、馬車の行き交う大通りに出る。冬を迎えた都の道には霜が降り、足早に歩く人々は、皆顔を伏しがちにして、肩を丸めて歩いている。
 薄いマフラーを口元にまで巻き、シモンはまたぶつぶつと、台本に書かれたセリフを諳んじた。いつもならこのまま、広場にでも行って稽古をするのだが、今日が休日であるせいか、町中は何かと人で賑わっている。仕方がない、今日は川べりにでも行って、そこで稽古をすることにしよう。この寒いさなか、風が吹き晒す運河の淵であれば、きっと人も少ないだろう。
 稽古を重ねなければ。なにせ、時間がない。シモンの臨むオーディションは、もう三日後にまで迫っているのだ。それだというのに、この出来栄えは一体何だというのだろう。そう考えればシモンは、頭を抱えて叫び出したいような思いにすらなった。依然として調子を戻さない、喉だけが問題なのではない。シモンの心がちっとも、与えられた役に向き合えないのだ。
 イサクと言い争ったあの日、イサクの信じるものの存在を否定したあの日からおよそ三週間、シモンは故郷を飛び出したまま、家に帰る事はしなかった。
 都での生活は順調であった。努めて順調であろうとした。
 雲の上の舞台とさえ思っていたマクペラ劇団の劇場を、取り繕った笑顔で見学し、オーディションに向けて稽古に専念したいと理由づけて、そのまま都にとどまった。マクペラ劇団の稽古場を借りることはできなかったが、部屋を貸してもらえただけ、幸運だったといえるだろう。
「罪を問われ、投獄されてまで、あなたは何故信仰を貫こうとするのです。そうまでしてあなたを奮い立たせるのは、一体何だというのです」
 古い時代、信念を持って己の信仰を説いて回る男に、シモンの演じる少女が問う。問われた男は少女に対し、「お前の心を救うために」とだけ答えるのだが、少女に真意は通じない。
 独りきりでセリフを読み、簡単な身振りをつけながら、シモンはふと、幼いころのことを思い出していた。シモンが舞台に上がり始めた頃、彼が自宅で稽古をしていると、イサクは決まってその側をうろうろとし始め、何か手伝うことができやしないかとシモンに問うた。シモンも一度、ならば相手の役を演じてみてくれと言って、イサクに台本を渡したことがある。結果は散々だった。イサクの、演技とも言えないつっかえつっかえなセリフに集中力が続かず、これなら一人でセリフを読んでいる方が余程マシだと告げて、イサクを稽古から追い出したのだ。あの時はイサクも、己の演技の不味さを自覚せざるを得なかったのだろう。「俺はかえって邪魔しちゃうな」と言って、すごすごと引き下がったのをよく覚えている。
 そう、同じ親から生まれた兄弟とは思えないほど、イサクは演技が下手だった。そんなことを何故だか今、ふと、思い出す。
 その時だ。
「――シモン、お前、シモンだろう! なんだってこんなところにいるんだ、ほうぼう探し回ったんだぞ!」
 叫ぶような声を聞き、慌ててその場を振り返る。運河沿いに走る馬車道から、誰かが手を振る姿が見えた。それが誰かはすぐに分かる。ガリラヤ劇団で先輩俳優だった、グールドだ。
「グールド! ど、どうしてあんたが都に?」
 困惑したままそう問えば、相手は有無を言わさぬ様子でシモンを手招きし、がならずとも声が届く距離になるやいなや、シモンに向かってこう言った。
「これを告げるのが本当に、お前のためかはわからねえ。オーディションが終わるまで、言わないでくれって本人にも頼まれてんだ。団長にも口止めされた。けど、……お前にとって大切なのは、お前が大切にしてたのは、大きな舞台で演ることとか、大勢に認められることじゃあないんじゃないかって」
 グールドの真っ青な顔を見て、シモンはあらかたの事情を察知した。「容態は」と問う声が、情けないほど震えている。
「イサクの、容態は……? イサクになにか、あったんだろう?」
 躊躇なく頷かれたのを見て、シモンの胸が萎縮した。起こりうる事態であるとはわかっていたはずなのに、いざその時になると、臆病心に竦み上がる思いがした。
「一週間も前から、ちっとも熱が下がらねえ。俺が町を発った頃には意識も朦朧として、看病してるリブカの顔すらわかってない様子だった。でもあいつ、シモンのことは呼ぶなって、オーディションが終わるまで、余計なことは耳に入れるなって言って、……」
 故郷の町から都まで、馬車で二日はかかる距離だ。「あの、馬鹿兄貴」思わずそう吐き捨てれば、グールドが幾らか居住まいを正す。勘違いをさせてしまっただろうか。しかしシモンは感謝の辞を述べる余裕もなく、続けざまに、「馬車は」と呟いた。
「ああ、ダメだ、馬車じゃ時間がかかって仕方ない。馬を借りてくる。医者は? 医者はもう呼んであるのか」
「とっくに呼んで、イサクの枕元にはりついてるさ。でも、その、……シモン、本当にいいんだな?」
 シモンが手にした台本を見て、グールドが一度そう問うた。
「当たり前だ」
 シモンの言葉は、迷わなかった。
 
「イサク、イサク。ほら、わかるかい。シモンが帰ってきたよ。あんたの為に帰ってきたんだよ。なのにこのまま目を開けなかったりしたら、承知しないよ、――」
 隣人のリブカがそう言って、ぽろぽろと大粒の涙を流す。彼女の顔も真っ青だ。その手をそっと取り、温めるように握ると、シモンは静かにこう言った。
「俺がいない間、イサクのそばに居てくれて、……ありがとうございました」
 鞍を載せた馬にまたがり、昼夜を駆けてシモンが故郷にたどり着いたのは、報せを受けた翌日の深夜であった。都でのことをグールドに任せ、一人帰り着いたシモンを迎えたのは、ぜえぜえと荒い息をして寝台に横たわるイサクと、それに付きそうリブカの二人きり。この善良な隣人はシモンがいない間、誠心誠意イサクの面倒を見てくれていたのだろう。彼女の表情にも隠しきれない疲労の色が浮かんでいるのを見て、後は任せてくれと、シモンは宛もないままそう言った。
「帰ってきてくれてよかった、シモン――。お医者様が言うには、もうできる手は尽くしたって、今晩が峠だって、……。でも今回は発作が長引いたせいで、イサクも体力を消耗しているし、どうなるかは、わからないって、……」
 しゃくり上げて泣くリブカを見送ると、室内には苦しそうなイサクの吐息だけが取り残された。薄布を水に浸し、汗の浮くイサクの肌を拭いてやる。熱を発するイサクの身体は、今まで以上に痩せ衰え、今にもかしゃりと崩れてしまいそうにさえ思われた。
――これ以上、悪い兄にはなりたくないんだって、あいつ、そう言ったんだ。
 グールドの言葉を思い出し、腹立たしい思いに息を吐く。そう、シモンは苛立っていた。この兄は、一体何を思い違いしているのだろう。そう思えばむかむかと、胸の内がざわつくのだ。
「お前が悪い兄だったことなんか、……一度だって、あったかよ」
 寝台の側に跪き、イサクの手をとり顔を伏せる。その時シモンはふと、足元に何かが転がっていることに気がついた。
 切り絵に使う、イサクのナイフだ。見ればその先端に、紙の刻みカスが付いてしまっている。
(糊、……?)
 何かしらの粘着剤で、紙がナイフに貼り付いているのだ。どうということでもなかったが、何故だかそれが、シモンにはやけに引っかかった。そうしてイサクの枕元に置かれた簡素な燭台を手にし、イサクの作業机の上を照らし出して、――シモンは小さく、息を呑む。
 机の上に何枚もの、切り絵が散乱したまま取り残されている。だがシモンの目を奪ったものは、図案通りに刻まれた、それらの商品ではなかった。その傍らにもう一枚、作りかけの、大きな絵が置かれていることに気づいたのだ。
 それは異様な絵であった。切り絵で出た刻みカスを使って描かれた、モザイク画であった。モノトーンのその絵はしかし、作り込まれた舞台のように、ある場面を生き生きと描き出している。
 中央に立つ二人の少年は幼く見えたが、それがシモンとイサクであることはすぐにわかった。少年たちは楽しげに語らっており、その二人を見守るように、周囲には不可思議な、異形の者が集っている。
(――淵の、神様……?)
 思わずふらりと立ち上がり、シモンは燭台を手にしたまま、食い入るようにその絵を見た。
――イサク、……イサク、死なないで。いやだよ、おれ、もっとイサクと遊びたい。
 不意に聞こえた幼い声に、シモンの腕が総毛立つ。ああ、今のは、幼いシモン自身の声だ。幼い頃、――まだ両親が健在であった頃、懐かしい屋敷の一室で、シモンは同じように、苦しげに息をするイサクの側に跪き、ぽろぽろと涙を零しながら、懇願したことがあるのを思い出した。
――シモンは泣き虫だなあ、……。大丈夫、おれは死なないよ。だってシモンが、沢山お祈りしてくれたもの。なんだっけ、ほら、……おれのまわりにも、沢山、神様達がいるんでしょう?
 いつまでも泣きやまないシモンに、イサクは優しくそう言った。それを聞き、シモンは大きく頷くと、――当時読んだばかりだった、子供向けの本を取り出して、――堂々たる態度で、床に臥したイサクにこう言ったのだ。
――そう、おれね、『ふちのかみさま』に沢山お祈りしたんだ! イサクのびょうきを治してくださいって、すごくたくさんお祈りしたんだよ! そしたらみんな、だいじょうぶ、まかせておけって言ったんだ。イサクのことはぜったい助けるからって、みんな、約束してくれたんだ!
 やわい眉間にしわを寄せ、厳しい口調で演技までして、架空の言葉をイサクに伝えた。「まるで、本当に話してきたみたいだ」とイサクが笑えば、シモンは地団駄を踏んで、「本当に話してきたんだ!」と主張した。
――イサクには見えないの? ここにね、そこにもね、あっちにも、いーっぱい、かみさまがいるんだ。みんなイサクを助けるために、ここまで来てくれたんだ。だから、ぜったい、……ぜったい、イサクの病気は治るんだ!
 脳裏に蘇ったそのやりとりに、シモンの身体がよろめいた。
(俺だったのか)
 愕然とした思いのまま、心のなかで、呟いた。
(イサク、お前に、……その存在を信じろと言いだしたのは、俺だったのか)
 燭台を床に置き、がたがたと震える己の肩を掻き抱いた。ぽろぽろと、堪えきれずに落涙する。そうしてふと居住まいを正すと、シモンは古びた作業机に、そこに置かれたモザイク画に、深々と、頭を垂れた。
「どうかもう一度、もう一度イサクを助けてください。伝えなきゃならないことがあるんです。このまま見送ることなんて、できないんです。助けてください。どうか、どうかもう一度、イサクのことを助けてください、――お願いします」
 なんて厚かましい願いなのだろう。彼らのことを否定したのは、他でもない、シモンであったのに。
 それでもシモンは祈り続けた。シモンには、そうすることしかできなかった。
 そうして朝を迎える頃には、苦しげだったイサクの呼吸は、徐々に小さくなっていた。
 
 ***
 
 気持ちのよい風が吹いていた。真冬の空気はぴりりとして、シモンの肌に緊張感を与えたが、それでも故郷の風は馴染んだ。
 外套を羽織り、我が家の前に佇んでいる。ほんの少し、外の風を感じてみたい気分だったのだ。しかし目を閉じて、より深くそれを感じようとするシモンの思考を、騒がしい声が邪魔していく。
 破裂したように響いているのは、遅れて到着したグールドの泣き声であろう。都から帰り着き、イサクの顔を見た途端に大声で号泣しだした彼は先程から、リブカに叱られ、一度泣き止み、また大声で泣き始めるということを、延々繰り返しているのだ。
 それを諌めるリブカとて、はじめに横たわるイサクを見た時は、負けず劣らず大声で泣いていたのだが。
「シモン。お前、本当に帰ってきてたんだな」
 通りの向こうからかけられた声に、ふと顔を上げる。団長のシュムリに、演出家のヒレル、それから、ガリラヤ劇団で共に舞台を作ってきた人々が、みな微笑んでそこにいた。
「帰ってきました。ちょっと、ホームシックになっちゃって」
 苦笑しながら言うシモンの髪を、ヒレルがわしわしと撫で付ける。「そりゃあ丁度いい」と続けたのはシュムリだ。
「次の舞台、配役が一つ空いててな。どうせ帰ってきたんなら、お前が演じてみるか? 今までとは少し、勝手が違う役なんだが」
 「いいんですか?」穏やかな声音でそう問えば、シュムリがにやりと笑ってみせた。その一方で、ヒレルがいささか首を傾げ、「お前、声が」と小さく問う。
「そうそう。ホームシックの間に泣き明かしたからか、なんだか低くなっちゃって。あっ、でもこれ、声変わりかな? 人よりちょっと遅いけど、これから成長期が来るのかも。背なんかぐんぐん延びちゃったりしてさ。これはそろそろ、俺も男役に転身する時期が来たのかもしれないなぁ。散々女役を極めた俺が、これからは、男役も極めちゃう? まずいなあ、そんなの、向かうところ敵なしじゃないか」
 滔々と流れるようにシモンが言うのを聞いて、団員のうち、何人かが吹き出した。シュムリはちらとも笑わなかった。しかし大真面目な顔で、「安心しろ」とそう続ける。
「今回空いてる役ってのは、丁度、男役だ」
「――あら! ガリラヤ劇団の皆さん、来てらしたのね。お寒いでしょう。そんなところにいないで、中に入ってくださいよ。狭い家ですけども。ね、いいわよね? シモン」
 自分の家というわけでもないのに、リブカが明るくそう言った。「イサクに聞いてよ」とシモンが言えば、「それもそうね」と彼女が返す。
「イサク、ねえ、もう大丈夫よね? お客様がたくさん見えているわよ」
 答えは聞こえてこなかった。まだ大声で話せるほど、回復してはいないのだ。「イサクのこと、良かったな」とヒレルに言われ、シモンは小さく頬を掻いた。
「あんまり静かになったから、朝は、死んだのかと思って、少し焦ったけどね」
「ああ、それで声変わりするほど泣いたわけだ」
「違う。俺がそんな、うっかりしてるわけないだろ」
「はいはい、ホームシックで泣いたんでしたっけね」
 そうして上がり込んだ客人たちは、一言ずつイサクと会話して、しかし彼の容態を気遣うように、すぐに去っていった。また感極まって泣きだしそうになるグールドを、ヒレルが引っ張っていき、リブカが隣の自宅に帰ると、家の中はうって変わって、しんと静まり返ってしまった。
「シモン、……」
 寝台に横たわったままのイサクが呼ぶのを聞き、シモンは無言のまま、その近くに椅子を置いた。そうしてそこに座り込み、「なんだよ」と問えば、イサクは気まずげに目を伏せる。
「こんなことを言ってはいけないかもしれないけど、……おまえが帰ってきてくれて、ほっとした。ありがとう。でも一言言わせてくれ。大切なオーディションだったのに、俺のせいで、それに、その前も、……」
「なあイサク。俺、イサクが眠ってる間に、またあいつらと話をしたんだ」
 遮るようにそう言えば、イサクが虚を疲れたように、「あいつら?」と問い返す。
「そう。もう随分疎遠になってたから、向こうも俺のことなんか忘れたかと思ってたけど、案外気さくに話しかけてきたよ。イサクのことを助けてくれって言ったらさ、『任せとけ!』なんて安請け合いして。……まあ、実際助かったから、いいんだけど」
 シモンが笑ってそう言っても、イサクははじめ、何も答えはしなかった。やはり、怒っているのだろうか。しかしそう問う勇気もなく、イサクの表情も伺うことができないままでしばらく居ると、唐突に、吹き出すような声が聞こえた。
「そうだね、彼らは優しいから」
 優しい兄は、そう言った。
「……、謝らないからな」
「いいよ、それでも。俺も謝らない」
「でもイサク、一応これだけは言わせてくれ」
「丁度いい。俺もシモンに、言いたいことがあったんだ」
 小さな窓から、一陣の風が吹き込んだ。きっとこれは、不器用な兄弟を見守る神々が、彼らを等しく赦すために、吹かせた風であるのだろう。そんなことを考えて、シモンは小さく息を吐く。
「ありがとう」
 二人の声が、重なった。


おしまい
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