吟詠旅譚

風の謡 番外編 // Blue Palette

Blue Palette -1-

「どうした、腕が止まっているぞ」
 笑いを含んだ冷たい声。それを聞いて、少年は小さく息をのんだ。
 絵筆を持ち替え、右手に持ったパレット上で色を創る。目の前にいる男の身代わりを演じるため、普段は右利きであることを強要されてはいるが、こうして絵を描くときだけは、少年の左手も筆を持つことを許された。
 少年の頬を、冷や汗が伝う。ああ、作業を進めなくては。少しでもこの男の機嫌を損なうようなことがあれば、またいつかのように、杖で打たれるかもしれない。あの日の晩は、傷が痛んで眠れなかった。
 しかしそうして自らの創り上げたキャンパスを見て、少年はまた筆を止めた。以前より長い時間をかけて書かされているこの絵も、もうじき完成を迎えようとしている。――目の前の男の肖像画。その瞳の部分へ少年は、冷たい青を挿しいれた。
「完成までは、どの程度かかる」
「あと少しで終わります、殿下。残りは細部の調整だけですから、殿下はもう、お休みいただいても構いません」
「そうか。絵の才能に関してだけは、おまえの腕を買っている。必ず立派に仕上げろよ。――カノン」
 鋭く刺すような声音でそう言われ、少年は――カノンは、無言で浅く頷いた。目の前に立つ青年、一目でそうとわかる実の兄は、それを見て満足そうに笑うのみだ。
 クラヴィーア王国、第二王子ラフラウトに与えられた城、メレット宮。その離れの一室で、カノンはこれまでの人生を、ひっそりと静かに生きてきた。これからもそうだ。決まっている。不遇の星の下に生まれ、第二王妃パンデレッタの気まぐれに命を救われたその瞬間から、カノンの運命は全て決まっているのだから。
 パタンと扉の閉じる音。第二王子の退室に続き、側仕えの人間達が次々に部屋を後にする。そうして急にがらんとしたこの一室で、カノンは深く、静かに溜息をついた。これでようやく一息つける。この宮殿の若き主は、芸術に理解を示す素振りを見せながら、実のところ、油彩の臭いをおおいに嫌う。カノンが完成したと言って乾燥させた絵を差し出すまでしばらくは、放っておいてもらえるはずだ。
 扉のすぐ向こう側には、今日も変わらず、見張りの人間が待機しているはずであった。だがそれでも、この部屋の中で、こうして絵筆を走らせている限り、カノンは束の間の自由を味わうことが出来るのだった。
 そっと足音を忍ばせて窓をのぞき込み、領内の一角に薄暗くそびえ立つ、ある尖塔を仰ぎ見る。その内部の様子がどうなっているのかなど、ここからではとてもわからない。けれど彼は、そこに暮らすはずの貴婦人に向けて、ぽつりと小さく呟いた。
「この絵は例の、『第三王子』に送りつけるそうです。それを俺に描かせるのだから、あの人の考えていることはつくづく理解できない。そう思いませんか、――母さん」
 人を寄せ付けることを拒むような、暗く冷たいラバタの塔。そこには本来、母と呼ぶことを許されない、カノンを生んだ女が匿われているはずであった。
 この国クラヴィーアの現国王、アドラティオ四世が第三王妃、エバテリス家のリアーナ婦人。実家に帰ればもう少しでもまともな生活がおくれるだろうに、彼女がこうしていつまでも、メレットにとどまる理由は全て自分にあるのだと、今のカノンは知っている。
――私が授かる子供は三人。それ以上でも以下でもいけない。全てが息子。それも、皆違う母を持つ。
 十三になったこの頃のカノンは、自らの出自もラフラウトとの関係も、王家の中でも知る人間の少ないアドラティオ四世が受けた予言の内容さえも、既にあらかた承知していた。彼を匿ったラフラウトが、事につけ、その手の話を聞かせたがったのだ。
「王たる者が、予言者の妄言を真に受けて何になる。ただでさえ父上は、南部に拡張するはずだった戦線を打ち止め、各国と形ばかりの和平条約を結んだことで、腰抜けと揶揄されているのに。後継者選びに及んでまで、愚策を弄するおつもりなのか」
 二つ年上のこの兄は、――王子として何不自由ない暮らしを与えられているこの男は、愚かな予言を盲信する、王の無能さをカノンに語った。彼がそれらの情報を、一体どこで仕入れているのか、カノンは一切知らずにいる。意見することを許されぬカノンはいつだって、それをただ黙って聞いているのみであった。この男の前に限らず、カノンはただ、沈黙する石であり続けなくてはならなかった。
 カノンがこの世に生まれ落ちた瞬間、父であるアドラティオ四世は、三人目の王子の存在を暗闇の中へ葬った。予言にあった三人目が、王の求める力を持っていなかった故に。王の求める能力を持つ、
 他の王子が現れた故に。
「カノン。お前は本来なら、存在するはずのない人間だった。それを私の母が、そして私が生かしてやった。その恩をよく噛みしめろ。生涯私の手足となれ」
 ラフラウトはよくそう言った。そう前置きをして、他言は出来ぬ予言の話を、存在しないはずの人間に、カノンに度々聞かせるのだ。
 恐らくは、この人もずっと空しいのだろう。持たざるカノンはそう思った。
 ラフラウトだって、カノンと同じだ。第二王子として表では兄と権力争いを続けながら、結局は予言のために何もかもを、得体の知れぬ偽物の、『第三王子』に奪われてしまうかもしれないのだから――。
 ふと筆を置き、がらんとした広い室内に視線を移す。寂れた離れの一室とはいえ、床には均一にタイルが並び、細かな装飾の施された柱が天井へ延びたこの部屋は、秩序だって美しい。その中へぽつんとたてられたキャンパスには、立派な衣服を身に纏う、青年の姿が描かれている。
(俺は、これからもこの人の影……)
 幾度となく言い聞かせられたその言葉が、血と共にカノンの全身を巡る。
(予言の通り、例の『第三王子』が王となるなら、……ラフラウトが王位を得られず失脚したなら、俺もまた、この人と共に日の目の当たらぬ所へゆくのか)
 そうは思いながら、しかしカノンにはそれが一体どういうことなのか、ちっとも理解は出来なかった。アドラティオ四世と王権を巡って対立した、あのソーリヌイ候のように、投獄され自由を奪われるのだろうか。だがそれは今の環境と、――一体何が違うというのだろう。
 パレットに幾らかの絵の具をしぼり出し、また色を創り筆へと載せる。
(考えるな)
 自らにそう、言い聞かせる。考えたところで、己には何も出来ぬのだから。
(俺はこの人の影。そうして生きていくしかない。一人で生きてゆく力など無いのだから。ここを追い出されでもしたら、俺には何も残らないのだから。影。影だ。今までも、これからも、――)
 誰に追い立てられるわけでもないのに、筆を持つ腕に力がこもる。焦り、色を置き、ただひたすらに絵を描く。他に選択肢はないのだから、迷う必要は微塵もなかった。カノンは選択の自由を持たなかったし、その必要に迫られたことなど一度もないのだ。ただ己を養う男の言葉の通りに、彼の顰蹙を買わないことだけを考えて、行動すれば良かったのだから。
(マラキアに居るという予言の王子は、――狭間の力を持つその人は、今頃どうしているのだろう)
 首都から遠く隔てられた地に住むその人のことを、カノンは少しも知らなかった。ただ何かしらの、哀れみだけがそこにあった。
(二ヶ月違いの俺の『弟』。……いつか出会えたら、ゆっくり話をしてみたいけど)
 そう考えて、思わず苦笑する。そんな思いをラフラウトに知られたなら、杖で打たれる程度では済まされないだろう。
 余計なことは考えるな。もう一度己に釘を刺す。馬鹿な考えさえ起こさなければ、少なくともカノンはこの限られた世界で、こうして絵筆を取り、穏やかな生活を送ることが出来るのだから。
 平穏が保証されているのだから。
 だが、忘れもしないある日のこと。カノンの限られた平穏は、
 けたたましい雄叫びと共に消え失せたのだった。

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