吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

049 : Make the way -3-

 一気に血の気の引くのがわかった。
 突破されたというのはどういう事だ。問いただしたいのは山々だったが、そうする相手が見当たらない。シロフォノとて笛の音だけでそれ程多くの情報を得られるわけではないだろうし、精霊は遠巻きに様子を覗うばかりで、ちっとも寄りついては来ない。
 単に自分達が追いつかれただけならば、既に大した問題にはなりえなかった。脱出する手段は確保できのだし、後は全員でトロッコに乗り込むだけである。
 しかしもし、誰かが負傷したとでもいうのなら。
「ともかく僕らは、すぐにでもトロッコを動かせるようにしておかないと――」
 言い終えるのを聞かずに、アルトは力一杯シロフォノの腕を引いた。言葉で注意を呼び掛けるより、その方が手っ取り早かったのだ。二人が飛び退くようにして移動すると、直後、たった今まで立っていた地面へ刃が突き立てられる。風を裂いて跳んできたのは、クロトゥラが使っていたような柄のない刃物だ。
 怯える声が、耳に届いた。それは無論アルト自身の声ではなく、隣に立つ友人のものでもない。肌に触れる精霊の声。苔の生い茂った地面、湿った風、それらがかすかな震えをもって、アルトに恐怖を訴えかける。
 トンネル内の闇が増していた。
 ぞっとしない思いを堪えて横穴の方を振り返り、アルトは大きく息を吸う。横穴の入り口に、何かがいた。人間ではない。精霊でもない。
 あれは。
「オスティナート……。本当に、しつこい奴だね」
 シロフォノの呟きに、アルトは驚き目を瞬かせた。一体どこにオスティナートがいるのだと問いかけて、しかしすぐさま口をつぐむ。シロフォノがおかしな事を言ったわけではないようだと、一目でアルトにも知れたからだ。
 横穴からの光を遮るようにして、こちらを覗き込む人影がある。その影こそがオスティナートであった。横穴の入り口に手をついて、今にも崩れ落ちそうな体をなんとか支えている。そうしてみるとどうやら、彼が明かり取りの穴を塞いでいる為に、トンネル内の暗さが増したようだとすぐにわかった。
(だけど本当に――それだけ、か?)
 ほんの一瞬、そこに何かが見えた気がした。
 この場を包み込むように膨張した闇と、そこへ浮かぶぐりぐりとした、大きな目玉のような光が。
「よく、その横穴に気づいたな」
 掠れた声でアルトが言うと、相手――オスティナートはにやりと嫌味に笑ってみせた。びしょ濡れになった服に付着している赤黒い染みは、当人のものだろうか。それとも。
「私には、あなたのような特別な力は備わっていませんが……。あの女の血筋の者だけは、どんな時にも見つけられるよう契約を交わしたのですよ。もう以前のように、殺しそびれたりはしたくありませんからねえ」
「――契約?」
「ええ、そうです」
 視界を走っていくかのように、瞬間、横穴の外で光が散った。雷だ。
 オスティナートがにやりと笑うと、あわせるように雷鳴が轟いた。稲光との間隔から察するに、落ちたのは相当遠くだろう。しかしその音に、ぞっと背筋が粟立つのを感じる。ああ、これだ。精霊達はこれに怯えていたのだと、アルトはその時理解した。
「契約です」
 雷光に照らし出されるようにして、アルトの前に姿を現した物。それは。
(見間違いじゃ、ない)
 病んだ笑みを見せる男の背後に、――人間とは似て非なる何かが、蠢いている。
 それは、闇だった。
 深く形を持った闇。そこかしこへ根を張るかのように、トンネルの隅々にまで支配を及ぼす漆黒だ。その得体の知れない暗闇が、オスティナートの背後で笑っている。
 顔らしき顔はない。ただ闇の中に目玉のような昏い光が二つと、それらより少し上にもう一つ、小さな点があるだけだ。しかしそれが笑んでいることだけは、嫌にはっきりと理解できてしまう。
 その時ふと、今はその所在すら知り得ない友人のことが、アルトの脳裏を過ぎっていった。
 どこか寂しげな顔をした、強い目をした赤毛の少年。アルトがツキと出会ったとき、彼の姿を模した何かがそこにいた。あの正体も、こんな闇ではなかったか。
「あの時の『夕日』――なの、か?」
 呟く。オスティナートは何も言わなかったが、その背後に潜んだ闇が、満面の笑みに浸るのがわかった。しかし、その時。
 鈍い音と共に、オスティナートの体が前へと傾いだ。彼は憎々しげに振り返り、リッソを投げる仕草をする。だがその背は既に満身創痍で、火傷で張り付いていた布は破れ、わずかに見える青白い肌からは血が滴っていた。どうやら今、背後からの攻撃を避け損なったようだとアルトが気づいたのは、一瞬後のことである。
 オスティナートが後退り、トンネル内へと入ってくる。それを追うように姿を現したのは、マルカートとクロトゥラだ。だがその周辺に、デュオやゾーラの姿は見受けられない。
「アルト、君はトロッコのリールを!」
 そう言って、シロフォノが横穴へと駆けていく。今にもこのトンネル内へ敵が押しかけてくるだろう事は、アルトにも理解のあるところだ。一刻も早くこの場を脱するためにも、退路を確実なものにしておかなくてはならなかった。
 アルトは急ぎトロッコに駆け寄ると、その線路の先を目指す。長く日の目を見ることがなかったトロッコには埃が積み上げられており、細く頑丈な鎖は先のリールへ巻き取られたまま固定されていた。だがその鎖さえ外してしまえば、一気に麓まで向かうことができるはずだ。
 鎖に手をかけアルトは一度、オスティナートの行方を視線で探った。見つけるのは簡単だ。剣戟の音が一番大きく、精霊達が逃げ惑う場所に彼はいる。
 見ればちょうど、その兇刃がマルカートと切り結んだところだった。両者の負傷の程度を推し量る事は難しいが、遠目にも、オスティナートがいまだ闘志を鈍らせてはいないことはありありと窺える。
 それを見て、アルトは眉根を寄せた。オスティナートの背後に影の姿が見当たらない。
(一体、どこへ――)
 冷や汗が、頬を伝う。
 思い起こすだけでも鳥肌がたった。表情のある深い闇。あれは一体、何を思って笑んでいたのか。
 よく似た闇が夕日の姿を模していたとき、あれはアルトにこう言った。
 ――知らないままで良いんだよ。そうすれば、君は気ままな風でいられる。
 あの時は無性に腹がたった。悔しかった。だが、今は。
「お久しぶり。元気にしていたかい?」
 背後で低い声がして、アルトは身を凍らせた。振り返る。影の姿はない。だが首元に、冷ややかな風が吹いていく。刃を握り締めたままの腕が、気付かぬうちに自然と震えた。
「おや、私を恐れているのかい? 前に会った時はあんなに勇ましく、私に向かって来たというのに」
 冷やかすような、勘に障る猫撫で声。振り払うようにアルトが身じろぎすると、楽しそうに影は笑った。
「ああそうか。おまえにもようやく、私の力がわかるようになったのだねぇ」
「おまえの、力……?」
「そうさ。おまえが精霊の声を聞くのと同じ、統べる者の力だよ。おまえはいまだに持て余しているようだけれど、私はそうではないからね。恐れる気持ちもわからないではないよ」
 言われた瞬間、ぐらりと視界が闇に揺れる。
 闇の中で、アルトは一人の少年と対峙していた。少年は額に札のようなものを貼っており、口の端だけで笑んでいる。その目許には影が落ちて、アルトの位置からではその本当の表情を窺い知ることは出来なかった。
「君は幸せだね、高原の風」
 笑顔のまま、少年が言った。それが神経を逆なでする。アルトはかぶりを振って、目を逸らすように俯いた。全て暗闇だと思っていたのに、不思議と足元にはトロッコの線路が、手元には例の鎖がはっきりと見えている。
「夕日の姿で俺に話しかけるのは、やめろ」
「何故そんなに怖い顔をするの? 僕と話すのは、嫌かい?」
「――黙れ、偽物……」
「僕が、偽物? 可笑しいな。今や僕ほど『本物』に近い者は他にいないのに」
 くすくす笑う声が、不気味に耳の裏まで響く。アルトが耐えきれずに顔を上げると、いつのまにやら眼前に、昏い相貌が迫っていた。
 虚空を臨む彼の瞳に、心が吸い込まれてしまいそうだった。アルトが仰け反るように後退すると、夕日の姿を模した何かも、そのすぐ後を追ってくる。
「君は本当に幸せ者だ。自分の力のことも、その力が何の為のものかも知らず、今日までこうして生きてこられたんだからね――。だけどその平穏の為には、何か犠牲になるものがあったと思わない? 誰も君に語って聞かせようとはしないみたいだけど、ほら、例えば君の母君」
 どくん、と地面が脈打った。先を聞いてはいけない、きっと心が折れてしまう。しかし周囲を囲む声から、逃れる術はどこにもない。
(ともかく俺は、進まなくちゃ)
 その判断と行動と、どちらの方がはやかっただろう。次の瞬間、アルトは力任せにトロッコの鎖へ刃を突き立てていた。しかし思った以上の堅い手応えがかえってきて、悔しさに奥歯を噛みしめる。二度、三度と繰り返してはみたが、銀の刃は刃毀れを起こすだけで、一向にトロッコを封じる鎖を断ち切ろうとはしなかったのだ。
 焦りが募って、手元が狂う。静かに伸びてきた『夕日』の冷たい手が、アルトの両手に添えられた。
「僕もさっき、ちらりと話を聞いていたんだけれどね。君の母君、自殺したんだって? 自分で自分を殺すなんて、余程、何か思うところがあったのかな」
 たたみかけるような言葉。地面が脈打つ。冷や汗が頬を伝う。
「ねえ、僕は君が妬ましくて仕方ないんだよ。だから真実を示してあげる。君の母君から快活な笑顔を消し去り、命を奪ったものって何だと思う? 皇王? それとも……。僕、思うんだ。それってもしかして」
 その冷たい手が、アルトを放そうとはしない。
「こんな力を持つべくして生まれてきた、君自身なんじゃないかなぁ」
 弾かれるように、心が揺れた。
 冷たい諸手を振り払い、剣を地面へ突き立てる。そうでもしないと崩れ落ちてしまいそうだった。胸焼けがして、視界が揺れる。狂ったように笑う声が、そこかしこに響いていた。
「君の母君が生まれた頃、『淵』はまだ開ききってはいなかったからね。彼女自身にそれ程の力はなかったはずだ。だけどこの国の皇王は、やがて生まれてくる君のことを知って、抜け目なく彼女を自分のものにした」
「力って……『淵』って、一体」
「あれ? 『淵』の事すら覚えていないんだね」
 冷たい手が再び伸びてきて、今度はアルトの首元をゆるゆると締め付ける。抗う気力は湧いてこない。アルトはただ呆然と、相手の瞳だけを見ていた。
 昏い、昏い、光の灯るその瞳を。
「あの隠密の男もそろそろ死にそうだし、新しい宿主が欲しかったけど……。君は、僕には毒になりかねないな。いっそ先に、『淵』へ還ってもらおうか」
 冷え切った指先に、力が入った。
(……同じだ)
 心中、呟く。
 昏い瞳に見覚えがある。蔑むような、憐れむような、荒みきった狂気の目。それは先程までオスティナートがアルトへ向けていたものと、全く同じものだった。
――ねえ、僕は君が妬ましくて仕方ないんだよ。だから真実を示してあげる。
――私はあなたが、あの女と瓜二つのその顔が苦しむのを、もっと愉しむつもりでいますから。
 満身創痍になっても戦い続けたあのジェメンドの男は、あれから一体どうしただろう。アルトがこの闇に取りこまれていることなど知らず、いまだにあの狂気のまま、マルカート達と刃を交えているのだろうか。
 細い指が食い込んで、息が詰まった。想像以上の力で首を締め上げられ、アルトは苦痛に顔をゆがめる。どうにかして逃れなくては。そうは思うものの、腕力とは違った何かのために、そうすることも適わない。しかし。
――俺はペンダントを取り返す。あれは多分、お前のために必要な物なんだ。
 デュオの声が、ふと脳裏に過ぎった。その時だ。
 突然目の前へ剣を突き立てられて、アルトは思わず息を呑んだ。辺りを取り囲んでいたヴェールが剥がれ落ちたかのように、視界は急に拓けている。
 先程までと変わらぬ、薄暗いトンネルの中である。アルトの首を締め上げていた少年の姿は既になく、代わりに鳴った金属音の出所を目で追えば、何者かの刃に砕かれた鎖が見て取れた。
 力なく息をつくと、ぐらりと体が傾いでしまう。すぐ後ろに立っていた人物と、肩がぶつかった。――デュオだ。その手に握られた長剣は、狙いを違うことなくトロッコの鎖を砕いている。
「よお。目ぇ、覚めたか」
 そう声をかける顔には、いつもと変わらぬ種類の笑みが浮かんでいた。しかしアルトはその姿を見て、絶句する。
 視線は自然と、デュオの横腹を染め上げる赤へと向いた。それ以外にも彼は全身の至る所に大なり小なり傷を作っており、ゾーラに肩を支えられて、ようやく立っているような有様であった。しかしアルトの様子などお構いなしで、デュオは何でもないかのように、握った拳を突きつけてくる。どうやら何か、受け取れということらしい。アルトが面食らいながらも手を差し出すと、彼は握り込んでいたそれをアルトの掌へ、落としてみせた。
「もう離すなよ」
 声のあまりの静けさに、アルトは息を詰まらせる。芯のある静けさ。アルトはそれを知っていた。その強さはある人の、アルトが最もよく知る一人の女性の、得意とするものであったから。
 じわりじわりと、見ている間にも脇腹の血が滲んでいく。しかしデュオはアルトの頭をやんわり抱き寄せて、己の傷になど気づいてもいないかのような口調で、こんな事を言った。
「モノディアに……お前が生まれた後に一度だけ、会ったことがある」
 ぴくりと肩が震えたのが、アルト自身にもよくわかる。
――母上は! ――俺の前では一度だって、あんな風に笑ってはくれなかったのに!
 何故、あんな子供じみた事を言ってしまったのだろう。恥じ入る気持ちと混乱とで胸が詰まって、顔を上げることすらできやしない。しかしデュオは気にした様子もなく、大きな手へ更に力を込めた。
「その時は確か、バラム城へ戻ってきた……いや、マラキア宮へやってきたモノディアの部屋に、木をつたって侵入したのさ。おまえが庭へ抜け出ていたのと、全く同じ方法でな。そうして会ってみて、驚いたよ。確かに少女じみた無邪気さはなくなっていたが、代わりに――あいつはすっかり、母親の顔になっていたんだ」
 聞いて、アルトははっと顔を上げた。デュオがにやりと悪戯めいた笑みを見せる隣で、手を貸していたゾーラも、誇らしげに目を細めている。
「母親の、顔……」
 呟く。
 アルトの手に、金のペンダントが戻ってきた。

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