吟詠旅譚

風の謡 第一章 // 「別れの唄」

014 : To see the dusk.

「君はこないの?」
 少年がそう、尋ねてくる。無邪気な問いだ。無邪気だがしかし、辛い問い。アルトは思わず小さな溜息をついて、それでも調子を変えるため、少しだけ声のトーンを上げた。
「俺はここから出られない。会いに来る友達もいない」
「君の名前は?」
 間髪いれず、少年が言う。まるでアルトの答えを、どこかで予期していたかのようだった。
(俺の名前? ……さあ、何だったかな)
 そんなもの、忘れてしまいたい。マラキアから離れ、ウラガーノから遠く、恐らくはクラヴィーアからすら離れたここでまで、あの名前を名乗る必要はないだろう。
 アルトは少し迷った後で、呟くようにこう言った。
「高原の風」
 驚いたように、少年が目を瞬かせたのが見てとれる。
 それを眺めながらふと、アルトはマラキアでのことを思い出していた。
「アルト」
 初めてそう呼ばれた時は、それが自分の事だなどとは思いもしなかった。この地方では、よく聞く名前だ。いつものように庭で昼寝をしていた時のことだったから、新しい使用人でも来たのかと思ったのだ。
 しかし辺りを見回して目に入ったのは、あの頃既にアルトの探し役になっていた、デュオの姿だけだった。
「……それ、俺のことか?」
「ああ。一瞬、そう見えたのさ」
「誰か、知り合い?」
「いんや」
 デュオにつられて見上げた、その日の空のことは今でもよく覚えている。白い大きな雲の形。それに、その間を駆ける風の軌跡まで。
「『アルト』っていうのは、古い言葉で、『高原の風』って意味なのさ。大昔にこの辺りの土地を治めたっていう、伝説上の人物の名でもある。クラヴィーアが建国するよりずっと前の話だ。ほれ、神話なんかに出てくるだろう」
「神話なんて、読んだことない。……だって大方、作り話だろ」
 アルトが言うと、デュオはくっくと笑ってこう答えた。
 アルトがデュオの所へ遊びに行くようになったのは、この頃からのことだったかも知れない。この時のデュオの目が、希望とか、未来とか、そういうアルトが知ろうともしなかった、どこか遠くに向いていたから。その目に、強く惹かれたから。そうだ。今頃思い出した。
「そうかもしれないし、違うかも知れない。学んでも無駄だと思うか? だが意外と、その『無駄』が役に立ったりするもんなのさ」
 当時のアルトは首を傾げただけだったが、新しい名前のことは気に入っていた。その名前で呼ばれるときだけは、まるで違う人間になれたかのような気がしたからだ。
「珍しい名前だ」
 窓の外の、赤い髪の少年が言った。珍しいとは言いながらも、やけに納得した様子の声。アルトは何故だか安心して、呟くように言った。
「わけあって、本名は名乗りたくないんだ」
「そう……。だけど、とても良い名前だね。実は僕も、本当の名前を名乗れないんだ。高原の風、何か良い名前はないかな」
 予想外の言葉に、アルトは少し躊躇った。窓から見下ろした少年の様子をじっと見て、考えてみる。自分にも出来るだろうか。この新しい友人が、満足できるような名前を見つけ出すことが。
 町の脇道に佇む、一人の少年。表情はどこか寂しげだが、その目はとても優しかった。様々なものを見守る目。光も、闇も、じっと見据えることの出来る目だ。
「……それなら、お前の名前は夕日だ」
 言って、アルトはふと、空の方へと視線を移した。
「じきに夕日の時間になるだろう。俺のいる場所からはお前が煌々と輝いて見えるのに、お前にはどこか影があるから」
「夕日――。良い名前だけど、今の僕にはどこか苦しいな。僕に影が見えるというの、少し心当たりがあるから。それを君に話すことは出来ないけれど……」
 空は些か曇っている。この町では、今日はあまり綺麗な夕焼けにはならないかもしれない。……けれど。
 アルトは短く、自嘲気味に笑った。
「太陽は、闇を経て必ずまた顔を出す。俺にはそれが羨ましい」
 高原の風は自分の行く末さえ知らず、ただその場所を駆け抜けていく。それにしたって、この『アルト』はおかしな風だ。風を構成する大きな要因、きままさが、どうにも欠けているのだから。
「夕日」
「なんだい」
 呼んでみると、すぐに自然な返事が返ってくる。
 彼は一体、どこの誰なのだろう。今日別れたら、次はいつ会えるのだろう。もしもアルトが今、この窓から外へ飛び出したら……。
 そこまで考えてアルトはふと、自分自身に首を傾げた。自分は、一体どうしたいのだろう。
(逃げ出したいのか?)
 その考えに、驚いた。立場のことも、ペンダントのことも、何も考えたくないから、逃げだそうとしているのだろうか。
(それなら、どうして昼中ウラガーノを歩き回ったりしたんだ?)
 何故、あの青年を捜そうとしたのだろう。
 デュオには、何も尋ねないと決めたのに。
(知りたいのか?)
 自分自身に問いかける。答えは勿論、返ってこない。
 不意に脳裏で、炎のはぜる音がした。今なら間に合う。炎が、そう呼びかけている。
 アルトは夕日を見下ろして、出来る限り、優しく言った。
「行かなくて良いのか。探検の途中なんだろう」
 これ以上彼と話していたら、自分はきっと決定的な何かをしでかしてしまう。何故だかはわからないが、アルトにはその確信があった。
「そうだ。そろそろ行かなくちゃ」
 もう行ってくれ。このまま進んで、振り返らないでくれ。けれどそう思う反面、やけにきりきりと心が痛む。
(俺は、卑怯だな)
 知らなくてはならない何もかもから、逃げ続けている。そう思った。この窓から飛び出して、今の自分を投げ打つ勇気もない。自分自身に立ち向かっていく事も出来ない。マラキアを発てと言われればその通りにし、何も知らないと言われても、言い返すことも出来はしない。それなのに、一人前に悔しがる。何か、行動を起こせるわけでもないのに。
 今の自分は、風ではない。ただ、周りの吹く息に押し流されているだけだ。
 ちらりと、夕日の背中に視線をやる。駆けていくその背は、まだ幼い。けれど背筋はピンと伸び、アルトには想像もつかないどこかへと、ただまっすぐに進んでいく。
 その背に影がちらついても、彼は恐らく、進むことをやめないだろう。前へ、前へと進み続ける様子が、目に見て取れるようだった。
 右手で、自らの首筋に触れてみた。王族であることを示す金のチョーカー、そしてデュオからもらった、金のペンダント。与えられただけだ。自分から得ようとしたことは、一度もなかった。
 拳を握りしめ、立ち上がる。窓から身を乗り出すと、夕日の背中へ声をかけた。
「何年かしたら、また会えるか」
 一度で良い、振り返ってくれ。アルトは心の中で、そう叫んでいた。
 この町は『風化した物語』の故郷に違いない。彼の力を借りれば、見えるはずだ。わかるはずだ。自分が今、何をするべきなのかが。
「次に会うのに、何年もかかるの? 僕なら、明日も明後日も会いに来るよ」
「何年先でも良い。また会おう、夕日」
 頭の奥に、鈍い痛みが走る。今までにあの曲を演奏してきたときと、同じだ。目を瞑ったら、きっとまたあの時と同じような幻影が見える。
 夕日が足を止め、ふとこちらを振り返る。
「そうだね、また会おう」
 驚いた。夕日の目も、デュオと同じだ。
 ――希望と、未来を向いている。
 そう思ったのと同時に、アルトは強く目を閉じた。
 途端に周りの風が変わる。今アルトを包んでいるのは、歌を含んだ先ほどまでのような柔らかい風ではなかった。
 炎のはぜるマラキア宮――父王の前で演奏した、あの時と同じ風景だ。アルトは辺りを見回して、それがどの部屋であるのかを確認する。黒い質素な絨毯に、見覚えがあった。
 ナファンの部屋だ。
(それなら――)
 見回せば、それはすぐに見つかった。ナファンが気に入ってどこかから買ってきた、日めくりカレンダーだ。几帳面な彼が、毎朝欠かさずにめくっていたことをアルトはよく知っている。
(四日後の日付)
 次にアルトは、炎を避けて窓辺へ寄った。辺りは炎で明るかったが、見上げた空は随分暗い。煙で星は見えないが、夜であることは確実だろう。
(これがもし、近い未来からの警告なら……)
 四日あるのだ。早馬を仕立てれば、事前に事を防ぐことも、宮殿の人間に注意を呼びかけることも出来る。
 少しでも情報を得ようと、アルトは宮殿の中を走りまわった。以前演奏中に見た幻影には、確か聞いたことのない声が聞こえたはずだ。あの声の主が宮殿に火をかけたのだとすれば、一体どうしてこんな未来が用意されてしまったのか、少しでも掴めるはずだと思ったのだ。
 しかしいくら走っても、あの時と同じようにはいかなかった。次第にアルトが諦めかけ、足を止めたその時だ。
 思わず高い声を上げる。絨毯から火が燃え移り、アルトの服があっという間に火に包まれて――
 目を開くと、荒い呼吸のまま床に座り込んでいた。ふと見上げれば、例の小窓からは聖地ウラガーノの空が見えている。そろそろ陽が落ちるのだろう、うっすらとオレンジ色の光が射していた。
(元の部屋、……)
 やっとの事で立ち上がると、一度大きく深呼吸する。
 今見たことを、外の近衛達に話して早馬を出させるか? だが、おそらくは誰も信じないだろう。信じたとしても、アルトの言うことを聞くだろうかと考えれば、自ずと答えは知れるところだ。
(今はまだ、俺があの宮殿の主だ)
 アルトは部屋のクローゼットを開け、まずは荷ほどきされていた中でも最も地味な紺の服を取り出した。よく見れば質などすぐに知れてしまうだろうが、ウラガーノの神官達だとて、そう粗末なものを着ているわけではない。この程度なら、大丈夫だろう。
 他の服の裏地に赤い布が使ってあったのを思いだし、護身用に持っていたナイフで、幾らかそれを切り取った。薄い布は目の辺りへ巻き付けても、アルトにある程度の視界を保証してくれる。
 手早く着替えた後にふと気づいて、アルトは華やかな柄のスカーフを二枚と、ベッドカバーに使われていたベージュの布を持ち出した。赤い布を添えて一つにまとめると、辺りに誰もいないことを確認し、それを窓から投げ捨てる。
 何食わぬ顔で、クローゼットを閉じれば準備は完了だ。椅子に腰掛け水を飲むと、まもなく騎士がやってきて、夕食の準備が整ったことを告げた。アルトは低い声で返事をし、騎士の後へと素直に従ってみせる。
 大食堂の窓は、アルトの部屋と同じ向きに作られている。その上、食事中ともなれば付き人の数も少数だ。
 アルトは自らの前を歩く騎士の背中をちらりと見て、心の中で呟いた。
(風は、自分の意志で駆けるんだ)
-- 第二章「導きの炎、風の刹那」へ続く --
▼ご感想等いただけましたら嬉しいです。

:: Thor All Rights Reserved. ::