吟詠旅譚

太陽の謡 番外編 // 花冠

番外編 : 花冠

 夕方前のマカオの町は、暖かい匂いに満ちている。
 学校帰りの子供達、夕食の材料を買おうと市場を賑わす者、田舎らしく広い往来に通る牛車に、煙突から出る竈の煙――。
 きょろきょろと辺りを見回しながら、ラトもその一角を歩いていた。その額には、彼以外の誰にも見ることができない札が貼り付けられている。この札もどこまで信用していいものだかラトに確信はなかったが、少なくとも今こうして町を出歩いていられるのは、この札のおかげだった。
 パン屋の前を通ると、つやつやと輝く美味しそうなパンが並んでいる。焼きたてだ。
(あんまりおやつを食べ過ぎて、夕飯が入らないのはまずいよな……)
 そんな事で母さんに感づかれてしまったら、あまりに空しすぎる。ラトがガラス戸の前から立ち去ろうとすると、一瞬、中の店員と目があった。
 人好きのする顔をした、ふくよかな女性だ。彼女がにこりと微笑んだのを見て、ラトは照れくさそうに俯き、すぐにその場を走り去る。
 見知らぬ人から、あんな風に好意的な表情を向けられるなんて。慣れようと思って、そうすぐに慣れられるものではなかった。
 しばらく行くと、町の中心にある学校の前に出た。ニナが通っているのとは別で、高学年の子供達が勉強をする学舎だ。ラトがその近くをうろついていると、垣根の向こうから声がする。
「いや! 返して――!」
「取り返せるもんなら、取り返してみろよ!
 今にも泣き出しそうな少女の声に続いて、はやし立てるような複数の笑い声が聞こえてくる。ラトがひょいと垣根を覗き込むと、ちょうど一人の少年が、茂みに向かって何かを投げつけるところが見えた。
「ひどい……」
「あとは一人で探してみろよ。泣き虫、弱虫、コーコ虫!」
 ラトが見ている隣を通って、少年達が笑いながら去っていく。どうやら皆この学校の生徒のようで、手にはそれぞれ紐で縛った教科書を提げている。ラトは無言で彼らを見送って、それから、たった一人取り残された少女の方へと視線をやった。
 ひっくひっくとしゃくり上げながら、膝をついて泣いている。ラトはああでもない、こうでもないとしばらく考え込んでから、結局少女の側へと歩いていった。しかしだからといって、かける言葉は見あたらない。女の子が泣いているのを見たことがないではなかったが、声を上げてわんわん泣くニナとは随分雰囲気が違って、どうすればいいのだか考えあぐねてしまったのだ。
「あの……。そろそろ、泣きやんだら」
 恐る恐るラトが言うと、彼女は赤く充血して涙で濡れた目を隠すように、そっと浅く顔を上げた。
 答えはない。ラトはこの場に来たことを後悔しながら辺りを見回して、他に誰もいないことを確認すると、困惑気味に溜息をついた。教師か、誰かいれば任せるつもりでいたのだが、そういうわけにもいかないようだ。
「……。……何、とられたの」
「粘土の、ペンダント」
「粘土?」
「授業の余りで、作ったの」
 そこまで言って、また泣き始める。ラトは思わず肩をすくめた。
 そんなことで泣くなんて。もしラトが、ニナにそんな悪戯をしたらと考えてみる。あの勇ましい妹なら、探し出してきたペンダントを持った手で、ラトに殴りかかるくらいのことはするだろう。あるいは、ラトの悪口を言いながら母さんに泣きつくのだ。どちらの姿も、容易に想像できた。
 泣きやまない見知らぬ少女の前で立ちつくしているのもいたたまれなくなってきて、ラトは仕方なく、茂みへ足を踏み入れる。投げられた方向はわかっているのだから、見つけるまでにそう手間はかからないだろう。
「何、してるの?」
 ようやく立ち上がった少女が、目をこすりながら近寄ってきた。茂みに蛇でもいると思っているのか、些か及び腰だ。
「ペンダント、探してるんだ。いつまでも泣きやまないから」
「ご、ごめんなさい……!」
 聞こえないようなふりをして、ラトはそのまま探し続けた。しかし今度は少女の方が、先程のラトのように所在なさそうに佇んでいる。ラトは茂みを探る手を止めると、おずおずと笑いかけながら少女の方を振り返った。
「名前、なんていうの?」
「……ココ」
 そう言って顔を上げたココの瞳にはまだ涙が光っていたが、少なくとも泣くのはやめたようだ。ラトは安堵に胸を撫で下ろして、すぐに彼女から目をそらす。それは胸に溢れてくる違和感から、少しでも逃れたいがためにとった行動だった。
(普通の、女の子だ)
 この辺りの人間によくいる、黒に近い濃い色の髪、同色の瞳。洋服だってマカオの人間らしい、素朴なシャツとスカートだ。ましてや、額にも目があるなどという気味の悪い出で立ちでもない。
「あの、私。私も……」
「うん、一緒に探そう」
 ラトがそう答えると、彼女は嬉しそうにぱっと笑った。そんな様子を見ながら、ラトは浮かない顔で口元を結ぶ。
(普通の子供同士だって、こんなふうにいじめたり、いじめられたりするんだな)
 考えたことが、無いわけではなかったけれど。ラトはそんなことを思いながら再び腰をかがめて、すぐに「あっ」と声を上げる。
 立ち上がったその手には、花の形を摸した粘土のペンダントが握られていた。
 
「ココ。どこにいるの?」
「あっ、お母さんだわ」
 そう言って顔を輝かせ、ココが芝生の上を走っていく。そんな様子を見ながら、ラトはうっすら微笑んだ。かなり遅れてついていくと、ちょうど、ココがふくよかな女性のスカートに顔を埋めるところだった。よくよく見てみると、その相手は先程会ったパン屋の女性であるようだ。
「珍しいね。おまえがこんな風に、葉っぱまみれになって」
 そう言われて、ココが照れくさそうに振り返る。目があってしまったラトは困惑して、居心地悪そうにただ、「うん」とだけ呟いた。何に対しての返事なのだか、自分自身でもわからない。ただココだけは満足したようで、にこにこ笑って母親の手を握る。
「さっきね、ヨル君が謝りに来たよ。また泣かされたの? 目が真っ赤じゃないか」
「だってヨルが、意地悪ばかりするから……。でもね、お母さん。今日は悪いことばかりじゃなかったの。見て。これ、お母さんにあげようと思って作ったのよ。ヨル達には馬鹿にされたけど、茂みに投げられたのを、あの子が見つけてくれたの。――あら?」
 声だけを遠くに聞きながら、ラトは既に垣根の向こうを歩いていた。ペンダントが見つかったのだから、もう良いだろう。
(丘へ帰ろう)
 どうせ、もうじき帰らなくてはならなかったのだ。
「もう、帰るのかい?」
 風と一緒に声が聞こえて、ラトは小さく頷いた。禍人だ。きっと暇をもてあまして、ラトのことを見ていたのだろう。
「昨日は、日が落ちるぎりぎりまで町にいたのに」
「どうせ、明日も明後日もまた町へは来られるんだ。慌ててあれこれ見ちゃったら、後の楽しみが無くなるもの」
 「へえ」と言って、禍人が笑ったのがわかった。
 
 丘へ戻り、羊を集めると、ラトはさっさと家へ戻ることにした。はがした札は丁寧に折りたたみ、ポケットの中へしまい込んである。
 ラトは歩きながら、足下のシロツメクサを摘んでいた。それを器用に編み込んで、花の冠を作っていく。
――これ、お母さんにあげようと思って作ったのよ。
(うまく作れたら、母さんにあげよう)
 星読みの塔にこもりっぱなしの母さんも、これを見たら少しは心を和らげてくれるだろうか。そう思いながら花を摘み、少しずつ輪に足していく。それを見て、ふと、ラトは足を止めた。
(母さん。今日僕はね、町でいじめられている子を見かけたんだ)
 心の中で、話しかける。けっして口に出してはならない言葉だと、知っているから。
(本当は始め、少しだけ安心したんだ。僕みたいにおかしな外見をしているんじゃなくても、いじめられる子はいるんじゃないか、って思ったから。仲間だとも思ったから。けど――あの子と僕とじゃ、やっぱり違う)
 誰かに聞いてほしい。そう思って辺りを見回しても、禍人は既にどこかへ行ってしまった後だった。今日あったことを、思ったことを、誰かに聞いてほしかった。ラトのこの考えがあっているのか間違っているのか、誰かの意見が聞きたかったのに。
 ラトは自分の考えを振り払うように、強く首を横に振った。
 タシャやニナに話したら、町へ行ったことがわかってしまう。札のことまで話さなくてはいけなくなったら、もう二度と町へは行けないかもしれない。
(こんな事考えたって、仕方ない)
 そう考えて、ラトは再び歩き出す。
 ある、夕暮れ時のことだった。
――Fin.

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