吟詠旅譚

太陽の謡 番外編 // 空白の感謝

番外編 : 空白の感謝 * 第一話 *

「ラト、いいかい? よくお聞き」
 そう言ったばあさまがふんわりと笑ったので、ラトも応えて微笑んでみせる。そうできたことは不思議だったが、恐らくこれでいのだろうと思うと、少し心が落ち着いた。
 夏の暑さも幾分和らいだ、秋口の頃のことだった。マカオの町はずれにあるこの家の中に、今は二人の話し声以外、聞こえるものは何もない。どうやら竈の火も消えてしまったようだし、今日の夕飯はいつもより遅くなりそうだ。
(ばあさまが言うことなら、何だって聞くよ。だから――)
 手を延べて、皺だらけのばあさまの頬にそっと触れる。簡素なベッドに身を横たえた彼女の体は弱々しく、今にもかき消えてしまうのではというほど、何か儚い物に思われた。
 ばあさまが倒れたのは、二日前の事であった。
 秋だというのに滅法暑く、じりじりと焦がすように太陽の光が降り注いでいたその日、放牧から帰ったラトは目の前の事態に青ざめた。いつもなら笑ってラトを出迎えてくれるはずのばあさまが、背を丸め、小さくなって、畑に倒れているのを見付けたからだ。
 ばあさまは始め、軽い熱中症だと言って笑ったが、ラトにはそうは思えなかった。ばあさまの額には大粒の汗が浮いて、皺の刻まれたその頬も、すっかり土気色に見えていたのだ。しかし手を打つ暇もなく、まるで釣瓶が井戸へ落ちるかのように、彼女の病状は悪化の一途をたどっていた。
「さよならする時が、来たみたいだねぇ」
 ぽつりと聞こえたその声が、ラトの脳裏にこだまする。
「ばあさま、一体なにを言うの――」
「ラト。私が死んだ後のことは、今まで何度も聞かせてきたね。……この家には、町から新しい占い師が来ることになっている。まだ若いけれど、堅実で賢い女だよ。きっと、お前にもよくしてくれる」
「そんなの、僕は……」
 そんな言葉は聞きたくない。この先のことなど考えたくもない。けれどそう我が儘を言ってしまったら、この老婆はどう思うだろう。呆れるだろうか。悲しむだろうか。握りしめた指先へ、知らずのうちに力が入る。今にも溢れ出そうとする嗚咽を、ラトは必死に飲み込んだ。
 泣いてはいけない。こんな時に、ばあさまを困らせてはいけない。しっかりしなくては。
 しっかりしなくては。
「僕、町の人達を呼んでくる。それにバーバオから、お医者を連れてきてもらわなきゃ」
 言うと、皺だらけの手がぴくりと動いた。そうしてラトの方へと延べられた手は、微かな震えを伴っている。その手がラトを求めていることは明白だったが、ラトにはそれを、すぐに握り返すことは出来なかった。
 不用意に触れてしまったら、何かを壊してしまう気がした。
「その必要はないよ。私には、お前がいてくれるだけで十分なんだから」
「ばあさま、喋らないで。酷く汗をかいてる。また熱が上がったんじゃ――」
 彼女はただ、静かに首を横へと振った。赤くなったばあさまの目許へ、じわりと澄んだ涙が浮かぶ。
「ラト。精霊達から預かった、何より大切な私の宝物……。老いた孤独な私にとって、お前の優しい微笑みが、野山を駆け回る元気な姿が、どんなに尊い物に思えたか、お前にはきっとわかるまい。――ああ、だけど……。私は一体、お前に何をしてやれただろう。お前に何を遺せただろう」
 優しいばあさまの声。しかし今は、今だけは、それを耳にするのが怖い。
(――いやだ)
 辺りがやけに、静かであった。精霊達が何故だか皆、遠巻きに口をつぐんでいるのだ。その異様さが、余計にラトを焦らせる。
 遂にその時が来たのだと、思い知らされるようだった。
(僕だって、ばあさまと暮らせて幸せだった。ばあさまのことが大好きだった。だからそんなことを言わないで。どうか、どうか、……)
 心の中で何度も叫んだ。だがその先に続くたった一言が、言葉になって出てこない。代わりにラトの冷え切った指が、震える彼女の手に触れた。
 ああ、――暖かい。
「ラト。お前は強い子だ。町の人間に何を言われても、そうやっていつも歯を食いしばって、負けるまいと踏ん張っていたね……。だけど肝に銘じなさい。どんな時も、独りきりで戦おうとしては駄目よ。お前に与えられたものはあまりに大きくて、一歩間違えばお前自身を滅ぼしかねない。誰かが手を差し伸べてくれたなら、迷わずその手を取るんだよ……。お前にそれを、上手く教えてやれなかった事だけが心残りだ……」
 暖かい指先から、唐突にふっと力が抜けた。それを慌てて強く掴むと、ばあさまの目許に、再び透明な涙が浮かぶ。
「僕のことなら、大丈夫だよ……」
 やっとの事で絞り出すと、ばあさまが薄く微笑んだ。それなのにラトの胸にはぽつりと、裏腹の言葉がこぼれ落ちる。
 いかないで。
「大丈夫だから、……心配しないで」
 ばあさまを心配させてはいけない。しっかりしなくては。そう思うのに、心の声が鳴り止まない。
「大丈夫だよ、ばあさま。僕は大丈夫。……大丈夫だから」
 いかないで。
 不安なんだ。寂しいんだ。どうしようもなく怖いんだ。
「ラト。私の、……愛しい……」
(だからどうか、僕を置いて行かないで――!)
 その日、眠るように一人の占い師が死んだ。ラトが八つの時の事だ。
 不思議と涙は流れなかった。嗚咽の一つもこぼさなかった。
 代わりにラトの心の中で、何かが軋んだ音が聞こえた。
 
(どんな時にでも、太陽は昇るんだな……)
 そんなことを思いながら、ぼんやりと井戸の水を汲む。そうしながらラトはふと、マカオの町へと続く石ころだらけの道を見た。
 ばあさまが死んでから、一週間も経った頃の事である。
「今日、か……」
 呟いて、ひとつ大きな溜息をこぼす。同時に腹の鳴く音が聞こえてきて、更に大きく溜息をついた。腹が鳴るのも当然だろう。この数日間ラトは、すっかり乾いて堅くなってしまったパンと、ろくに火の通っていないスープしか口にしていないのだ。
(確かに、この丘に僕一人で住むのは無理だけど)
 食事のことも、羊たちの世話のことも、この一週間でよくわかった。年老いたばあさまの足腰は弱く、今までも多くの仕事をラトがこなしていたとはいえ、やはり彼は八つの子供でしかなかったのだ。一人で火を使うのにも慣れないし、ばあさまの煎じた薬だって、使い方のわかるものは半分もない。
(それに)
 一番恐ろしいのは、夜だ。ラトは昨晩のことを思い出して、思わず小さな身震いをした。
 町から離れた丘の夜は暗く、深閑としている。視界を照らすものが月明かりのみであることは言うまでもなく、辺りを取り囲んだ森のさざめきや野生動物の声などは、容赦なくラトを孤独に追いやるのだ。
 夜の森には、よくないものが出るという。
 精霊達とは似て非なる、幽霊、それに化け物の類。物語の本に登場するそれらも十分恐ろしかったが、闇夜を見る度ラト自身も、そういった何か得体の知れないものに手を引かれるような気がして、気味が悪くて仕方がなかった。
――大丈夫。そんなものがやって来たら、たちまち私が退治してあげるからね。
 そういってくれたばあさまも、今ではもういないのだ。
 桶を棒に吊り、肩に担いで歩いていく。踏みしめる大地は草に覆われさくさくと鳴り、精霊達はいつものように、舞い踊りながらラトの耳元を掠めていく。
「化け物が、化け物の影に脅えるのか?」
 呟くようにそう言って、ラトは小さく口笛を吹いた。以前、食料を運んできた町の人間に言われた言葉だ。その時には悲しくて悔しくて仕方がなく思えたその言葉が、今ではまるでまじないのように、ラトの心を守っている。
 それはあまりに脆弱で、叩けば簡単に砕け散る、硝子のような守りではあったけれど。
 心に渦巻く不安の種を消し去るように、小さく歌を口ずさむ。そうしてもう一度だけマカオの町へと至る道を振り返ると、ラトは静かに道を逸れた。
 今日の午後、この丘へ新しい占い師が訪れることになっていた。
――まだ若い占い師だけれど、堅実で賢い女だよ。きっと、お前にもよくしてくれる。
(ばあさまは、ああ言ったけど)
 町の人間がどれだけラトを嫌っているか、ラトは十分よく知っていた。嫌われていると言うより、いっそ憎まれていると言っていい。それ程冷たくあしらわれるのだ。だから不安でならなかった。新しく来る占い師というのも、昨日までは町に住んでいた人間なのだから、ラトを恐れ、憎んでいるに違いない。
 いつか町の人間が来た時のように、悪戯に物置へ閉じ込められたらどうしよう。家にいれてもらえなかったり、意地悪をされたりしたら。
(僕には、化け物も人間も同じくらい怖いや……)
 家へと帰るその歩みが、重たいものになっていく。それでもいずれ丘の上からラトの小さな家が見える場所へまで来ると、その向こうに、地面の窪みへ車輪をとられて、立ち往生する幌馬車が見えた。
(あの馬車に乗って来たのかな)
 しかし馬車を動かそうと足掻く人々の中に、女性の姿は見られない。ラトはその場へそっと桶を置き、覗き込むように丘の下を見下ろした。そこに件の占い師がいるのなら、ひと目、先に見ておきたかったのだ。しかししばらくそうして見ていても、それらしき姿はどこにもなかった。
 車輪がとられているというのに、中に人が乗ったままということはないだろう。しかしいるのは男ばかりだ。ならば占い師だけ、先に丘の家へと向かったのだろうか。
 男達が声をかけあい、木の板で車体を押し上げようと奮闘している。ラトはその様子をぼうっと眺めながら、手頃な石に腰掛けた。見物はするが、手伝いに行こうという気は起こらない。行ったところでかえって彼らを脅えさせ、邪険に扱われるだけだろうとわかっていたからだ。
 こんな時には手出しはしない。彼らもそれを望まない。――しかし、その時だ。
 精霊達が唐突に笑い出したので、ラトが慌てて振り返る。太陽の光に一瞬視界が眩んだが、すぐに、目の前に立つ人影の存在に気がついた。
「目の前で人が困っていても、あなたは助けにも行かないのね」
 細いラインを描く体。声は穏やかなのに、どこか威圧的な感じがあった。逆光でその顔はよく見えないが、どうやら女性であるらしい。
(ばあさまの言っていた、占い師――?)
 ラトははっと息を呑み、ポケットから取り出したスカーフを、額を隠すように巻きつけた。しかし彼女は頓着する様子も見せず、ただつかつかと歩み寄る。
 風に煽られ、長い黒鳶色の髪が揺れる。彼女はそれを無造作に払いのけると、ラトに向かって笑いかけるでもなく、ただ視線だけを合わせてこう言った。
「私はタシャ。先代の大ばあさまの跡を継いで、丘の家に住むことになりました。もう何日かしたら、娘も来ます。……これからよろしくね、ラト」
 ぶっきらぼうな物言いに、ラトは思わずぽかんとする。
 今までに友好的な表情を向けられたことの少ないラトにでも、彼女のその物言いが「よろしく」といった類のもので無いことくらいは容易に知れた。その上彼女は早々にラトから視線を逸らすと、身軽に丘を下っていってしまう。
(ばあさまの跡を継いで、丘の家に……あの人が……)
 言われた言葉を、脳裏でもう一度繰り返す。そうしているうちにまた、丘の下から素っ気ない声がした。
「ラト、何しているの? 早くこっちを手伝って」
 びくりと肩を震わせる。しかし反射的に立ち上がると、ラトは大慌てで桶を担ぎ、滑るように丘を下った。
 空の深く澄み渡る、ある、秋の日のことだった。
To be continued...

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