吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

049 : Spectaculum -2-

――都へ行くには砂漠を越えなきゃならない。俺にだって、怪我人を抱えて楽に進める道じゃないのさ。なのにそんな依頼を、報酬が見込めるかもわからねえまま引き受けるわけにはいかないね。
 マカオを旅立つ際、キリはラトにそう言った。
 夏の終わりのマカオの道。矢を射られた傷も塞がらぬまま、足を引きずりその場へ赴いたラトは、その時確かに、決意を固めたつもりでいたのだ。
 ニナに会わねばならなかった。故郷も家も母親も、全てをラトに奪われたこの憐れな妹に、何もかも包み隠さず伝えなくてはならないという、使命感に突き動かされていた。ニナを追って暁の都へ向かわなければならない。その為に、唯一の頼みの綱であったこの旅人に、なんとしてでも話をのんで貰わなくてはならなかった。
 眉をしかめられても、差し出せるものなど何もない。だからラトは聞いたばかりの、『その言葉』をアテにした。
「報酬が気になるなら、こうしよう。都に着いて、僕が相応の報酬を払えなかったら、その時は僕を売ってお金にすればいい。少し前に、僕を見せ物小屋へ売ろうと言った奴がいた。この化け物じみた目にも、そういう価値はあるんでしょう?」
「馬鹿言え。今更そんな、後味の悪いことが出来るかよ」
 間髪入れずにそう答えたキリは、それがどういうことなのか、よくよく理解していたのに違いない。
 そうだ。奴隷として、労働力として売られるのとはわけが違う。
 今更ようやく、自覚した。
 ラトが取引に持ちかけたのはつまり、――こういうことなのだ。
 
「ラト、大丈夫かい? あんた真っ青な顔してるよ」
 背後からかけられたルクサーナの言葉に、応えることが出来なかった。頭でも殴られたかのような衝撃に、すぐには言葉が出てこない。そうする合間にも周囲の檻からは複数の吐息が溢れ、鎖を引く音が静かに響いていた。
 ラトの見下ろす二股の蛇は、ぴたりと止まって動かない。竦んでいるのだろうかと考えて、しかしラトは蛇の口元を見るや、息を呑み、手に持っていた覆いの布を投げつけた。
 動かぬ蛇の口元からは、だらりと舌がのびていた。
 既に変色し、乾燥しきって痩せた舌が。
(――、死んでる。でもこれは、……何か薬で、防腐処理がされているのか)
 震えが沸くのを必死で堪え、己の口元を片手で覆う。蛇の死骸など初めて見たわけでもないのに、一体何だというのだろう。体中に怖気が走る。激しく動いたわけでもないのに、何やら息が切れていた。苦しい。呼吸をせねばと思うのに、何故だかそれが覚束ない。
 ラト。
 誰かに呼ばれた気がしたが、誰の声かもわからない。しかし、
「ラト!」
 抑え気味に呼ぶ声が、ラトの視界を震わせた。否、怒気を孕んだ口調で名を呼ぶキリが、ラトがその場につんのめるほどの勢いで、背中に平手を打ったのだ。
「……、キリ」
 噎せて小さく咳き込みながら、やっとの事で振り返る。先程までクレモナと共にいたはずなのに、いつの間に寄ってきたのだろう。キリの顔がラトの眼前に迫っているのを見、小さく唾を飲み込めば、相手は苛立たしげに溜息を吐く。そうして舌打ち混じりに、「しっかりしろ」とまず言った。
「何を呆けた顔してる。立ち止まるな、考えろ。お前はこんな所で、時間を無駄にしていられるご身分か?」
 問われて思わずぎくりとした。「違う」咄嗟にそう返したものの、ラトは一体自分自身が、何を言おうとしたのか判ぜなかった。
「違う、そうじゃない。……ただ、僕は」
 静かに首を横に振り、しかし言葉が続かぬまま、そっとその場へ視線を落とす。
 存分に思い知らされてきたはずだった己の立場を、今改めて理解した。それだけだ。そのはずだ。けれど突然腹に落ちたその焦燥が、心に上手くまとまらない。
「ここ、なんだか変に寒いわ。嫌な感じがする。はやく行きましょう」
 己の肩を抱くクレモナが、そう言いラトから距離を取る。人並みの視覚を持たぬクレモナは、この場をどう視たのだろう。しかしそうして、身を縮こまらせるクレモナを振り返るより早く、
「ふざけんな!」
 外から聞こえたその怒声に、今度こそびくりと身体が跳ねた。聞き覚えがある。つい先程、この幕屋の中で言い争っていた男の声だ。すっかり意識の外に追いだしてしまっていたが、まだすぐ近くに留まっていたらしい。
 「ねえ、はやく行きましょうってば」懇願するようなクレモナの声に、キリが彼女の手を引いた。棒立ちになったラトを気遣うように、ルクサーナがその背を押していく。その一方で外からは、鞭打つような風を切る音と、男の怒声が響いていた。
「天下のアバンシリにまで来てトリアが使えねえんじゃ、見せ物が成り立たねえんだよ! このままじゃ、曲芸の出来ない俺達はみんな座長に追い出されちまう。歌えよ、昨日みたいに! さあ、はやく、今すぐだ!」
(歌――?)
 ルクサーナに押され、声とは真逆の方向から幕屋の外へ歩きながら、ラトは考えのまとまりきらぬ頭で、その単語だけを理解した。
 歌。そうだ、彼女の歌が聴きたい。
 棺の中でラトを励ましたのも、マカオの丘でラトを立ち上がらせたのも、全て彼女の歌だった。今すぐ彼女のもとへ走り、あの笑顔で迎えてもらうことができたなら。そうすればこの、得体の知れない焦燥も、掻き消してしまえるだろうか。
 この恐怖は晴れるだろうか。
「やっぱり昨日見たっていうのは、何かの勘違いだったんですって。それより、トリアの傷を隠す方法を考えましょうよ!」
「できると思うのか? やれるもんならやってみろ! くそったれが、これだから――、羽を縫い付けた時点で、すぐに腑抜きして、剥製にしちまえばよかったんだ!」
「そんなこと今更言ったって……、ああ、もう、この狼が人間みたいに歌ってたっていうの、本当に本当なんですかぁ?」
 その言葉に、再びラトの足が止まる。
(今、――なんて)
 歌う狼。
 一瞬で目の前が真っ白になった。まるで凍り付いたかのように、両足が上手く動かない。苛立たしげに檻を蹴る音、悲鳴にも似た獣の声。キリが舌打ちしたのがわかる。彼も恐らく、状況を理解したのだろう。
「……、ハティア」
 その呟きが声になっていたのかどうか、それすらラトにはわからなかった。
 歌う狼。ハティアのことだ。断片的な情報を耳にしただけだというのに、ラトには確信があった。狼の姿を借りる彼女は、町の中には入れない。だからアバンシリに入る手前で別れて、五日後にまた町の外で合流しようと約束した。ラト達がアバンシリに滞在している間、彼女は一人で、近くの原に身を潜めていることになっていたはずだ。けれど。
(昨日の夜も月が出ていた。ひとりで歌っていたところを、一座の人間に見つかったのか)
 背筋に冷たいなにかが走る。そこに囚われているのがハティアなら、今すぐ助け出さなくては。一人でいるうちにこんな事になって、不安な思いをしているのに違いない。
 助けが来るのを、待っているのに違いない。
(助けなきゃ、……今すぐ振り返って、ハティアの所へ、)
 もはや隠しきれないほど、指先が強く震えていた。キリが、ルクサーナが、小声で何かを語りかける。しかしラトには彼らの方へ顔を向けることも、応えることも、ましてや彼らが何を語りかけているのか、まともに理解することさえ出来なかった。
 瞬間、世界がやけに静かに思われた。取るべき行動は理解しているはずであった。動かなくてはとそう思う。
 それなのに。
(指が、……身体が動かない)
 だがその事を恐怖する一方で、腹には不思議な納得が落ちる。動かなくてあたりまえだ。何故ってあんなに変色して、乾燥しきっていたのを、先程見たばかりではないか。痩せ細っていた。随分前から、酷い仕打ちを受けていたのだ。動けるはずがない。動けるはずがない。混乱する頭で必死に思考を巡らせるラトの脳裏に、先程見た二股の蛇の、白濁した両目が思い浮かぶ。
(違う、それはあの蛇の身に起きた事で、……僕はあの蛇とは違う、違う、自分の意志で動けるはずなんだ。――けど)
 前にも後にも動けない。その事にまた焦燥が募る。噴き出した汗がラトの額当てを湿らせていく。キリがラトの腕を掴み、ルクサーナがラトの背中を押した。それでも身体は動かない。だが、その瞬間。
「やめて、だめ――、それ以上わたくしに近づかないで!」
 突如聞こえた叫喚に、弾かれたように顔を上げる。見ればラトと同じかそれ以上に顔を青くしたクレモナが、何者の姿もない虚空に向かって手を振りかざし、周囲を憚らずに叫んでいたのだ。
「わたくしに触れないで、近寄らないで! 嫌、こっちに来ないで、……!」
「おい、一体何だ? そこに誰かいるのか!」
 ルクサーナが慌てて手を伸ばし、クレモナの口を塞いだが、その時には既に遅い。幕屋の向こう側から声が聞こえるのと同時に、声の主がこちらへ向かってくる気配が感じられた。
「行くよ」
 ルクサーナがクレモナの手を引き、強引に駆けていく一方で、キリがラトの肩を掴む。「でも、」辛うじて出たその言葉に、彼は有無を言わさぬ様子できっぱりと、首を横に振ってみせた。
「ここに残って、お前に何が出来る? その情けない面で迎えに来られたんじゃ、ハティアだって迷惑だろうよ」
 キリの言葉は偽らない。
 痣になるのではというほど強く腕をひかれ、ラトもようやく駆けだした。
 つい先程までぴくりとも動かなかったラトの身体は、震えを残してはいるものの、それでも十分疾く駆けた。
――もう前みたいに、『一緒に行こう』とは言ってくれないの?
 棺の中の世界で、不安げにそう問うたハティアのことを思い出す。現実の世界で身体を失っても、指先の震えを隠しながら、気丈に振る舞った彼女の笑顔を思い出す。
「僕は、……」
 駆けていることとは別に、息が切れて仕方なかった。頭が痛んで仕方なかった。それでも脚は駆けている。恐ろしいものから逃れるために、ラトの足元に蹲り、今にもラトを貪ろうとする何かから逃げおおせるために、ラトは必死に駆け抜けた。
 
「ここまでくれば、もう大丈夫かね」
 旅一座の幕屋群を抜け、人混みに紛れるように町の中を通り抜けた。そうしてしばらく進んだ後、それまで一行を先導していたルクサーナは、廃屋じみた建物の前に立ち、頬の汗を拭いながらそう言った。
 「ここは?」周囲に視線を配りながらキリが問えば、ルクサーナがふふんと笑い、「あたしの家だよ」と軽く答える。
「滅多なことじゃ、他人は招かないんだけどね。あんた達、色々と訳ありなんだろ? まあひとまず入りなよ。悪いようにはしないからさ」
「それは助かるが、……お前、一体何者だ。この様子じゃ、ただの酒屋の店員ってわけじゃないんだろ」
 答えるキリの声は堅い。だがそれを見たルクサーナは、「まあね」とあっさり、キリの言葉を肯定した。
「ちゃんとした自己紹介が遅れて、悪かったね。あたしの名前はルクサーナ・ジャシュタット。本職は情報屋だよ。面白そうな話のタネを集めては、それを売って、金にしているのさ。あの旅一座、前々から胡散臭いとは思っていたけど、ラトに便乗して潜り込んでみて正解だったね。四枚羽根のトリアは人工、二股の蛇は尾を裂いただけのただの死骸。アフサン人奴隷の話も気になるし、なかなかの収穫だったかな」
 やっとのことでここまで同行したクレモナが、肩で息をしながらへたり込む。それを見たルクサーナは彼女を屋内へと誘いながらも、にこにこと随分上機嫌だ。
「この界隈の情報屋は、ハガラが牛耳ってるはずだろ? あの親父とは何度か接触したけど、お前の名前は聞いたこともない」
 胡散臭げにキリが言っても、ルクサーナはちっとも気にする様子がない。「安売りされない身分ってことさ」とだけ言って笑うと、彼女は己の胸元に手を入れ、首から提げていた何か、――指輪のようなものを見せ、「こう言えば安心してもらえるかい?」と言葉を続ける。
「あたしはね、『キリ・ブラウ』が支障なく暁の都へ旅立つ為の援助をするよう、依頼を受けているのさ。元々、ラトに近づいたのもそういう理由があってのことでね。……依頼人はクラヴィーア貴族のマルカート・ファ・ラ・ダンシールと、シロフォノ・ドゥ・ラ・カンシオン。昨晩会ったと思うけどね。どういう事情かは知らないけど、あの二人はどうあっても、キリ、あんたを都へ向かわせたいみたいだよ」

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