吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

044 : Joculator -2-

「汚れた包帯を一度外して。傷口を洗ってないんでしょう。それじゃ、傷が膿んで余計に酷いことになる。……違う、あんたじゃない。止血帯は外すな。失血死したいのか?」
 針を火で炙りながら、声を上げて指示をする。相手の男がぎくりとした顔をして、おずおずその場に座り込んだのを見届けると、ラトは用意していた細い糸を、針の穴にくぐらせた。
「そ、その糸で縫うのか?」
 目の前に座り、血で濡れた腕を差し出す男が、顔を青くしてそう問うた。「腕が惜しいなら、それが良いと思うけど」と答えれば、相手はしかし文句も言えぬまま、視線を遠く彷徨わせる。賢明だ。視線を逸らし、気を紛らわせてくれていた方が、ラトとしてもやりやすい。
 ちらと視線を上げて周囲を見れば、他にも数名の怪我人が、蹲って自分の番を待っていた。きびきびと動くルクサーナがその間を駆け巡り、濡らした布で人々の傷口を拭っていく。手際が良いのは慣れ以外に、要領の良さもあるのだろう。なんにせよ、この場で怪我人の面倒を見られるのは、ラトの他には彼女一人なのだから、彼女の働きの良さはラトにとって幸いであった。
 広場に組み立てられたいくつもの幕屋のうち、端に建てられた幕屋のひとつの中にいる。施療院からやってきた医師達が中心の幕屋で治療にあたっているらしく、薬師を名乗ったラトは、こちらの幕屋で手当てをしてほしいと通されたのだ。
「おまえさん、薬師なんだろう? それなのに随分慣れた手つきじゃないか」
 早々に手当てを受け、周囲を眺めていた男が言うのを聞き、「そうですか?」と短く言葉を返す。実際、傷を縫合した経験など、マカオの丘で飼っていた羊が怪我をした時の他、キリの腕の治療と、己の足の治療のみであるのだが、慣れて見えるというのなら、それをわざわざ否定する必要もないだろう。
「そうさ。薬師なんてのは大抵、効くんだか効かないんだかわからないような薬を寄越してくるだけで、血を見ると竦み上がっちまうようなやつも多いのに」
 そういうものなのだろうか。そう思いながら糸を切り、その上に包帯を巻いてゆく。
(マカオに医師はいなかったから、母さんはどんな治療も請け負ってたな)
 マカオの町の人々は、家族が病に伏せったとき、怪我を負ったとき、迷わず丘のタシャを訪ねた。彼女は一介の占者に過ぎなかったのだが、田舎の小さな町にあって、暁の都で学んだ事すらあるタシャの知識は、人々に重宝されていたのだ。
(そういえば母さんは、いつ、どうして都で学んでいたんだろう)
 次の患者の傷を見ながら、そんな事をふと思う。ニナは忘れていたようだが、タシャがいっとき暁の都で暮らしていたということを、ラトは一度だけ本人の口から聞いた事があった。ラトがまだ幼い頃、町の人間が戯れに投げた石を避け損なって、ぶつけた頬を酷く腫らしてしまったとき。タシャはラトの怪我の手当てをしながら、怒るでもなく、悲しむでもない穏やかな口調で、遠い都のことをラトとニナに話して聞かせたのだ。
「遠い都にはね、この丘にはないものが沢山ある。良い物も、悪い物も。だけど不思議ね、この丘には溢れているのに、都にはないものも沢山あるのよ、――」
 「ふたりとも、いつか大人になったら、自分のその目で確かめておいで」タシャはそう話しただけで、己の身の上のことなど、何一つ語りはしなかったのだが。
(マカオから都へ向かうだけだって、こんなに大変な道のりなのに。母さんはそれを、往復したんだろうか。いや、そもそも、)
 彼女は、元からマカオの人間だったのだろうか。
 次の患者の手当てを始めながら、そんなことを考える。思い起こしてみれば、ラトと同じくあの丘に住み、町とは距離を隔てて暮らす彼女を訪ねてくる人間は、いずれもタシャの力を必要とする者であり、――共に世間話をするような、彼女の友人らしき人間が訪ねてくることは、ついぞなかった。彼女の親の話など、一度も聞いた事がない。わかっているのは、彼女がいつか都からマカオへ下り、ニナを産み、夫に先立たれた後に、ばあさまの仕事を継いだということだけだ。
(必要以上に人が訪ねてこなかったのは、母さんの側に僕が、……丘の化け物が、つきまとっていたせいかもしれないけど)
 調合してあった軟膏をすくい取り、患者の傷に塗りたくる。「いててっ」と不満げな声が聞こえてきたが、お構いなしだ。
「おい、なんなんだその薬は! 傷に染みるし、くせえし、そんなの塗って効くのかよ!」
「効くよ。汚い手で掻きむしらなければね。それだけ擦り剥けてたんじゃ、何を塗ったって痛むのは当たり前だろ」
 薬の上から手早く包帯を巻き付けると、そう言い置いて席を立つ。幕屋の隅に置いていた薬剤を、いくらか取りに戻る必要があったのだ。
「おまえ、もう少し優しい言い方は出来ないの?」
 呆れた口調でそう問うたのは、クレモナだ。ルクサーナに手を引かれてここまでついてきた彼女は、しかしなんの仕事も出来ないため、薬剤と一緒に隅の方へ座らせていたのだ。
 役立たずは黙って座っていろ、とラトに言われたことを、恐らく根に持っているのだろう。膝を立てて座りこみ、頬杖を突いた彼女は「さっきから随分えらそうね」とむくれ顔だ。
「優しく言えば、傷の治りでも早くなるの?」
「傷を癒そうとするなら、患者の心に寄り添うことは必要だわ」
「へえ、そう。勉強になる」
「わたくしの言う事なんて、右から左に聞き流しているだけのくせに」
 よくわかっているじゃないか。そう思いながら、しかし声には出さず薬剤を掴む。ただ座っていることしかできない彼女の言葉に、いちいち取り合うのは面倒だ。そうしてふと顔を上げれば、ラトにこの幕屋の人間を看るようにと指示した人間が、いつの間にやら戻っていた。
「ありがとうございました。この幕屋の人間は、あらかた手当てしていただいたようですね」
 ひょろりと背の高い、色白の男である。彼もこの旅一座の一員であるらしい。自身は怪我を免れたらしいこの男は、ラトに簡単な指示だけを残して、どこかへ行ってしまっていたのだ。戻ってきたということは、他での仕事を終えたのだろうか。
「他の幕屋には入らず、ここの人達の手当てに専念するように――。指示されたとおりにしましたよ」
 ラトが淡々と報告すれば、男はにこりと微笑んだ。いかにも優男といった風貌の彼がそうして笑う表情は、まるで少女のそれのようだ。だが無邪気さとはほど遠い、何某かの威圧感がそこにある。
「それでは、こちらが御礼になります。盗賊達に手ひどくやられてしまって、あまり多くはお支払いできないのですが」
 そう言って手渡された額を見て、ラトは内心、安堵の溜息を吐いた。五千セシードほどはある。この幕屋内にいる三十人もの手当ての見返りとして、多いか少ないかは今ひとつ判断できないが、これだけあればこの町での滞在費を賄った上で、次の砂漠越えの準備も始めることができそうだ。この場での利益はあまり見込んでいなかったのだが、思わぬ収穫となった。
「十分です。ありがとう」
 目を伏せてそう言えば、目の前の男がまた微笑んだ。その明るい色の瞳が、じっとラトの事を見ている。居心地が悪い。彼の視線を避けるように、ふいと顔を背け、残った患者に手を延べる。彼の視線がルクサーナへ移ったのを見て、ラトは小さく溜息を吐いた。
 この心地悪さの正体に、ラトもそろそろ気づいていた。当たり前に生活をしている人々が、当たり前に他者に向けるその視線。目の前の相手に興味を持ち、ただ無邪気に、不躾に、相手を知ろうとする視線。
 それがラトには、息苦しいのだ。
「血が止まったら、傷口を水で流して薬を塗って下さい。強くこすらないように」
 患者が頷いたのを見て、ひとつ小さく息をつく。これで全員を看終わっただろうか。振り返れば、色白の男の姿は既にない。
「ラト。他には何か、手伝えることはあるかい?」
 同じく手当ての代金を受け取ったのであろう、ルクサーナが金を懐にしまいながら、ラトに向かってそう問うた。だがラトが何かを答える前に、待ちくたびれていたのであろうクレモナが、「終わったの?」と声をかける。
 そういえば彼女は、このままラトにつきまとう気でいるのだろうか。こんなに人のいるところで、また失言をされては困るのだが――。
 しかしそんな事を考える側から、遠慮がちに幕屋の入り口が開くのをみて、ラトは眩しさに眼を細めた。傾き始めた西日が、ちょうど幕屋の内部を射すように照らし出したのだ。
 今度は誰が訪れたのだろう。視線を上げて見てみれば、見覚えのある顔である。ボロの服を身に纏い、左肩に傷を負った体格のいい男。先程幕屋の前で会った、――奴隷の男である。
――見たろ、あの肩。奴隷だよ。さっきのはね。
 ここへ訪れて最初に彼に出会ったとき、ルクサーナはそう言って、ラトを彼から遠ざけた。奴隷。その存在については、ラトも少しは知っている。人間でありながら、家畜と同じに金で買われ、主人のために働く人々の事――。
「あの、」
 遠慮がちに男が声をかけても、応じる者は誰もいない。だが男の傷が先程のまま、何の手当てをされた様子もないのを見て、ラトは一つ頷いた。きっと彼も、手当てをしてほしいのだろう。
 だが一度片付け始めた薬剤を、ラトが再び取り出そうとしたのを見た一人の女性が、「駄目だよ」と囁いた。「あいつらは、この幕屋には入れない。それに手当てをしたところで、あんたには何の得もないよ。奴隷とは言っても、あいつらはうちの一座が好んで買ったわけじゃなく、色々あって仕方なく働かせてるだけだからね。支配人はあいつらのために、金を払うことはしないだろうよ」
「……、そうですか」
 親切な女のその言葉に、ひとまず頷いておく。そうする間に奴隷の男は、恐らく察しをつけたのだろう。幕屋の中の人間達に遠慮をするように、肩を縮こまらせ、音もなく、そっと外へと戻っていく。
 その事でラトは、あらかたのことを理解した。
 広げていた道具と得た報酬とを鞄に詰め、「行こう」とルクサーナに声をかける。彼女は心得たというように頷くと、座り込むクレモナに手を延べた。「ありがとう、助かったよ」と、団員達からの声。ラトは「お大事に」と会釈した。
 ジャミルの酒場でされたほどの厚遇ではないにせよ、ここの人間達はラトのことを一人の薬師として扱った。薬屋の主達のように、ラトを侮るわけでもなく、手当てに感謝をしさえした。
 けれど。
 何食わぬ顔で幕屋を出る。午後の陽はまだ長く、明々と辺りを照らしていた。この一帯には布の幕が貼られ、喧噪の飛び交う市場とは隔てられている。
「あっちの立派な幕屋では、お医者が治療してるんだっけ?」
 物見高い様子でルクサーナが言うのを聞いて、ラトは思わず苦笑した。彼女が何を言わんとしているのか、すぐに理解が出来たからだ。
「そうだよ。きっとあっちの幕屋には、この旅一座のお偉方がいるんだろう。流れの薬師なんかに、治療を任せちゃいけないような人達がね。――そうだ、それがわかったら、昨日薬屋でぞんざいにあしらわれた理由にもやっと合点がいった。あれはつまり、『分をわきまえろ』って言われてたんだ」
 「おや、今更気づいたのかい?」からからと、明るく笑うルクサーナの声。手を引かれるクレモナは、「何のこと?」と不可解そうだ。
「おまえはちゃんと、……あの者達の怪我を手当てして、感謝されていたじゃないの。おまえが案外上手く手当てするのを見て、『いい薬師に来てもらえた』って、喜んでいたわよ。医者が医者の仕事をして、おまえはおまえの仕事をした。そうでしょう?」
 それが善意から出た言葉であることは、ラトにもよくわかっていた。それでも答えることはしない。何か心に靄がつかえて、素直に頷けなかったのだ。それに彼女の言葉を聞く傍ら、ラトはある人物を探していた。
 物陰から、押し殺すような低い声。それも複数だ。きっと彼もそこにいるのだろうと当たりを付けて、声の方へと歩み寄る。
「行くのかい? この先は、本当にただの慈善活動にしかならないよ」
「今日の分は、もう十分に稼いだから。ルクサーナは先に戻ってくれて良いよ。ああ、でも、クレモナのことも連れて帰って」
 有無を言わさぬ声でラトが言えば、クレモナがはっとその場に立ち止まり、ルクサーナの手を掴み直す。それを見るとルクサーナは、小さく笑ってこう言った。
「いいさ、付き合うよ。物事には順序があると思ったから、さっきは他を優先したけど、奴隷だって人間だからね。オアシスでは『助け合い』が鉄則さ」
「別に良いのに。クレモナを連れて行ってもらえれば、静かになるし」
「な、なんですって? さっきだってちゃんと、邪魔せず待っていたじゃないの」
 憤慨するクレモナを宥めすかし、ルクサーナが颯爽と歩いて行く。ラトはそれを追い、すぐに追い越すと、物陰に顔を覗かせた。
 大きな幕屋の陰に、つんと鼻を突く血の臭い。見れば数人の人々が、身を伏せ、布もあてずに傷口を手で押さえている。男ばかりかと思いきや、半数以上が女や子供であるようだ。ざっと見た限りでも、先程の幕屋にいた人間達より、傷の深い者が多い。そうでなくとも色の褪せたボロの服を纏い、――その肩口に、古い火傷の痕を残す彼らの姿は、あまりに痛々しく見えているのに。
「……、手当てをします。動ける人は、水を運ぶのを手伝ってもらえますか」
 ラトがそう言えば、彼らははっと顔を上げ、「本当に?」とまず問うた。自分たちの所へ手当ての人間を寄越されるなどとは、思ってもみなかったという様子である。その中には、先程幕屋へやってきた、あの男の姿もあった。
 周囲に気配を察せられないためであろう、静かな歓迎を受けながら、ラトは思わず苦笑した。
 奴隷と呼ばれる彼らが、一体どういう人間なのか、ラトにはまだ実感がない。けれどこのアバンシリという巨大な町には、ラトがこれまでに田舎町で見てきたものよりずっと明確に、――人間の立場に差があるのだということが、よくよく身に沁みたのだ。
(それにしても、――状況が変われば、変わるものだな)
 彼らの姿は、マカオにいた頃のラトの姿でもあった。立場の強い者達から見下され、傷を負って苦しんでも、見て見ぬ振りで済まされる、そういう人間の姿である。
「あの、……ありがとうございます。なんとお礼を言ったらいいか……」
 顔に傷を負った少女を看ていると、一人の女性が近づいてきて、おずおずとラトにそう言った。
「この子の傷、残るでしょうか」
「そうですね、多少は、……。でもこの位置なら、髪で隠せるんじゃないですか」
 「そうですか」ほっとした様子で女が言う。この少女の母親なのだろうか。彼女は愛おしげに少女の髪を撫で、それからぽつりと、こう言った。
「この子、別の所へ売られることになっているんです。だけどよかった、傷が目立たなければ……、この子の器量なら、きっと良い主人に買ってもらえるでしょうから」
 治療を進めるラトの手が、ぴくりとその時、硬直した。目の前に座る少女の表情が、強ばったのがわかったからだ。
(人間でありながら、家畜と同じに金で買われる人々、……)
――見せ物小屋でも何にでも、とっとと売られちまえばいいのに。
 腕が震える。何故だか急に、怖くなった。
 どちらだ。
(僕は今、――彼らを憐れむ立場にいるのか、それとも)
 ラトはどちらに、立っているのだ。

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