吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

042 : Se defendendo

「万病を癒す、天の果実……?」
 耳に入った胡散臭げなその言葉へ、思わず怪訝に問い返す。しかし彼女は口元を真一文字に引き結んだまま、いかにも真剣な表情で、「そうよ」と力を込めて頷いた。
「わたくしも詳しいことは知らないのだけれど、赤い色の乾果だと聞いているわ。掌に乗る程度の大きさで、つやつやと、宝石のように輝いているのですって。イチジクという木の実や、イヌビワという木の実にも似ているそうなのだけど、それとは違うものよ。ねえ、何か知らないかしら?」
 そう問うクレモナの表情は、有無を言わさぬ気迫に溢れている。ラトは袖の端を掴まれたまま、ほんの一瞬視線を彷徨わせて、それからぽつりと、こう聞いた。
「『天の果実』っていうのは恐らく、俗称だとして、……聞くだけ聞くけど、正式名称は?」
 「正式名称?」今までに一度も、考えたことすらなかったのだろうか。問い返す彼女は動揺した様子で、しばし考え込むような素振りをしてから、大真面目な顔でこう言った。「多分、『天果』じゃないかしら」
「それはただの略称でしょう」
「略称……、言われてみれば、そうね。でもどんな物語でも、『天の果実』とか、『天果』としか呼ばれていなかったような、……」
 己の頬に片手を充てて、クレモナがそっと小首を傾げる。それを見てラトは、一つ大きく溜息を吐いた。
 物語。今、物語と言っただろうか? 万病を癒す天の果実。確かにラトも、――物語の中でなら、そんなものの記述を見たことがある。だが。
 クレモナの眉間に皺が寄っている。なんとか言葉を続けようと、彼女なりに必死なのだろう。しかしラトには、続く言葉を待つつもりなど少しもない。
「万病を癒すと言うけど、その実はどうやって服用するの? 煎じる? それとも、そのまま食べる? なんにせよそれを服用すれば、どんな病もたちまちの内に治るってこと?」
「そうよ、その、たちまちかはわからないけれど、多分すぐに」
 たどたどしいクレモナの答え。それを聞けば、また何やら急激に、熱が冷めていくような思いがした。
「へえ、――それは凄いな。例えば肌を虫に食い破られるような病でも、毒を食んだことで引き起こされた病でも、それさえあればすぐに治るの?」
「む、虫? そんな病があるの? ええ……。でも、きっと、」
「そんなものが存在するなら、薬師も医師も、もうなんの研究もする必要がなくなるな。どんな病でも治るんだ。へえ、素晴らしいね」
「――、何が言いたいの」
 立て続けに言葉を遮られたことに、恐らく気分を害したのだろう。背の低いクレモナが顎を上げ、じっと睨め付けるのを、ラトは冷ややかに見下ろした。
 夢見がちな、そしてラト以上に世間を知らぬ彼女のことが、何やら憐れに思われた。昨日、薬屋ですれ違ったときにも、クレモナは今と同じように、店主へ問うていたのだろうか。物語の世界で聞いた、万病を癒す天の果実を扱ってはいないだろうか、その存在をどこかで聞いた事がないだろうか、と。その問いに、店主はなんと返していただろう。大体、クレモナに付き従っていたあの二人は、彼女のこの捜し物に、本気で付き合っているのだろうか。
「そんなものは存在しないよ」
 まず端的にそう言えば、クレモナがびくりと肩を震わせる。彼女の反論を待たず、ラトは続けてこう言った。
「そんなもの、御伽噺の中にしか登場しない代物だ。病と一言に言っても、その原因によって症状は異なるし、それらが違えば治療法も変わる。一つの薬草を使うにしても、色んな処方の仕方があるし。基礎的な体質維持のための薬なら、ある意味、万病に対して効力があると言えるかもしれないけど、どんな病も立ち所に癒す薬なんていうものは、絶対に存在しない」
 「でも」と震えるクレモナの声。「だから」とラトが言葉を被せる。
 何やらやけに、苛立たしさが募っていた。ラトと同じに、精霊の存在を知る少女。ハティアと同じ、月の色の瞳の少女。危うさを覚えるほどに無防備ではあるにせよ、もしかすると彼女の出自や、彼女が見る何者かの情報は、ラトにとって有用であるのかもしれない。先程までは、そう思っていたはずであった。しかし無邪気に、夢物語を大まじめに語る彼女のことを、ラトは既に、受け付けることが出来なくなっていた。
 世間を知らず、己の特異を理解せず、無防備に、ただ夢とも思わぬ夢だけを見る――。
 こういう人間に、関わってはいけない。
 こういう人間は、きっといつかのラトのように、
 いずれ無邪気に周囲を害してしまうまで、その罪悪に気づきもしないのだろうから。
「天果なんていうものは存在しないし、当然僕も持っていない。これ以上、あんたに言えることは何もないよ。だから、いい加減にその手を離してくれないか」
 突き放すようにそう言って、しかしクレモナが俯き、ラトの袖を握る手に力をこめるのを見て、ラトは内心、舌打ちした。きっと泣いているのだろう。幼い頃、あの丘の家でニナと口喧嘩をする度、一つ年下の妹は、ぼろぼろと涙を流して泣きじゃくった。
「あのう、お二人さん……。あたし達、口を挟まない方が良いのかもしれないけどさ、……」
 険悪な雰囲気を感じ取ったのであろう。遠巻きに様子を窺っていた店員が、恐る恐るといった様子でこちらに声をかけてきた。これ以上ここでやりとりを続けては、店の人間にとっても迷惑だろう。ラトは静かに息をつき、彼らの方へ顔を向けると、「すみません」とまず言った。
「もう出て行きますから、……」
「いや、あたし達はちっとも構わないんだけどね。どうせお店も、夜にならなきゃ開けないし。でもあの、大丈夫かなって思って」
 あえての事だろうが、明るくそう言う女の声。ラトは気まずい思いに視線を落とし、ざっと己の荷物を確かめる。まだ時間はある。もう一仕事しなくては。しかし歩き出そうとするラトの袖を、やはりクレモナが放さない。
「御伽噺の中の、代物、……」
 ぽつりと呟く彼女の声は、思った以上に落ち着いている。そうして彼女は手を放すどころか、その作り物のように細い指先が、不自然に白く見えるほど、また更に力を込めた。
「おまえはきっと、正直者なのでしょう。他の薬師達とは違って、わたくしに媚びることをしないもの。おまえがそう言うなら、わたくしの求めるものは、存在しないのかもしれない。だけど、」
 クレモナが肩を震わせながら、おずおずと顔を上げる。それを見て、
 ラトは思わず、慄いた。
 他人とは異なるものを見る彼女の視線は、これまでは大抵、不安定に宙をさまよっていた。だがこの時――、初めて――、彼女の宿す金色が、ぴたりとラトの目を捕らえたのだ。
 赤みのさした頬。涙の浮かんだまなじり。しかし彼女は、思いの溢れるのを懸命に堪えながら、やっとの事でこう言った。
「だけど放さないわ。今日が最後なんだもの。おまえは今までで一番、――私の求めているそれに、近いはずだと思えるのだもの」
 力のない声であった。訴えかけるというよりも、自分自身に言い聞かせようとでもいうような、そういう類の言葉である。だがラトはぞっとする思いで棒立ちになったまま、彼女から目を逸らせずにいた。
 瞳の内にかろうじて留まる、涙のせいだろうか。月の色の瞳はぎらぎらと輝き、ラトを捕らえて放さない。
(今日で、最後……?)
 彼女の言葉を反芻しながら、しかし上手く問い返すことができずに、ラトはその場で逡巡した。上手く言葉が出てこない。先程までは、無知で頼りなく見えたこの少女に、この少女の視線に、何故だか少しも抗えない。
(今にも、泣き出しそうなくせに)
 得体の知れぬ、この威圧感はなんであろう。それを問うことも出来ぬまま、じっとその場に立ち尽くす。その時。
「おおい。さっきの若い薬師さん、まだこの店にいるかね?」
 唐突に割り込んだその声に、ラトは短く息をついた。同時に肩から力が抜け、いまだにラトを睨み付けるクレモナから、言い訳がましく視線を逸らす。
 ラトにとっては天佑の如く聞こえたその声は、どうやら店の入り口に立つ、男のものであったらしい。先程も、この店内で見た顔だ。膝痛に効く、軟膏を渡した覚えがある。
 店内をきょろきょろと見回した彼も、すぐにラトの姿を見つけたようだ。「よかった、よかった」と脳天気な様子で場の空気を撹拌させながら、気安げにラトへ寄ってくる。
「薬師先生よ、悪いんだがもう一仕事頼めないか? 怪我人の数が多くて、お医者の数が足りないんだわ」
「……何かあったんですか?」
 切り替えが上手くできないまま、堅い口調でそう返す。すると男は腕を組み、「それがさあ」と言葉を受けた。
「収穫祭のために誘致した旅一座が、さっき到着したんだけどな。ガアラからの途中で盗賊に襲われたらしくて、酷い有様なんだよ。手当てしてやりたいんで、ちょっと手伝ってくれねえか?」

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