吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

038 : Incipe

 閉じきっていないカーテンから、陽の光が射している。実のところ、容赦なく目許を照らすその陽の存在には、もう随分前から気づいていたのだ。だが立ち上がってそれを遮る気力もないまま、両腕で目許を覆い、あるいは太陽の陽から逃げるように顔を背けて、長い時間を無為に過ごしている。
 身体を丸め、薄い布地を抱え込む。安宿に設けられた寝台には柔らかな布団の用意などなく、寝心地の悪い木材の上に、敷くためのものだか、身体に掛けるためのものだかわからない、数枚の布があるだけだ。野宿をすることに比べれば、風に晒されないだけマシ、夜露に濡れないだけマシ、という程度のものなのだが、それでも今、立ち上がることを強いられるくらいなら、永遠にこの寝台にへばり付いていろと言われる方がずっといい。ぼんやりとした頭でそう考え、ラトは小さな唸り声を上げた。
 全身がだるい。腹の内が何やらもやもやとして気持ち悪い。その上身体の節々までもが、熱を持って痛んでいた。だが情けない思いに奥歯を噛むラトの耳元に、軽やかな足音と、遠慮のない様子で戸を開ける、かしましい音が聞こえてくる。
「おっ、起きたか?」
 やけに明るい、煩わしい声。キリの声だ。ラトは答えず、しかしその声から逃げるように、ただ扉に背を向けるように寝返りをうってみせた。今は誰とも話したくない。とにかくそっとしておいてほしい。そう思ったのだ。だが相手はその動作をこそ、「起きている」という返答であると受け取ったらしい。証拠にキリはずかずかと部屋に入ると、ラトの隣の寝台に腰掛け、手にした瓶を傾けた。
「大丈夫かよ。ほら、水。飲まないといつまでも治らないぞ」
 とくとくと、グラスに何かの注がれる音。「それ、本当に水なの」そう問う声が枯れている。擦り切れたように喉が痛い。それが何故なのかわからぬまま、ラトが気怠く眼を細めれば、キリは笑ってこう言った。
「水、水。当たり前だろ。流石に俺だって、――二日酔いで悶え苦しんでる奴に、追い討ちかけるほど鬼じゃないぜ」
 二日酔い。やはりそうか。この気怠さの答えを得て、思わず深く溜息を吐く。
 やっとの事で身体を起こし、キリの差し出したグラスを受け取った。確かに、水だ。だが頭の位置が変わったことで再び吐き気を覚え、身体を丸めるラトを横目に、さっぱりとした様子で笑みを浮かべるキリを見れば、殺意にも似た苛立ちが湧く。
 昨晩。キリに連れられて何軒かの店をまわり、あちこちでキリの勧める酒を飲んだことは、確かにラトの記憶にある。はじめはあくまでもキリに付き合って、ちびちびと飲んでいたはずが、段々と気が良くなってきて、つい勧められるまま手を出してしまったこと、酔いが回って幾度か吐き気を催し、席を立ったことも、何となくだが覚えてはいる。だが何故こんなに声が枯れているのか、どのようにしてこの宿へまで辿り着いたのだか、ラトには全く覚えがない。
「昨日はなんやかんや色々あったけど、楽しかったな。お前もさあ、悩みはあんまり溜め込まず、たまにはああやって吐き出さないと」
 ああやって、というのは、一体何を指しているのだろう。グラスの水を一気に傾け、ラトが眉間に皺を寄せれば、キリがくっくと笑い出す。
「まあ、ちょっと突いただけで、あんなにしゃくり上げて大泣きするとは思わなかったけど」
 しゃくりあげて、大泣き。「ああ、そう」と気怠く返事をしながら、その言葉を脳内で反芻すれば、ラトの表情が凍り付く。
 それで一気に、目が覚めた。
「ま、待って」
 この男は今、一体何を言ったのだろう。答えを求めてキリを見れば、相手は無邪気ににこりと笑んだ。ラトの反応など予測済みだとでも言いたげな様子なのに、すぐに答えるつもりはないようだ。だがまさか、――聞き過ごすような、わけには行くまい。
「誰が、なにをしたって」
「ええ? まさか覚えてねえの? 本当に? 全く?」
「キリ、僕、なにしたの」
 朦朧とする頭から、さっと血の気が引いていく。だが目の前に座るこの男はにこにこと笑ったまま、今度は勿体ぶりもせず、残酷な程にあっさりと言った。
「泥酔して、吐いて、泣き喚いてた」
「嘘だ」
「いやいや、本当に大変だったんだぞ。母親が死んだのは言いつけを守らなかった自分のせいだとか、どんなに勉強したってそれを活かせないんじゃ意味がないとか、ろくに商売も出来ない自分が不甲斐ないとか恥ずかしいとか」
「そんなこと」
「ラト君が号泣しながら後ろ向き暴露しまくるから、心配した周りの客まで集まってきて、銘々に自分の失敗談なんか語り初めてさ」
 この男の言うことだ。恐らく多少は、いや多分に、話を誇張しているのに違いない。そう思いたい。そのはずだ。だが実際、ラトには昨晩の記憶がない。何故こんなに声が掠れているのかも、咄嗟に触れた目が、何故こんなに腫れているのかも、全くもって覚えがないのだ。その上、彼が面白半分に語る内容のほとんどは、――ラト自身が話したのでなければ、キリには、知られようのないことばかりなのである。
「あんなに優しくお悩み相談してやったのに」
 「覚えてないのかよ」そう言ってまたにやにやと笑うキリの顔を、直視することが出来なかった。
 酒に酔って前後不覚になる事象については、これまでも耳にしたことがある。家族が酔いつぶれたからと、町の人間が時々、丘の家まで薬を貰いに来ていたからだ。だからこそ、目覚めた時のこの不快感も、恐らく昨晩の酒のせいなのだろうとすぐに想像できたのだが――。
(……、最悪だ)
 そう思えば、鳥肌が立った。無様を晒したのであろうことを思うだけでも辛いのに、その姿をキリに見られていたなんて。これまでだって事に付け、からかわれてばかりいたというのに、そんな姿を見られたのでは、長く冷やかしの種に使われるのに決まっている。
 その上――昨日出会った、あの少女の言葉を信じるのなら――ハティアにまで、その醜態を見られてしまったのではあるまいか。
「あっ、それと」
 キリが無邪気に言うのを聞けば、ぎくりと過敏に肩が震える。自分は他に、何をしでかしてしまったのだろう。昨晩の自分自身に心底恐怖を覚えながら、しかし恐る恐るキリを見れば、彼はやはり明るく笑って、ラトに向かってこう言った。
「頬についてるソレ、外へ出る前に落としておけよ」
 頬のソレ。今度は一体何のことだ。
 キリの言葉には何も返さず、陽の照る窓をそっと覗いてみる。安宿の薄い壁の外からは、賑やかな声が聞こえていた。今まで気づいていなかったのだが、どうやら二階の部屋にいるらしい。喧噪の飛び交う大オアシス。多くの品が並ぶ通りの間を、人々は今日も忙しなく動き回っている。それを眼下に見下ろしながら、しかしラトは硝子にぼんやりと映る己の顔を見て、思わず小さく悲鳴を上げた。
 唇の形に、べっとりとついた紅の色。ずきずきと疼き続けるその脳裏に、ほんの一瞬、忘れたはずの光景が過ぎる。
「随分辛いことがあったんだね。ほら、泣くのはおよし」
 酒を運んできた大柄の女が、そう言ってラトの肩を抱き、まるで子供にするように、二度三度とキスをした。思い出した。隣でそれを見ていたキリは腹を抱えて大笑いをし、周りの男達は、楽しげに湧いて何やら囃し立てたのではなかったか、――。
「――最、悪、だ」
 今度は思わず、声が出た。
 
「成る程、薬屋頼みはやめるわけだ」
 むしゃむしゃとパンを頬張りながら、キリが短くそう返す。残る吐き気を堪えつつ、卵焼きをやっとの事で呑み込んだラトが頷けば、彼はにやりと笑ってみせた。
 昼時を目前に控えた食堂は、しかし人で溢れかえっていた昨晩の様子とは異なり、まだ幾らかの空席を残している。そんな中、ラトとキリは六人がけの机に広々と陣取って、一通りそれぞれの予定を話し終えたところであった。
 どうにかこうにかベッドを抜け出し、最低限の身支度をし、やっとのことで背筋を伸ばしてそこにいる。解毒作用のあるガザラの煎じ薬を薄めて飲んだのが功を奏したらしく、二日酔いの症状は、今朝より随分楽になった。とはいえ全快と言うにはほど遠い状態であったのだが、だからといっていつまでも、だらだらと過ごすわけにはいかないのだ。
 ラトは一つ頷くと、「昨日の僕は、目先の利益に走りすぎてた」とまず言った。
「とにかく薬を買ってもらえさえすればお金になると思ったけど、あんなに買いたたかれたんじゃ、幾ら売ったって大した収入にはならない。手持ちの薬には限りがある。だから今日は市場をまわって、まず情報を集める」
 「ほう」と食事の片手間に相槌を打つきりの声。ラトは気を抜けばすぐに丸まりそうになる背をなんとか伸ばすと、キリに向かって話すと言うより、己に対して言い聞かせるようにこう続けた。
「薬に限らず、物の相場や市での需要、売り方の工夫をまず学ぶ。今日を含め、この町での滞在時間はまだ四日あるんだ。明後日の収穫祭に向けて町の人口は増えるはずだし、今日一日をかけて学んだ上で、今は手元にある商品を、どう高く売るか戦略を練る」
 昨日一日は、薬屋を探してまわることにばかり気を取られてしまった。だがラトの目的はあくまでも、『薬を売って金を得ること』であって、『薬屋に薬を買ってもらうこと』ではないのだ。
 学びなさい。マカオの丘の占い師は、何度でもラトにそう言った。学ぶことが身を助ける。知識がラトの道具になる。昨日のラトは、どんなに調剤の知識があり、薬を作ることが出来たからといって、それを上手く売れないのでは仕方ないではないかとふて腐れた。だが冷静に考えてみれば、ラトは町を知らず、人を知らず、商いを知らないのだ。
――やり方は色々あるよ。一見無茶な依頼でも、目的がなんなのか、それを果たすために何が必要なのかを考えて、一つずつ実行に移していけば、案外道は見つかるものさ。
 昨晩出会った鷹匠の青年のその言葉が、不意に脳裏に甦る。この広いレシスタルビア帝国内を好きに旅する気まぐれな旅人――キリの居所を割り出し、次の目的地さえもまんまと聞き出した彼は、事も無げにそう言っていた。
 色々と鑑みた結果、やはり自由市場で大声を上げ、売り歩くしかないという結論に落ち着くのではと思えば胸が萎む思いがしたが、しかし今は、出来ることからやるしかない。仕切り直しだ。
「僕はまず、学ぶ」
 言い切って、朝食の続きに視線を落とす。カリカリに焼けたベーコンに、食べかけの目玉焼き。昨日の酒代も含め、キリが立て替えてくれているおかげで、口に出来ている物ばかりだ。
 だがいつまでも、この状況に甘んじていてなるものか。
 まだ悪酔いは覚めないが、何故だか不思議と、昨日より心が前に向く。しかしきゅっと口元を結んでいたラトが、それでも再び食事を始めると、キリは小さく吹きだした。一体何が可笑しいのかと、ラトが視線でそう問えば、彼は「悪い、悪い」と軽い調子で謝ってから、「ラト君は真面目だなぁ」とぽつり、言う。
「ちょっと真面目すぎるくらいだけど。……まあでも、さっきまで二日酔いで苦しんでいたとは思えないくらい、真っ当な意見だとは思うぜ。あれかな、思いっきり泣いてすっきりしたとか?」
「……、不本意だけど、そうかもしれない」
「そうかそうか。それなら、酔っ払いの介抱もしてやった甲斐があったってわけだ」
 キリがそう言い、千切ったパンをまた頬張る。それから彼は、口に物が入ったままの不明瞭な口調で、やはりぽつりと、こう言った。
「お前は偉いよ。応援してる」
 唐突に届いたその声に、驚き思わず瞬きする。たった今までラトの事をからかってばかりいたくせに、どういう風の吹き回しだろう。
「なに、突然」
「お前が知恵を絞って稼いでくれれば、俺もお前を売らずに済むし」
「ああ、そういう」
「そうそう、そういう」
 ひとつ溜息を吐き、しかしラトは釈然としないまま、またちらりとキリを見た。思えば昨晩は元々、亡くなったというキリの友人を送るという名目で酒を飲みに行ったはずだ。それなのに早々に酔いつぶれてしまって、キリの話などろくに聞いてやれなかったことに、今更ながら気づいたのだ。
「……、キリは、もう大丈夫なの」
 「ええ?」問いへの心当たりがないとでも言うかのように、キリが戯けて聞き返す。
「昨日は随分、落ち込んでたでしょう」
「俺、ラト君に心配されてる? まさか?」
「うるさい」
「なんだよ、話を振ったからには、慰めの言葉の一つでもくれよ。俺、まだ結構落ち込んでるし」
「えっ、」
 やはり落ち込んでいたのか。しかし面と向かってそう言われても、ラトに返せる言葉はない。キリに言われたとおり、確かにラトから振った話題ではあるのだが、こんな時に何を言えばいいのか、ちっとも見当がつかないのだ。
 それきりラトが答えないのを見て、キリがまた小さく吹きだした。そうして、「やっぱり真面目だなぁ」と繰り返し、ふと、ラトの背後に向かって手を振ってみせる。誰か、知り合いでも見つけたのだろうか。そう考えてキリの視線を追い、
 ラトは思わず噎せこんだ。
 ふくよかな体格の女性が、こちらに向かって笑顔で手を振っている。見覚えがある。緊張に何やら汗が浮く。彼女は確か、――昨晩、いずこかの店でラトにキスを浴びせた、あの女性に違いない。
 脇に置いた鞄を咄嗟に手に取り、慌ててそれで顔を隠す。だが一足遅かった。彼女は店の端から端まで聞こえそうな大声でラトを呼び、見た目にそぐわぬ軽やかな足取りでこちらへ駆け寄ると、ふふふと笑ってこう言った。
「聞いたよ、ラト。あんた本当は、腕利きの薬師だそうじゃない。昨日は自信なげな事ばかり言ってたのに、案外やるんだね」
 何故名前まで知られているのだ。そうは思ったが、キリがにやにや笑って静観しているところを見ると、彼女にラトの名を告げたのも、どうせこの男の仕業だろう。だが、それにしても――
「薬のこと、誰に聞いたんです」
 相手の勢いに圧し負けながら、それでもラトがそう問えば、彼女は微笑んでこう言った。
「今朝ね、うちのお客さんが言ってたんだよ。質の良い消毒薬が欲しければ、この宿に泊まってる、ラトって薬師から買うのがオススメだってね。知り合いかい? ――鷹を連れた、男の子からそう聞いたんだけど」

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