吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

036 : Crusis -1-

 秋を迎えるアバンシリの町の陽が、足元の影を伸ばしてゆく。だが建物の密集するこの町中からでは、陽の落ち行く地平線を臨むことなど到底叶わず、喧噪に湧く人々はそもそも、一日の終わりに陽が落ちる、そんな当たり前のことに気を払うような様子もない。
 もっとも、他人事のようにそれを思うラトにも、最早周囲に気を配る余裕など少しも残ってはいなかった。何の反論も出来ないままただ項垂れ、フードを被った三人組を見送った。そうしてそこから一番近い薬屋へ寄り、最低限、その日の晩だけはなんとか越せる程度に薬剤を金に換えると、人々の会話に耳を傾けるでもなく、並べられた数々の品を見るでもなく、脇目もふらずに黙々と、この目的地に向けて歩いてきたのである。
 すれ違う人と肩が当たる。相手が小さく舌打ちする。それが聞こえていても、ちらともラトは振り返らない。ただ人を掻き分けるようにして道を進み、見覚えのある通りで足を止めると、ラトは気怠く頭上を見上げた。宿屋アルグレーテ。目的の店の看板だ。キリと待ち合わせた宿である。
 疲れ切った足取りで、溜息混じりに戸を開ける。途端に店内からも喧噪が溢れ出たのを聴き取って、ラトは浅く目を伏せ、閉口した。途中で立ち寄った、タトリーズの宿と同じパターンだ。ラト達が使うような安宿は、大抵一階で大衆食堂を営んでおり、そこでは各地から立ち寄った旅人達が、大声で笑い、何やら喚き散らしながら、昼間から酒を呷っているのだ。
(キリは用事を終えたら、この食堂で待つと言っていたけど)
 しかし流石は大オアシスの宿と言うべきか、タトリーズのそれの三倍はありそうな広い食堂だ。ちらと見渡した程度では、キリの姿など見当たらない。そうしてその喧噪を前に、ラトは途方に暮れた思いでまた深く、溜息を吐いた。
(キリのこと、探さないと、……)
 だがすっかり疲れ切った脚が、食堂の入り口に立ち尽くしたまま、最早動こうともしない。本当はキリのことなど探さず、誰とも話さず、顔もあわせず、他に人の居ない部屋で、今すぐ横になってしまいたいのが本心なのだ。頭から布団を被って、明日のことも考えず、側に居るかもしれないハティアの視線を気にすることもなく、誰からの干渉も遮断して眠ってしまえたなら、どんなに気が楽だろう。
 逃げ出したい思いとは裏腹に、やっとのことで店の中へと進んでいく。部屋の鍵はキリが受け取っているはずだから、実際、キリを見つけ出さないことには、ラトは休むことすら出来ないのだ。しかし辺りを見回しながら、足を引きずるように歩いて行くと、ふと、目の前を歩いていた見知らぬ青年が振り返る。
 「あっ」と小さく声がした。その拍子に何かが視界を覆うように身じろぎしたのを見て、ラトは思わず目を閉じる。
「ごめん、大丈夫だった?」
 問われ、恐る恐る目を開けて、ラトは思わずぎょっとした。小さな、しかし切れ長の目に、鋭いくちばし、閉じた羽。ラトの目の前に立ち、こちらの顔を覗き込むようにしていたのは、一羽の鷹であったのである。
 いや、よくよく見てみれば、ラトの目の前に立っているのはやはり人間の青年であった。キリと同じか、それよりは少し年下だろうか。ひょろりと細身の彼は荷を持たず、しかし左腕に革製の無骨なグローブを付け、そこに一頭の鷹を止まらせている。その鷹が居住まいを正すように、一度羽を広げかけ、またおさめるのを見て、ラトもようやく納得した。先程ラトの視界を覆ったのも、恐らくこの羽であったのだろう。
「あの、大丈夫? こいつの羽、今、目に入らなかった?」
 ラトがいつまでも黙っていると、青年が再びそう問うた。見れば、彼はそうしてラトに話しかけながら、腕のグローブを締め直している。サイズが合っていないのか、グローブは明らかに浮いていたが、そこに止まる鷹は素知らぬ顔だ。
「鷹匠……?」
 ラトがぽつりとそう問えば、青年は一度頷き、にへらとした笑みを浮かべて見せる。「ああ、そうそう、そんな感じ」と答える言葉は、何やらやけに気安げだ。
 鷹匠。鷹や犬鷲、隼などを訓練し、獲物を捕らせる人々のことである。そういう人々のことは今までに本で読んだことがあったが、こうして目にするのは初めてだ。猛々しく精悍な顔つきをした鷹が、どちらかと言えば痩せ形の青年の腕へ大人しく止まっているのを新鮮な気持ちで眺めながら、ラトは無言で会釈した。やはりアバンシリには、色々な人が集っているのだと、ただ単純にそう思う。
 そうして直後、視線の先に知った顔を見つけ、ラトは安堵の溜息を吐いた。
「キリ、……」
 呟きとも呼びかけともつかない中途半端な声を上げてしまってから、しかしラトは、歩み寄ろうとした足をまたすぐその場に止めた。目的の人物の前に一つ知らぬ人影があり、それがキリと話し込んでいるようだと気づいたのだ。
 ラトの居る場所からでは横顔しか見えないが、なにやら体格の良い、年配の男がそこにいた。顔に目立つ傷がある。その男が何事かをキリに告げれば、テーブルを挟んで椅子に腰掛け、それに対峙するキリは眉間に皺を寄せ、有無を言わさぬ様子で男へ言葉を返している。
(あのキリが、あんな風に険しい顔で、人と話をするなんて)
 何か、商談の最中だろうか。もしそうならば邪魔をする気はないが、あの様子では話がつくまでに、もうしばらくの時間を要することになるだろう。部屋の鍵を受け取る事が出来るのは、まだ先のことになりそうだ――。ラトは意図せず深い溜息を吐いたが、一方で、その髪を柔く食む、くちばしの感触に眉を顰める。「おっと、ごめんよ」と悪気のない様子で言ったのは、先程の鷹匠だ。もうとっくにどこかへ立ち去ったものと思っていたのに、いまだに側に居たらしい。
 「何か、用ですか」ラトが問うて振り返れば、青い瞳のこの青年は、まずきょろきょろと緊張感のない様子で辺りを見回してから、己の腕に止まった鷹を撫でつけた。そうしてなんでもないかのように、続けてラトにこう話す。
「うちの鷹、どうやら君を気に入っちゃったみたいで」
 「そうですか」気の入らぬまま答えれば、相手がまたへらりと笑う。一体何が楽しいのやら、ラトにはちっともわからない。それとも、元々こういう顔つきなのだろうか。そうだとしたら、おめでたいことだ。
 しかし毒づくラトの心中も知らず、青年はラトの荷物をちらと見ると、「君、薬師なの?」とまた気安げに問うてくる。ラトはぎくりと身構えた。この鷹匠も、先程会ったローブの青年と同じように、こうして商品を持てあましているラトを卑しめる気だろうかと、咄嗟にそう考えたのだ。だがこの相手は、ラトが浅く頷くのを見るや、親しげにラトの肩を叩き、「丁度よかった」とそう言った。
「血止めの軟膏があったら、売ってくれないかな。この町の薬屋は、何かと値段が高くて。あと、消毒薬と化膿止めも。ある?」
「あるけど、……」
 想定外の申し出に、警戒心がいくらか和らいだ。まさかこんな所で薬が売れるとは思わなかったが、何にせよ、買ってもらえるのならありがたい。ラトが慌てて品を出せば、彼はあいている右の手でそれを受け取り、臭いを嗅いで、「消毒薬かな」とまず言った。
「原材料はクルーヴ?」
「消毒薬なのは正解だけど、その、原材料は、キトリ草と、スズナル」
「へえ、使った事ないなあ」
「クルーヴで作った薬より、この方が傷の治りは早い。それから化膿止めは、……何かしらの皮膚炎を患ったことは、ありますか」
「ないよ」
「なら、これ。このまま塗っても良いし、お湯で薄めても、十分使えます。鶏卵を食べて、気分が悪くなったことは?」
「僕はないね。そんな事、初めて聞かれた」
「大事なことです。どんな妙薬も、体質によっては毒になるから。……血止めはこれが良いかな」
 続けてラトが、緊張気味に値段を述べれば、彼は言い値で頷いた。この鷹匠は、クルーヴの葉が消毒薬として使えることを知っていた。そんな相手が頷いたのだから、やはり、ラトの想定する売値は妥当な程度なのだろう。ほっと胸をなで下ろしながら代金を受け取るラトに、鷹匠は続けてこう言った。
「君、ただの売り子じゃないんだね。レシスタルビアは医学の進んだ国だと聞いていたけど、あれかな。君もカダ・マドラサで学んだとか?」
 カダ・マドラサ。暁の都にある、学術機関の総称だ。都へ向かったニナが、勉強をしているはずの場所。ラトが黙って首を横に振れば、彼は「そっか」と明るく笑う。しかしラトと目を合わせると、迷わずこんな事を言った。
「でもきっと、君には良い師がいたんだね」
――知識は必ず、お前を助ける。よく学びなさい、ラト。
 幼い頃、何度も言い聞かせられたその言葉が、不意に胸を浸していく。
「見たところ、旅人だよね。アバンシリは初めて?」
「……、そう、です」
「そっかぁ。僕もこの町は初めてなんだ。ちょっと騒がしいけど、活気があって、良い町だよね」
 その言葉には同意しかねたが、しかしにこにこと笑う相手の顔を見ると否定する気にもなれず、ラトは曖昧に苦笑した。どうせ、この場限りのやりとりだ。相手にとって、ラトは流れの薬師に過ぎず、ラトにとって彼は、どこの誰とも知れぬ一介の旅人に過ぎないのだから。そう思えばほんの少し、沈んでいた気が軽くなる。
 そういえば昔、あの丘の家でこれと同じような風景を夢想したことがあった。夢の中のラトは、天空の城を目指す一人の冒険者であり、様々な町を巡って、様々な人と笑顔で話をした。
 夢の中の冒険者は、物怖じせずによく喋った。『彼』はまだ、人々が自分に向ける畏怖の視線の本当の意味を知らず、母と慕った恩人を死なせてしまった罪の意識さえ知らずに、ただ純粋に、外の世界に憧れていたのだ。
(あの頃は、何をして生計を立てるかだとか、どうやって自分の身を守るかだとか、そういう事はちっとも考えていなくて、……何の現実味もない、ただの夢を見ていただけだったけど)
 その夢を、ほんの少しなぞるくらいなら、ラトにも赦され得るだろうか。
「あなたは何をしに、この町へ?」
 ラトが問えば、相手は人好きのする笑みを浮かべて、明瞭な口調でこう言った。
「僕? 僕はね、この町へ、――ある人を捜しに来たんだ」

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