吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

032 : Viam deserti

 赤い砂塵が視界を彷徨う。
 乾いた風が頬を撫でる。
 月夜の道をじっと見据え、体温を奪われないよう首に巻いた布へ顔をうずめながら、ただ黙々と歩いていく。その隣では一頭の狼が寄り添うように、先を歩く一人の男と、彼が連れた馬を追うように、じっと歩みを進めていた。
 この一ヶ月で、随分と慣れた砂漠の道。しかし気を抜くことなどできやしない。日中は大気をも揺らがせる熱で旅人を苛み、夜はこうして刺すような冷気に包まれるこの砂の世界では、一歩道をあやまてば、何者も等しく骸に転ずる。事前に散々言い聞かされたその言葉は、今では過ぎるほどの実感を伴って、ラトの脳裏に居座っていた。
 柔らかな砂を踏むラトの足が、一歩進むごとに白む砂粒へ柔く融け、しかしまたすぐ顔を出す。とはいえこの辺りは、これまでと比べれば砂の粒も大きくなり、地面には地下茎を持つアスフォデルスの葉も見えている。もうじきオアシスの街へ辿り着くはず、と話したキリの言葉は、どうやら信用できそうだ。そう考える側から、ラトの耳元を静かな風が、そして目には映らぬ彼らの声が、軽やかに通りすぎていく。
(……、精霊の声)
 曖昧な言葉が耳に届いたが、聴き取ることは出来なかった。ラトが不意にその場へ立ち止まれば、先をゆくキリと、変わらず狼の姿をしたハティアも、そろりとその場を振り返る。
「何か聞こえたか?」
 問われても、すぐには答えない。ただじっと耳を澄まし、一度浅く目を伏せると、「もう一度」とラトは小さく、しかし強い口調で呟いた。服の内に入れていた、天淵石の欠片に手を伸ばす。それを強く握りしめれば、心にちくりと痛みが走る。
「もう一度語って。……今度は必ず、聴きとるから」
 風は吹かない。彼らの声は気まぐれだ。けれどそれを継ぐように、じわりじわりと何かを伝える意志があった。
 耳に聞こえるものではない。だが確かにそこに在る。
 ラトに応える、――大地の精霊達の声。
「――僕らが北に進むのを嫌がってる。いや、すぐには行くなと言っているのかな……。精霊達が血を厭って、それを避ける時と似ているから、この先で獣か、それとも盗賊でも出たのかもしれない」
 感じたままにそう言えば、キリが素直に「そうか」とひとつ頷いた。マカオの丘での騒動を知るこの旅人は、時たまラトが語る精霊の言葉を、信じてみようと決めたらしい。そうして自らの馬にくくりつけていた、山羊の毛で織ったテント布に手を掛けると、「もうじき、夜も明けるしな」とひとりごちる。
「獣にせよ、盗賊にせよ、鉢合わせたくはない相手だ。今日はこの辺りで休むとしようか。幸い、飲み水も食糧もまだ十分にある」
「そうだね。……ハティア、君もそれでいい?」
 ラトが問えば、足元でぴんと背筋を伸ばし、ラト達の会話に耳を澄ませていた狼も、人間がするそれのように、一つ大きく頷いてみせた。
――大丈夫よ。
 精霊の声とはまた違う、声なき彼女のささやかな答え。それを見るとラトも、こくりとひとつ頷いた。
 
 ラトがマカオの丘を出、バーバオの町を横目に旅立ったその日から、三十と九日目の事である。森の間の街道を抜け、水源の豊富な草原地帯を旅したのがはじめの十日ほど。その後しばらくは土の乾いた岩石砂漠を進み、暁の都へ至る道の中でも、可能な限り砂丘を避けてここまできていた。
 砂漠へ入ってからは熱の激しい昼の移動を避け、ひどく気温のおちる夜に移動することを続けている。そうすることで体力を保ち、また星を読むことで、進むべき方角を違わないようにしているのだ。砂漠の地形は移ろいやすく、奇妙な形の大岩を目印に進んでいたつもりが、昼夜の気温差のために岩が砕けてしまい、道を見失うようなことも少なくないのだという。
 これまでにも長くレシスタルビア帝国領内を周遊してきたのだと話すキリは、成る程相応に旅の道にも通じていた。とはいえ彼の他にいわゆる旅人の姿を知らぬラトには他との比較のしようがなかったのだが、彼は自ら星を読み、立ち寄る町村から情報を仕入れては、迷いなく旅路を決めていく。キリの持つ一頭だけの馬に荷をくくりつけ、徒歩で東へと向かうラト達の旅路は緩やかではあったが、今のところ至って順調なものであった。
「アバンシリの町へは、もう三日ほどで着くはずっていう話だったよね」
 天井の低い、しかし平たく広いテントの内に座し、灯したカンテラの薄明かりの下で目を凝らす。数日前に抜糸を済ませたキリの腕の傷痕を確認し、薬草をあてていると、「ああ」と応える声があった。
「近々、アバンシリへ繋がる街道に行き当たるはずだ。でかい町だからな。その辺りまで行けば、酒も食べ物も大抵の物ならなんでもあるぜ。砂漠で疲れ果てた旅人にとっては、憩いの大オアシスってとこだ」
 薬草の上から包帯を巻き終え、黙々と後片付けをはじめたラトを見て、軽い調子でキリが続ける。
「アバンシリみたいな交易路に面している町には、色んな所から人が集まってくるからな。あちこちで大道芸の類も見かけるし、他国から渡ってきた商品を売り買いしている店も多い。いつ行っても目新しい物だらけさ。その分、治安の悪いところもあるが……、それより何より、あの町は美人が多いんだよなぁ、楽しみだなぁ」
 緩んだ表情を見せてそう語るキリの口数が、いつもよりもいささか多い。人里といえばマカオやバーバオ、途中で通過してきた小さな村落しか知らぬラトには今ひとつよくわからないが、久々に大きな町に滞在できることが、随分楽しみなのだろう。そんな事を考えながら、ラトが左手を突き出せば、キリはいつものように苦笑した。
「お前は、相変わらず無愛想だなぁ」
「キリにまで、愛想を振りまく必要がある? 傷の治療費、きっちり貰うことで話はついているはずだ」
「商魂たくましいことで」
「売られないように必死なんだよ。……あんたに、この旅の報酬を払わなきゃならないからね」
 手渡された紙幣を仕舞い込み、その手で灯りの火を消した。
 気温の落ちた、砂漠の夜。こうしてテントの端から見る風景は、昼のそれとは対照的だ。砂地の続く大地はしんと寝静まり、一つの音すらたてやしない。ただ夜空の星月だけが静かな光をその場へ零しているのを見て、ラトは小さく溜息を吐いた。
 もうそろそろ陽が昇る。だがその前にもう一つ、――語り合いたい光があった。
「ラト、薬売りの仕事も頑張っているものね。今回も砂漠の植物をいくらか採ってきたし、それも薬にするんでしょう?」
 暗いテントの内に、唐突に響く明るい女性の声。月光のように静謐な、淡い光を纏って現れたのは、ハティアである。相変わらず実態を持たず、月の光の下でしか姿を現せない彼女は、ラト達が歩みを休める明け方手前のほんの一瞬だけ、こうして笑顔で話しかけるのだ。
「タトリーズの町でも、薬、沢山売れたわよね。私もお手伝いできたら良いんだけど、狼の姿じゃ町には入れないから、悔しいな」
 タトリーズの町。少し前に立ち寄った、小さなオアシスの町の名前である。その町でのことを思い出せば、ラトはつい苦虫を噛み潰したような顔になるのだが、無邪気なハティアは気づきもしない。一方でにやにやとした笑いを隠せない様子でいるキリのことを睨み付ければ、彼は口笛を吹いてごまかしてみせた。
「まあラト君ってば露店を開いてはみたものの、緊張でがっちがちな上、他人とは目もあわせないし、ぼそぼそ喋るし、口上も下手だし、俺の助けがなければまともに商売できたとは思えないけどね」
「あれは、……勝手がわからなかっただけだ」
「はいはい、アバンシリでは期待してるよ」
 さっさとマントに身をくるみ、横になってしまったキリを横目に、苛立ちを隠せず溜息を吐く。ほんの数ヶ月前までマカオの丘しか知らなかったラトと、広大な帝国領を渡り歩いていたというキリの間に『経験』という大きな壁があることは重々理解していたが、それでも、こうして子供扱いされる度、ラトの自尊心は軋むように疼くのだ。
「ラトだって、きっとすぐ上手に、商売できるようになるわよ」
 暗がりの中、今度は自らの足の傷の具合を見始めたラトへ、控えめにハティアがそう言った。彼女がラトを慰めるためにそう言ったのだとはわかっていたが、それがかえってざらざらと、ラトの胸の内を撫ぜていく。
「……、そうでなきゃ、困る」
 マカオの二人の占い師は、ラトに多くのことを教えた。知識は必ずラトを助ける、よく学び、よく実践なさいと繰り返すように言い聞かせた。ラトも彼女たちの教える事を懸命に学んだつもりではあったが、いざその知識をもとに自らの力で生きなくてはならないとなると、この一月の間、上手くいかずに歯がゆい思いをするばかりなのである。
(それに、……)
 額当ての上から、そっと自らの額に触れてみる。布越しにもわかるその感触は、どうしたってかつてラトに向けられた、蔑みの視線を、恐怖の声を、人々の怒りを思い起こさせた。
(よく利く薬を作っても、それが売れなきゃ収入にはならない。キリに支払う報酬の他に、食費の事も考えなくちゃならないし、今後を考えると、できることなら馬も欲しい。……次の町でこそ、自分の力で、どうにかしなくちゃ)
 弱気になってはいられない。しっかりしなくては。自分の足で立たなくては。自分に何度も言い聞かせた。
 初めて訪れる町の人々は、ラトの素性など知らないのだ。この額の目さえ見られなければ、ラトは誰にとっても、ただの旅人でしかないのだ。
 マカオの町の化け物は、あの時確かに死んだのだ。
 ふと視線をハティアへ戻せば、彼女はうつらうつらとした様子で、ちょこんとその場に座ったまま、目を閉じかけている。借り物の身体とはいえ、日中は急激に気温の上がる砂漠を、狼の毛皮を纏ってゆくのはラトの想像以上に体力を使うものであるらしい。
 「もう眠ろう」ラトが言えば、「うん」と素直な応えがあった。

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