吟詠旅譚

太陽の謡 第二章 // 影、追う『影』

030 : Profectio -1-

 キリはすぐには答えなかった。しかし彼が表情を変えぬまま、いくらか肩をすくめたのを見て、ラトは慌ててこう続ける。
「今は持ち合わせがないけど、その、どうにかしてお金は作る。調剤の知識があるから、旅しながら薬を作って売れば、稼ぎになると思うんだ。それに、あの、途中の町でも、出来そうなことはなんでもする。だから、」
「つまり、その金で俺を雇おうって?」
 問われて、ラトは恐る恐る頷いた。キリの声に、どこか否定的な音を聞き取っていたからだ。そうして彼がラトの右足へ視線をやったのを見て、思わず一歩後へと退く。一方でキリもその理由を察したかのように、小さく溜息をついてみせた。
「都へ行くには砂漠を越えなきゃならない。俺にだって、怪我人を抱えて楽に進める道じゃないのさ。なのにそんな依頼を、報酬が見込めるかもわからねえまま引き受けるわけにはいかないね」
「でも、もう、十分に歩ける」
「道中、獣にでも襲われたら? 俺が、おまえを担いで逃げるのか?」
「け、怪我が治りきってないのは、キリだって同じだ!」
 思わず声を張ってしまってから、ラトは小さく息をのんだ。こんな子供の屁理屈のようなことを言って、一体何になると言うのだろう。だがしかし、ここで簡単に退くことなど出来なかった。拳にぎゅっと力を込め、そうしてキリを正面に見据えると、ラトは「だったら」と、出来る限りの冷静な声音で言葉を続けた。
「報酬が気になるなら、こうしよう。都に着いて、僕が相応の報酬を払えなかったら、その時は僕を売ってお金にすればいい。少し前に、僕を見せ物小屋へ売ろうと言った奴がいた。この化け物じみた目にも、そういう価値はあるんでしょう?」
 報酬の件で承諾を渋られるかもしれないとは、ラトも事前に考えていた。その上で考え抜いて出した条件であったから、ラトにとってはけっして勢い任せに言ったことではなかったのだが、キリはそうとは受け取らなかったようだ。彼は目を丸くして、渋い表情でこう言った。
「馬鹿言え。今更そんな、後味の悪いことが出来るかよ」
「でも、僕には他に、担保にできるものがない。……砂漠越えがどれだけ大変なことかは、ある程度なら話を聞いてる。このまま闇雲に都を目指したって、自分のことも、ハティアのことも、危険に晒すだけだってわかってる。それでも都へ行かなくちゃならないんだ。だから、」
 だから、引き下がれない。
 今、唯一見えているこの道を、みすみす取り逃したりはしない。
「この怪我のせいで迷惑をかけるようなことがあれば、ハティアのことだけ連れて逃げてくれたらいい。僕みたいに、気味の悪いのを人前で連れ歩きたくないと言うなら、途中の町では別行動する。だからどうか、……」
 言って、浅く俯いた。もしかするとこの旅人が懸念しているのは、報酬のこととも、怪我のこととも、別の理由なのではないかと思ったからだ。
(もし途中で、僕のこの目を誰かに見られたら……。その事で、キリまで何か、不利な状況に追い込まれる可能性だってある)
 先日のやりとりがあったから、この旅人であればさもすれば、ラトの目のことなど歯牙にもかけず、依頼を受けてくれるかもしれないと淡い期待を抱いていた。だが彼自身がラトの異形を気にせずとも、周りの誰もがそうとはいかない。そしてキリがその事を気にしているというのなら、ラトにも十分、納得がいった。
――その目さえなければ、おまえと町の子供とどこが違う?
(以前は禍人の言葉に騙された。だけど……)
 川の氾濫に沈んだ、マカオの惨状を思い出す。
 洞の中でラトを守った、青い光を思い出す。
 それを思うと、うまく言葉が続かなかった。そっと足に触れたハティアの鼻先が、今はいくらか、心に刺さる。
 一方でキリは自らの頭を無造作に掻き、短く深い溜息をついた。そうしてぽつりと、こんな事を言う。
「まあ、『丘の化け物』は、俺が退治したんだけどね」
 聞いて、ラトは怪訝に眉をしかめ、首を傾げた。この男が何を言わんとしているのか、今一つ理解が出来なかったからだ。
「退治したことになってる僕と一緒にいるのを見られたら、困るっていうこと?」
「違えよ」
「なら、どういう意味」
「知らね。自分で考えな」
 言ってキリはラトに背を向け、馬へ括った荷物に手をかける。そうして彼は振り向きざま、ラトに向かって何か包みを放り投げた。
 咄嗟に受け取り、ただ視線で問いかける。促されてその荷を広げてみれば、それは、ラトの額当てに似た鶸茶色のマントであった。
「がつがつ働けよ。じゃないと、本当に売り飛ばすからな」
 続いた言葉のその意味を、一度ゆっくり咀嚼する。そうしてラトは、思わずはっと顔を上げた。キリはにやりと笑んでいる。
「実は依頼されなくても、お前達を他の町まで連れ出そうとは思ってたんだ。お前、あの洞で俺の名前を呼んだだろう? 多分そのせいだと思うけど、なんとかって名前の木こりに、俺とお前が結託して、口裏を合わせてるんじゃないかって勘ぐられてね。お前が生きてるって知れたら、俺も困るからな」
 聞いて、ラトはぎくりとした。ダル・ホーキンス。キリの言う木こりというのは、見せ物小屋へラトを売ろうと提案した、あの男に違いない。
「僕が生きていること、勘づかれたの」
 ラトが問うと、キリはまず胸を張って、「まあね。でも、うまいことやったよ」と笑ってみせた。しかしそれへ続いた言葉に、ラトは思わず冷や汗をかく。
「俺がお前をいかに仕留めたか、夢に見そうなほど血生臭く詳細に話してやったのさ。そうしたらヤッコさん、急に俺の話を信じる気になってくれてね。まあ、向こうも洞でのことをあまりおおっぴらに出来ない様子だったし、適当に丸め込んできたんだけど」
 キリは構わず笑顔であった。そうしてラトが思わず鳥肌の立った自らの腕を握りしめたのを見て、「詳しく聞きたい?」と問うてくる。
「い、いらない。聞きたくない」
「そう? 残念だな」
「あんた、悪趣味だ」
「お前は歯に衣着せないね」
 言ってキリが笑みを深め、ラトとハティアに視線を配る。そうして不意に右手を延べて、「キリ・ブラウだ」と改めた。
「丁度、俺も一人旅には飽いたところだ。行こうぜ、ラト。妹に会いに行くんだろ?」
 言われてラトは瞬きする。そうして眉をしかめると、不満げに、「やっぱりあの手紙、読んだのか」と呟いた。
――あれは、お前が自分で受け取った方がいいんだよ。多分。
 そう言って「またどこかで」と笑ったこの男は、恐らくある程度、あの手紙を読んだラトの出方を予測していたのだろう。そう考えると、先程の押し問答も全て見通されていたかのようで、何やらきまりが悪かった。しかしそんなラトの表情を見ても、キリは気遣う様子も、かといって得意げな様子も見せず、ただ、「堅いこと言うなって」と頭を掻く。
「俺があの包みと手紙を見つけてなきゃ、どっちもお前の手には渡らなかったかもしれないんだぜ? 依頼を受けるかどうかの話だって、別に意地悪したわけじゃない。覚悟を問うたまでさ。お前だって、出会って間もない旅人に、同情をかけられたなんて思いたくないだろう。だから、睨むなよ」
「別に、睨んでない」
「じゃ、生まれつきの仏頂面か? ――なんでもいいけど、ま、しばらく一緒に行くわけだしさ。二人とも、せいぜいよろしくやろうぜ」
 キリの笑顔は屈託がない。ラトは小さく息をつき、汗を握った自らの手を服の裾で拭うと、差し出されたその右手を握り返した。しかしキリを習って名乗ろうとして、一瞬そのまま、逡巡する。
 捨て子であったラトにとって、己の名前はばあさまからもらった、『ラト』の二文字が全てであった。自分の生まれた家の名を、今も知らずにいるからだ。
 だが、しかし。
――私達、血はつながっていなくても、ちゃんと兄妹だったよね。
 ニナの言葉が、脳裏を過ぎる。刺すような陽が、ラトの肩にも照りつけていた。
「……、ヘリオス」
「ん?」
 聞き返されて、思わず唾を飲み込んでしまう。しかし一度静かに息を吐き、キリを見据えると、今度はしっかりと力強く、その手を握り返してみせた。
「ラト・ヘリオスだ。キリ、それにハティアも、その、……改めて、よろしく……」
 言い慣れぬ言葉が自らの喉を通っていく。それがなんだか、やけに気恥ずかしく感じられた。
 
 そうして二人と一頭の狼は、マカオの丘を出、この国レシスタルビアの首都である、暁の都を目指す事となった。
 都へ行くには森を抜け、そしてこの国の領土の多くを占める、広大な砂漠を越えなくてはならない。それを思うとラトには身が引き締まる思いであったのだが、キリはあくまでも陽気であった。その事をラトが言うと、彼はまず「そんなに常に気を張り詰めてたんじゃ、疲れちまうしね」と笑ってみせる。
「でもまあ、到着するのはブルの月になるだろうから、都へ近づいてきたら色々と気をつけないといけないかもな。丁度、噂の処刑祭の頃だ」
「……、処刑祭?」
 聞き慣れない物騒な響きに、ラトが思わず聞き返す。するとキリは「ああ」と頷いて、こんな事を話し始めた。

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